< 先人っていったって あれですよ あのルネ・デカルトさんですよ 知らんけど >
「われ思う、ゆえにわれ在り」だっけ?
ん~。あんなあ、そんな眉間にしわ寄せて考えるようなことしてたらな、四角い屁ぇ出んで。
四角うなったら痛いで、いろいろと。
ってことでありましてね、今回もひとつ、よろしゅうお頼ん申しまっ。
こうして怒られるようなことを、わざわざのっけからかまさない方がよろしいってことは重々承知しているつもりなんでございますが、まあ、なんと申しましょうか、サガなんでございましょうね。
なんでそうする? そですね、これがコギト・エルゴ・スムってやつですね。
なんでわざわざラテン語で言う?
ってことになりますとコギト・エルゴ・スムのコギト・エルゴ・スムってことに相成りまして、こうした入れ子状態は何段階も可能でございましてね、あとから回収するのが大変なことになりますよ。
ああね! ぐらいのザックリ感で捉えておけばよろしいのではないかと。
でも今回、ソコソコ重いテーマ。になるかもです。
でもまあ、能天気オヤヂの言う重さではあります。はい。
関係あるような無いような話からなんでありますが、日本人のノーベル文学賞受賞者ってのをご存じでしょうか。
はいはい、みなさんとっくにご案内のことかと存じます。
1968年に受賞したのが「川端康成」
「日本人の心の精髄を、すぐれた感受性をもって表現、世界の人々に深い感銘を与えた」ってことで受賞の運びと相成ったわけでございますが、このセンセはなんかいろいろと考えることが仕事、みたいな部分のあった人なんだそうですね。気難しい男。
まあね、作家っていうのは誰でもそうしたものなのかもしれませんですけれどね。
色っぽい方面の話もあったりなんかするみたいですけど、受賞講演では「美しい日本の私―その序説」っていうのを日本語でやったそうですね。
「美しい日本」っていうのは、道元、明恵、西行、良寛、一休さんたちの和歌を引用して語られたみたいで、こうした名前を並べられますと、日本人ってみんな良く考えて暮らしてきた感じがしてきます。
まあね、エライ人たちは、ってことになるんでしょうけれどねえ。
この講演はなかなか評判だったらしいですよ。
川端康成は東京帝国大学文学部国文科卒の人ですが、2人目のノーベル文学賞受賞者は、東京大学文学部仏文科卒の「大江健三郎」です。
大江健三郎は1994年の受賞なんですが、「詩的な想像力によって、現実と神話が密接に凝縮された想像の世界を作り出し、読者の心に揺さぶりをかけるように現代人の苦境を浮き彫りにしている」っていうのが受賞理由です。
その受賞講演は「あいまいな日本の私」
26年前の川端康成の「美しい日本の私」にあやかった感じでしょうかね。
大江健三郎っていう人もまた、当たり前といえば当たり前なんですが、考える人、思う人ですね。
「あいまいな日本の私」っていうのは、大江健三郎独特のユーモアセンスって言えるのかもですけど、「美しい日本の私」との比較で考えてみますと、川端康成の方は、美しいっていう形容は日本にかかっているって思えますよね。まさか「私」にかかっている言葉だとは考えにくいです。
それに対して大江健三郎の「あいまいな日本の私」っていうのはどうでしょう。
あいまいっていう形容は「私」にかかっているようにも思えますけど、さにあらず、やっぱり「あいまいな日本」っていうことを痛烈に言っているんでしょうね。
「言葉によって表現する者と、その受容者とを、個人の、また時代の痛苦からともに恢復させ、それぞれの魂の傷を癒すこと」こそが自分の、小説家の仕事だって言ってますからね。
重たいことを考えておられます。
イデオロギー寄りの哲学を、けっこうくどくど語る人だなあって印象があります。
私生活にいろいろと苦い環境を持っている人でもあります。作家としてだけでなく、必然的に考えざるを得ないって宿命みたいなものがあったりするのかもしれません。
