< 紫檀木画槽琵琶 白瑠璃碗 とともに古代ペルシャからやってきた言葉? >
先日、ラジオでサヘル・ローズさんが、
「ちゃらんぽらんって言うじゃないですか。イランでもちゃらんぽらんって言うんですよ。発音も意味も同じなんです」
って言っていました。
ほええ~、です。
サヘル・ローズさんって理知的な感じのベッピンさんですけれど、必ず1回は、しょうもなっ! ていうギャグをかましてくる、なかなかオチャメな面も見せてくれますよね。
あれって、彼女のサービス精神から出てくるもんなんでしょうかね。
ホント、しょうもなっ! っていう、その、しょうもないトコが楽しいんでしょうか。
平然としてしょうもないことを言う、アンバランスな感じも彼女の魅力の1つってことなのかもしれません。
にしても言葉っていうのは面白いものです。
とくに「ちゃらんぽらん」なんて、オノマトペなのかって思うぐらいに擬音っぽい響きがありますよね。
そんな単語がイラン語、っていうかペルシャ語と発音も意味も同じって、なんかね、特別なつながりがあったりするんじゃないかって考えてしまいます。
で、他にもありました。日本で浸透しているペルシャ語。
「パジャマ」
え? パジャマって英語じゃないの? ですよね。
寝るときに着る、上下にわかれた洋服。日本で使われていたのは「寝巻」だったわけですから、英語圏の風俗として入って来たんだろうって思えます。
日本で言うパジャマは英語で間違いないでしょう。
ですが、英語のパジャマの語源はヒンディー語の「パージャーマー」だそうで、インド周辺の民族服の呼び名らしいです。
パージャーマーは民族服のズボンのことで、上衣は「クルタ―」
クルタ―とパージャーマーで1セットって言うことになるわけですが、英語圏での寝衣のズボンの形や、装飾の流行りがパージャーマーに似ていたりとかして、パジャマになったのかもですね。
で、そのパージャーマーの語源がペルシャ語。
ペルシャ語で足をパ、布をジャマって言うんだそうで、足にまとう布、がパジャマ。
っていうわけで、ペルシャ語 ⇒ ヒンディー語 ⇒ 英語、から日本語のパジャマです。たぶん。
「バザー」
パジャマと同じ経路ではないでしょうけれど、これもペルシャ語の「バーザール」から英語の「バザール」を経てバザーです。
イスラム圏では「スーク」とも言うそうですが、バーザールもスークも正規の市場って意味らしいです。日本で言うバザーって、正規の商品取引っていうより、慈善的な販売って感覚になってますよね。
最近はバザーっていうより、フリマ、フリーマーケットっていう方が通りがいいかもしれませんね。
この他にもいくつかあって、
ペルシャ語の「カールバーン」が「キャラバン」そして「プスト」が「ポスト」
日本には英語から入ってきている言葉のように思えますが、ペルシャ発祥の文化って、意外に多くあるんですよね。
ここ最近はコンビニに圧される格好で姿を消しつつある駅の「キオスク」ですが、元々はペルシャ語で、「宮殿」っていう意味だそうです。
古代の世界帝国ですからねペルシャって。そういう影響力が有ったって不思議じゃないですもんね。ペルシャって、好い響きだなあって思います。
で、肝心の「ちゃらんぽらん」なんですが、ペルシャ語とか全然関係あらへんねん、っていう説もあります。
大阪弁。
「ちゃらほら」から転じて「ちゃらんぽらん」になったっていう説ですね。
ちゃらほらっていうのは「でたらめなウソ」ってことらしいです。
ちゃらんぽらん大阪弁説も、ほう、そなんですかって感じで、別に疑うようなところも無いように思えますが、だとしても、ペルシャ語のちゃらんぽらんと、発音、意味が同じってことを否定することにはなりませんよね。
奈良の東大寺、正倉院の宝物に古代ペルシャのササンガラス「白瑠璃碗(はくるりのわん)」や、同じく古代ペルシャ起源とされている「紫檀木画槽琵琶(したんもくがそうのびわ)」があります。
シルクロードを通ってペルシャ文化っていうのが相当古くから日本に入ってきているってことみたいです。
古代の交際交流で、直接ペルシャの人が日本に来ていたかどうかは知る由もありませんが、ガラスと一緒にちゃらんぽらんも入って来たってことはありませんかね?
なんだかええかげんなことやってますねえ、ちゃらんぽらんですねえ。
は? ちゃらんぽらん? そらおもろい表現でんなあっていうコミュニケーション。
外国から奈良の都に入っていくのに、最初に足を踏み入れるのは大阪湾だったでしょうからね。
ちゃらんぽらんを最初に聞いて、最初に使い始めたのは大阪人、ってこともあり得そうです。
ちゃらんぽらんの説明をみてみますと「でたらめな言動」「無責任なこと」っていうことになってますね。
でもなんか、日本での使われ方はちょっとニュアンスが違うように感じますねえ。
ちゃらんぽらんなヤツ、っていうときに、その相手に対する悪意ってそんなに強くないような気がします。
なんでかっていうと、その「でたらめ」な行動に計算がなさそうな時に「ちゃらんぽらん」っていう表現をするように思うからなんですね。
悪意を持ってわけのわからないことをやってしまう。当人は一所懸命にやって、辻褄が合わなくなってしまっていることに気が付いていない。
なんだか達成感を感じているような顔までしている。
結果的な言動不一致。
それって救いようがないってこと? いえいえ、そういう人間関係にはなっていないんじゃないでしょうか、たいていの場合。
ちゃらんぽらんを指摘されると、ありゃあ! ってなってませんか、そのちゃらんぽらんの当人。
「オレ、なに言ってんだ」
「アタシ、なに言おうとしてたんだっけ?」
どこでボタンを掛け違えたのかなっていう反省。
でもなんだか、やってしまったことはしょうがないよねえ、っていうポジティブシンキング。
その時の当事者としては、コンニャロって思いますが、悪気が無さそうなだけに、どこか憎めない「お仲間」としての付き合いが続いていく。
ま、言ってることとやってることが全然チャウやろ、って人は実は少なくない感じもします。
日本人とイラン人に限ったことじゃないですよね、ちゃらんぽらんって。
英語やフランス語ではなんと言うんでしょうか。
ダメなヤツ、っていう判断が正しいものだとしても、そういう相手との付き合い方を知っている。
ちゃらんぽらんなヤツだなあ、バカだなあっていう人間も自分の隣人として普通に暮らし行く。
別に好きになる必要はないんだと思うんですが、排除するような接し方じゃなくって、ケンカしながらでも相手を認めるっていう生活習慣。
だって、みんな、それぞれ違う人なんだし、それぞれ別々にいきているんだから。
相手を隣人として、1人の独立した人間として、多様性を含めて認識している。それが「世間」
そういう感覚が、ここ最近、特に薄れてきているように感じる事件が目立ちますね。世界レベルでね。
サヘル・ローズさんの生い立ちとかを聞くと、かなり衝撃的です。
イランで生まれて戦争孤児になって、施設に入って、やがて運命的な養母に出会う。
で、日本に来て大人になって、国際的に活躍している女性ですね。
他人に対して、ちゃらんぽらんを許容しているような気持ちの大きさ、クレバーさを持っている人のように思えます。
しょうもなっ! っていうギャグは、その凄すぎる立派な活動を、ちゃんと普通の生活範囲に収めるための工夫なのかもしれませんけどね。
ちゃらんぽらんな人じゃ、絶対ないですね。知らんけど。
日本の我々も、ああいうウェルネス、見習いたいと思います。ギャグ以外ね。