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ーー 居酒屋トークの ネタブログ ーー

【大正時代の美人たち】15年間しかなかった短い時代に強烈に輝いた日本の別嬪さんたち その1

< 文明開化の中で育った明治生まれの女たちは みなさんそれぞれ なかなかに男前です! >

いつもの小さな焼酎バーのカウンター。めずらしく女性客が1人もいなくてオヤジ5人でした。


ま、女性客がいようがいまいが、居酒屋トークのネタにさして変わりはないんですけど、マスターがまずこんなことで話題を振って来ました。


「エーイチとシバサブローは何枚か入って来たんだけど、ウメちゃんはまだ見ないんでよね。どう? もうお目にかかった?」


2024年7月3日に新紙幣の流通が始まりましたからね、それから3週間ばかり経ったころです。


「おれはあれだ、シバサブローだけだな。エーイチもウメちゃんもまだ会ってない」


「おれもウメちゃんは見てないな」


1万円札、5千円札、千円札が同じボリュームで同じ時期に出回るものなのか分かりませんが、ウメちゃんに会ったことのあるオヤジはその場に1人もいなかったんであります。


だからなに? ってことなんですけどね、女性客がいないタイミングだったもんで、話の内容が妙な方向にズレていきます。


「ウメちゃんってさ、美人だったからお札の顔になったの?」


「んなことないでしょ、美人かどうかでお札に選んでんの? それ、ハラスメントになるよ。なにハラか分かんないけど」


「ウメちゃんって、津田塾大学を始めた人なんだよね」


「そうそう、ネットに載ってた。今の5千円札の樋口一葉っていう人は作家さんだよね」


「どっちも明治の人なのかな?」


「ん~。そうなんじゃないかなあ」


樋口一葉の方が美人な気がする」


「あのね、なんでお札の顔が美人かどうかにこだわってんの?」


「いや、こだわってるわけじゃないんだけどさ。こないだ話したじゃん、世界三大美人に小野小町が入ってるのって日本だからじゃないのって。あれ以来、なんだか美人の定義? みたいなのって時代と地域によって違うんだろうなあって思ってるんだよね」


「世界三大美人ってさあ、美人にダイを付けてまとめちゃうのって、どうなんだろね」


「三大なんとかっていっぱいあるから、その流れでダイって言っちゃってんだろうね。美人に大も小もないだろうにさ」


「明和三美人っていう浮世絵があるね。あれはダイが付いてない」


「明和っていつ?」


「さあねえ。江戸時代だろうけど」


「美人なの? その明和の三人」


「浮世絵だよ。みんな同じ顔にしか見えない。昔の人っていうか江戸時代の人たちって、あれで区別出来てたのか、不思議なんだけどね」


「いや、そもそも美人っていうのってね……」

 

 

 


と、ドアベルがカラカラ~ンって鳴って、


「2人で~す。空いてますかあ~?」


と、女性の声。


で、美人談義は中途で終わったんでありますが、前回に繰り広げられたという世界三大美人の話題の時は加わっておりませんでしたので、今回はその辺から調べてみました。


でもなんで女性の前では美人談義をしないのか。よく分かりませんけど、ま、普通、しないですね。
政治と宗教の話、そして女性の美醜の話。しないです。


全くしないってわけじゃなくって、盛んに大声張り上げてそういう話題をしている人も、たまには、いますけどね。


さて、こういうブログなんかではあんまり気遣いなくできる、だろうところの、美人の話です。


確かにですね、世界三大美人って普通に言ってますけど、美人っていうカテゴリに「大」が付くのって妙なことではありますよね。
世界三美人でイイんじゃないかと。。。


小野小町については、日本で言われる世界三美人だからであって、諸外国だとそうは言わない。
だいいち小野小町を知ってるわけがないですね。


日本でいう世界三美人は、小野小町クレオパトラ7世、楊貴妃の3人ってことになってます。


そんでもってヨーロッパでは当然のことながら小野小町じゃなくって、地上で最も美しい絶世の美女、ギリシャ神話のヘレネだそうです。


うんにゃ、違いまっせっていう説もあって、そもそも世界三大っていうカテゴライズからして日本固有のものでしかありませんよ。諸外国で三大美人とか、そんなキケンなことは言わない。


