<手書きで続ける3年日記 10年日記 という日記帳 日記ブログと何が違うのか>
新型コロナウィルスの感染は第4波らしいですね。ちっとも治まる気配がありません。
テレワークやら外出自粛やらで「巣ごもり生活」が日常になってしまっています。
「巣ごもり」なんて言うからマイナスイメージを持ってしまうんだ。「おうち時間」って呼んで、楽しく過ごすように工夫するのがストレスなく暮らす知恵でしょう。だとかいう言う人も出てきていますね。
もう1年以上続いていますし、まだまだ終わりそうにない「おうち時間」です。
独り暮らしでも、夫婦でも、家族でも、みんなそれぞれの生活を工夫して、新しい習慣に馴染み始めているんだと思います。巣ごもりと言おうが、おうち時間と呼ぼうが。
銀座を本拠地として横浜、京都などに12店舗を展開する人気文房具店「伊東屋」では、日記帳の売り上げが前年を20%上回ったというニュースがありました。
「おうち時間」で日記を書く人が増えているってことですね。
ま、昔から日記を書いている人は居ましたです。なんなら日記をつけることを提唱するガッコのセンセとかも居ましたですよ。
三日坊主という言葉が使われるのは、日記を続けられないことに対しての表現がしっくり来るような気がします。
立派な日記帳を買ったんだけど、結局、三日坊主で終わってしまう。そういう人が多いのも事実だそうです。
書き続けるのは、しんどいんです。よね?
でも、人は何故、日記を書くんでしょう?
世界の中で日本人は特に「日記好き」なんだそうです。へええ、って思いますが、確かに年の瀬に近くなってくると、書店や文房具店に色とりどりの日記帳が並んではいますね。
伊東屋にも、日記コーナーができます。毎年。
元々確実な日記帳需要があって、コロナ禍で「おうち時間」が増えたら、そのニーズが20%も増えたっていう現象は、コアな「日記人」の他に相当数、潜在的な「日記人予備軍」がいるってことが推測されます。
でも、日本人が特に日記好きな国民性だっていうのはホントなんでしょうかね。
「欧米諸国と異なり、夜寝る前の神に対するお祈りがないから」
という説もあります。
確かにね、日記を書くのって夜、寝る前っていうのが多いかもですね。
その日の終わりに、一日を振り返って、その日の行動、出来事、頭に去来した思いや考えを記録する。それが日記。
でも、欧米諸国の人たちって、寝る前にお祈りしている人、そんなにいっぱい居るんでしょうか。かなり前の説なのかもしれないですね。
太平洋戦争中に日本兵が書き続けていた日記は、かなりの数が確認されていて、研究者によってさまざま分析されているようです。
日本人が日記好きだと言われるベースになっているエピソードですが、周りの人間を思い浮かべてみても日記をつける習慣を持っている人って、なるほど少なくないかもです。
誰が日記を付けているといっても、驚かない、不思議じゃないです。
「男もすなる日記というものを 女もしてみむとてするなり」で始まる紀貫之の「土佐日記」
あんたオトコじゃん、ってことはおいておきまして、
日記って「蜻蛉日記」「更級日記」「十六夜日記」とホント古い時代からたくさんありますね。
日記文学っていうジャンルになってるぐらいですもんね。近いところでは「断腸亭日乗」っていうベストセラーもあります。永井荷風。
ここで考えてみたいのは、銀座伊東屋の売り場から日記帳を買っていく人の書く「日記」と、「断腸亭日乗」は同じなのか、あるいは何が違うのか。
さらには「ブログ日記」と比べてみたらどうなのか、ってことです。
「ブログ日記」と呼んだり「日記ブログ」と言ったりしますが、一定数、そう自称しているブログがありますもんね。ブログの世界にも「日記人」が居るってことです。
手書きなのか、キーボード入力かっていう違いも、日記を続けるにあたってなにかしらの影響があるんだろうと思いますが、ここでは置いておきます。
すぐに思い浮かぶのは、その日記の内容が、自分だけに向けたものか、他人が読むことを前提にしたものかという違いですね。
日記帳に書き綴っていく内容は、確かに公開されませんからね、自分のために自分で書くということが言えそうです。本来的にはね。
ただ、日記ブログを運営している人の中にも「自分だけのために」という断り書きがしてあるものも散見されます。公開を目的としていません、という公開文。