そういう意味では日本のオヤジたち、アホでしょ!
ははあ~んなるほど、そういうものかもですねえ。っとあっさり納得。


美人とされる人達の時代がそもそも比較対象として無理がありそうですし、ヘレネって神話ですもんね。


世界三大、なんていうことを並べて喜んでいるのは日本独特のこと、なのかもです。


その日本の中で「三美人」なんてのを言い出したのは、どうやら江戸時代の出版屋みたいですね。当時のグラビアアイドルってことなんでしょねえ。商売です。


江戸時代の明和期(1764~1772)、将軍は徳川家治。この明和の三美人っていうのが、鍵屋お仙、本柳屋お藤、蔦屋およし、なんだそうです。


この明和の三美人には明確な順位があるそうで、ダントツの1位は鍵屋お仙。


江戸は谷中の笠森稲荷。その門前にあった水茶屋「鍵屋」の看板娘。笠森お仙っていう名前でも知られていたみたいです。


誕生没年も割合ハッキリしていて、笠森お仙は生まれが1751年で、死没が1827年
76歳でお隠れになったようですが、いくつまで看板娘を務めていたんでしょう。


水茶屋っていうのは今でいう喫茶店みたいなもので、アルコールを提供するような店じゃなかったらしいんですが、看板娘を置くことが定番になっていて、その看板娘に会うために、っていうか一目見るために男どもが集まったんだそうです。


ま、昔から商売っていうのはそういうもんなんですねえ。

 

左側の人が 笠森お仙 でしょねえ


で、第2位が浅草の楊枝屋「柳屋」で働く柳屋お藤。


楊枝屋ですか? って思っちゃいますけど、黒文字とかそういう高級なヤツなんでしょう。


江戸時代の柳屋では楊枝の他に、お歯黒に使う「五倍子(ごばいし・ふし)」、酒に浮かべると花や鳥の姿にふくらむっていう「酒中花」とかも扱っていたらしいです。


そういえばお歯黒って今ではすっかり忘れられていて、江戸の時代劇なんかでもさっぱり出てきませんね。怖いですしね。なくってイイですけど。


お歯黒も含めて、江戸時代っていろいろな細工物、不思議な品物を商っているんですよねえ。


そんでもって第3位が、やっぱり浅草の二十軒茶屋「蔦屋」の看板娘「蔦屋およし」


二十軒茶屋っていうのは、浅草寺、雷門を入って真っ直ぐ、仲見世を抜けてすぐから当時の仁王門、現在の宝蔵門辺りまで二十軒の茶屋が並んでいたのをそう呼んだらしいです。


その二十軒並んだ中の蔦屋の看板娘が明和三美人の第3位、およし。


これが三美人の始まりかどうかはわかりませんが、記録に遺っている確かなところでの最古が明和の三美人だとして、三人とも看板娘。商品を売らんがためのサービスニッコリ、だったんでしょねえ。


まあ、ニッコリしないところがミリキです、なんてこともあったのかもですけど。

 

 

 


江戸時代の年号、明和を過ぎて安永、天明ときて、次が寛政(1789~1801)です。将軍は徳川家斉
寛政の三美人っていうのも知られています。


安永、天明期に美人はいなかったのかっていうと、まさかそんなことはないんでしょうけれど、難波屋おきた、高島屋おひさ、富本豊雛(とみもととよひな)が寛政の三美人。


寛政の三美人には順位付けみたいなものはなさそうです。


難波屋おきたは浅草寺地域にあった茶屋の看板娘ってことなんですけど、二十軒茶じゃなくって浅草地域のっていうふうに記録されているみたいですから、違う店なんでしょうね。でも茶屋です。


高島屋おひさっていうのは両国の水茶屋の看板娘で、煎餅屋高島屋の長女。


高島屋さんの多角経営なんでしょうね、本店の煎餅屋っていうのがどこにあったのかは不明。でもまあ、近くでやってたんでしょうね。


親の目の届かない所に娘を働きに行かせたりしないでしょ。ましてや三美人にピックアップアされるような別嬪さんです。


富本豊雛っていう人は、浄瑠璃、富本派の名取で浅草の芸者さん。


看板娘じゃない美人さんが初めて登場しているのが寛政の三美人。


でもまあ、なんにしても直接、自分の商売のために自分の美貌を役立てようとしたところと、それを版画に仕立てて売り出した版元の思惑が一致しての「三美人」なんですねえ。


明和期が8年間。寛政期が12年間。
そういうスパンだからこそ〇〇の三美人っていう言い方が成立するんでしょうね。


明和三美人のトップ、笠森お仙は明和期を13歳から21歳までで暮らしています。めっちゃ若いです。


寛政は1801年に享和になりますが、それから63年、1864年、元治元年に津田梅子、ウメちゃんが誕生しています。なんとウメちゃんとか気安く呼んでおりましたが江戸時代の生まれだったんですねえ。


ウメちゃんの先代の5千円札、樋口一葉は1872年、明治5年の生まれだそうですからウメちゃんの8つ下。


1929年、昭和4年に没する津田梅子に対して樋口一葉は1896年、明治29年に24歳で亡くなっています。


1894年12月から1896年2月までが「奇跡の14か月」って呼ばれる11もの名作を書いた期間ですね。


樋口一葉が亡くなってから16年、日本は大正時代に入ります。
1912年7月30日から1926年12月25日までの14年半が大正時代。


昭和っていう長い時代を経験している、あるいは知っている世代からしますと、大正時代っていかにも短いですね。


この短い大正時代って、日本女性がなんだかカッチョイイんです。


大正三美人っていう取り上げられ方もしていて、それは、九条武子、柳原白蓮、江木欣々の3人。


いやいや、それは違いますよ。大正三美人っていえば、九条武子、柳原白蓮、林きむ子の3人です。


意見が分かれているみたいなんです。


なんかね、だったら大正四美人でイイじゃんっていうふうにも思いますけど、ヨンビジン、シビジンじゃ語呂的に良くないですかね。


どっちにも入っている九条武子、柳原白蓮(びゃくれん)っていう2人の美貌は相当なレベルなんでしょうね。


九条武子は明治20年(1887)生まれで、昭和3年(1928)没。


西本願寺の次女として生まれて、1909年、22歳の時に九条良致男爵と結婚しています。
大正時代は25歳から39歳ですね。
美貌、絶頂期でしょかねえ。才色兼備の歌人として有名だったそうです。


西本願寺仏教婦人会連合本部に所属していた九条武子は、1910年、明治43年に京都高等女学校の創立に尽力した教育者でもあったそうです。現在の京都女子大学


津田梅子が津田塾大学の前身である「女子英学塾」を開校したのが1900年、明治33年のことですから、明治時代の終わりにかけて日本の女子教育熱っていうのが盛り上がっていたんでしょうね。


九条武子のこだわりは建学の精神にあって、津田梅子の女子英学塾にみるようにキリスト教の精神に倣うのではなく、仏教精神によって立つことが肝心。そこにこだわった。


「家政及び国漢文、歴史、外国語等教科を設くる所以、教育設備の、女子に薄くせざるの意を拡充し、勉めて常識の発達、趣味の養成、徳性の涵養を図り、女子の職分を尽くさしめて、国体の精華を発揮せんと欲するに在り」