日記を書く媒体としてブログを利用しているのであって、銀座伊東屋で売られている日記帳の代わりがブログなんですよっていう主張。
でもどうなんでしょうね。誰でも自由に、いつでも閲覧できる媒体での個人ユース。しかもたいていのブログサービスでは、その内容を一般公開するか、自分専用だとか限定公開だとか、自由に選択できるはずだと思うんですがね。
自分だけのために、とはいうものの、ちゃんと他人の目を意識した書き方になっているんじゃないでしょうか。
この辺りの意識って、案外、本人でも判断するのが難しいものなのかもしれません。
日記の文体。
例えば「断腸亭日乗」は明らかに他人に読ませるための文章だといわれています。
そりゃまあ、永井荷風という大作家の書く日記ですからね、どういう意識で書かれたものであったとしても、自分以外の、日記を読む他人の存在が常に意識されていただろうことは間違いないでしょう。
ただ、作家という職業もその時代に認められた結果としての「お仕事」であって、変な言い方ですが「一遍も売れない作家」という存在。書いてはいるけれども世間から見向きもされないという「作家」もありとすれば、日記を書いている人は全員が作家予備軍であるということも可能なのかもしれません。
残っている「日記」もいろいろです。
樋口一葉の「樋口一葉日記」という「作品」は公開を想定していないもののようにも感じられますし、いやいやそう思わせるのが作家の技なんですよ、って言われればそうなのかな、とも思います。
「断腸亭日乗」「樋口一葉日記」「日記帳に綴られる日記」「日記ブログ」
他人に読ませるつもりはないとして、ではなぜ書くか。あとから自分で読むため?
それもあるでしょうけれど、特に「日記帳に綴られる日記」「日記ブログ」に顕著なのは「自分を見つめるため」なんじゃないでしょうかね。
頭の中の思いを文字にすることが「書く」という行為なわけですが、書くことによってしか見えてこない事が意外にたくさんあるように思います。
書かなければ意識できないこと。書き言葉に特有の認識力。
話し言葉、書き言葉という違いではなく、書くことによってしかはっきりさせられない考え、思い、感情。
寝る前に日記を書くのは、自分を静かにさせる、落ち着かせる工夫なのかもしれません。
「欧米諸国と異なり、夜寝る前の神に対するお祈りがないから」
この説を日本人向けにアレンジするとすれば、日本人にとって日記は「アイデンティティの確認」と言えないこともない。そんな気がします。
なんでもかんでも開けっぴろげに言うことは難しくないですが、包み隠さず書くというのはかなり難しいことなんじゃないでしょうか。不可能とさえ思います。
書くとこは楽しい、好きだ、でも難しい。だからこそ書くっていう人も少なくないですよね。
とくにブログを運営している人はみんなそうなんだと思います。
なぜ書くか、ということを突き詰めるのが大事なんじゃなくって、とにかく書くということが肝心。
そういう思考回路じゃない人は、なにも無理して日記であれブログであれ、書く必要ないと思いますけれど、ブログをやっているみなさん、書きましょう。書き続けましょう。
私自身もこうしてブログを書いているからですが、書くという行為は「自分を見つめるため」「アイデンティティの確認」だと思っています。日記という形式じゃないですけれどね。
っていうか、この結論めいた内容も、今こうして書くことによって生まれた自分なりのものだったりするわけです。悪くないと思います。
いや、この結論めいた内容がじゃなくって、書くこと自体がです。
日記帳に手書きで書くことと、日記ブログを両立させているような猛者もいらっしゃるかもですねえ。
日記ブログじゃ稼げませんよって御意見があります。
御尤も、なのかもしれないですが、収益を一番に考えず、自分のために自分の書き言葉で書くっていうのは、暮らしていくうえで重要なことだろうと思いますよ。
特に女性にとって、PMSの自己管理として「日記」は有効だそうですよ。
それはそれとして、ん~。当ブログは収益化を考えてはいますが、さっぱり、です。
それはそれで、なんだかなあ、ではあるんですがね。。。
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