ってことなんですねえ。1910年、この時、九条武子、23歳。
なんか凄いなあって思います。


海外遊学とかで夫と離れた生活をしていた時期もあったそうですが、聖女として一生を過ごしたとされています。


いや、実は幼馴染の恋人がいたっていう説もあるにはあるんですけどね。
その辺りをツッコむのは大きなお世話ってもんでしょねえ。


江木欣々(きんきん)、本名、江木栄子は明治10年(1877)生まれで、昭和5年(1930年)没。


初代愛媛県知事、関新平の妾腹の子で、養女に出されて後、新橋で半玉、芸者さんの見習いをしていたそうです。


16歳の時、九州の有吉立愛男爵に落籍されて正妻になったものの、1年後に男爵が死去。


花柳界に戻って神田明神下、あるいは新橋の芸者になると、その美貌で大人気。


弁護士たちの宴会に呼ばれた席で、昔の顔馴染みでもあった江木衷(えぎまこと)と出会ってすぐ結婚。


欣々は文芸、音曲、なんでも器用にこなして社交界の人気者になって、避暑地軽井沢での乗馬姿は土地の名物として知られたほどだったっていいます。
姿も美しかったんでしょうねえ。


夫婦仲も良かったんでしょうけれども、大正14年、1925年に江木衷が死去すると、5年後、首を吊って自死してしまったんですね。53歳。


大正時代は35歳から49歳。
女式柔術、十剣大神流の免許皆伝でもあったそうです。


柔術? って思いますけど、明治時代に女子柔道のブームっていうのがあったそうですからね、その流れなんでしょうね。

 

 

 


林きむ子、本名、林きん。明治17年(1884)生まれで、昭和42年(1967)没。


82歳というこの時代にあっては長生きした方だと思いますが、大正時代は28歳から42歳。


狂言浄瑠璃の祖といわれる男を父に、初代女義太夫を母に、柳橋に生まれているんですね。


7歳で新橋の料亭「浜の家」の養女になると、9歳で藤間流、11歳で西川流の日本舞踊を身につけて、三味線、生け花、茶道、ありとあらゆる芸事をものしたっていう才女。上流階級の集まる料亭での人気は知らぬ者のないほどだったみたいです。


17歳の時、代議士でクリスチャンの日向輝武と結婚。


1905年には赤坂から田端に、購入した3000坪の「田端御殿」に引っ越しして、何不自由ない暮らしぶりだったようです。


ところが1914年、第2次大隈内閣の時、閣僚と衆議院議員の間の贈収賄疑獄「大浦事件」に巻き込まれる形で日向輝武が逮捕、収監され、1918年、獄中で精神錯乱になってしまってそのまま没したそうです。


林きむ子30歳の時のことですが、「田端御殿」を売却したきむ子は芸者に戻ることはなく、実業家として化粧水「オーロラ」を開発して、本郷に「瓢々堂」っていう化粧品店を開店しています。


きむ子の美貌こそが最大の宣伝効果を上げたんでしょうね。かなりの評判だったそうです。


その「オーロラ」の研究開発を手伝っていたのが薬剤師、林柳波。
1892年生まれの林柳波はきむ子より9つ年下。


大正8年、1919年、日向輝武の死から1年も経たないうちに、6人の子どもを抱えたまま、きむ子は林柳波との結婚に踏み切ります。


美人で御殿暮らしをしていたのに、旦那さんをあんな形で亡くしてしまってお気の毒に、っていう世間の同情は、この結婚によって一気に悪感情にかわってしまって、当時のスキャンダルになったそうです。


でもまあ、大正時代を力強く華々しく生きる女、林きむ子本人にしてみれば、

 

「へんっ、なに言ってやがんだい!」

 

くらいな感じだったかもですねえ。


地に足のついた人だったように思えます。


大正13年1924年には西川流の名を返上して児童舞踊や創作舞踊を中心とした林流を創始して、多くの作品を発表しています。
八面六臂。


1966年に勲五等瑞宝章受章を受賞しています。


しかしまあ、大正時代を強く生き抜いた美人たちは、実になんともパワフルですね。


フェミニズムとかそっちの方向に力強いんじゃなくって、世間と闘う個人としての姿勢がカッコイイ!


調べてみるまでは聞いたことのない女性たちでしたけれど、大正三美人のうち残る1人、柳原白蓮っていう名前、これはなぜだか知っています。っていうか聞いたことありますねえ。


ナニモノだったんでしょう。


っていうわけで、話は柳原白蓮に移っていくんですが、長くなりましたので、次回へ回させていただきます。


次回もまたよろしくお頼み申しますう。

 

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