1995年の「燃えあがる緑の木」を書き上げて小説は止めたって宣言したんですけれど、友人の音楽家「武満徹」が病没して思うところがあったんでしょうね、1999年に「宙返り」を発表して自身の小説家としての「レイト・ワーク」を開始していますね。
レイト・ワークは内容の重いものばっかりっていう印象です。
ところで、日本人のノーベル文学賞作家っていえば、川端康成、大江健三郎の2人なんですが、実はもう1人、長崎出身のイギリス人がいます。
両親ともに日本人で、6歳までを長崎で過ごした「カズオ・イシグロ」
2017年にノーベル文学賞を受賞しています。
「壮大な感情の力を持った小説を通し、世界と結びついているという、我々の幻想的感覚に隠された深淵を暴いた」っていうことでの受賞となったんですが、前年、2016年のノーベル文学賞受賞者は「ボブ・ディラン」
カズオ・イシグロはそのことをとっても喜んでいたそうです。
川端康成、大江健三郎、カズオ・イシグロの3人に絞って言いますと、カズオ・イシグロが最も小説らしい小説を書いているんじゃないかっていう感想です。
信用できない語り手! っとか、なんじゃそりゃっていう語り口の作品もあります。面白いです。
大江健三郎に戻っての話になりますが、ゆかり夫人の兄が「伊丹十三」なんですね。
1997年に謎の死を遂げています。
日本映画界にとっても大変大きな損失でした。
2000年に「取り替え子(チェンジリング)」2002年に「憂い顔の童子」2005年「さようなら、私の本よ!」と旺盛な小説活動の成果を発表しているんですが、この3部作の主人公の名前を「長江古義人(ちょうこうこぎと)」というんですね。
コギトです。
小説の役どころとしては老小説家ってことですから、大江健三郎自身をモデルにしているってことなんでしょう。
小説家大江健三郎、集大成としてのレイト・ワークそのものが大江健三郎の「コギト・エルゴ・スム」なんだってことが言えるかと思います。
この3部作の途中の期間には、2001年の「アメリカ同時多発テロ」っていう悲惨な出来事もありました。
そして2011年の「東日本大震災」が起こると、2013年「晩年様式集(イン・レイト・スタイル)」を発表していますが、この長編小説の主人公も「長江古義人」です。
21世紀は世界、日本にとって、新たな時代への転換点になっているのかもしれませんよね。
今回のウクライナ侵攻みたいな蛮行は、明らかに前時代的な愚行ではあるんですが、あるゆる国際組織は、自分たちの存在意義を考え直す必要があるんじゃないでしょうかね。
世界大戦を望む人なんて居るわけもないんですが、思う、訴える、非難するってだけでは救えない生命のなんと多いことか。なんと虚しく、悲しいことか。
「コギト・エルゴ・スム」もイイですが、考えて、そしてやるべきことをやって来なかった。
「西側」って言われる中に、なんとなく入っている日本人全員もそうなんですよね。
「コギト cogito 我思う」「エルゴ ergo 故に」「スム sum 我在り」
っていう言葉が、デカルトの言い表した正確な言葉じゃないとか、その言葉こそが命題なのであって、何も結論を言っているわけじゃないとか、そうした20世紀的思考段階から抜け出さないといけないタイミングなんだと感じます。
コギト、思うって訳されていますけど、考えるっていうより「疑う」っていうニュアンスみたいですよ。
国連とか、今、あれ? ってなってるのが現状なんだから、世界組織は一旦解散して、即座に考え直して必要なものだけを必要な人材だけで再興すべきだと思います。
核戦争を伴った世界大戦は避けられていても、あまりにも理不尽な大量殺人を止められないっていうことには、地球人全員が人口分の1だけの責任を負っていることなんですよね。たぶんね。
「コギト・エルゴ・スム」を個人レベルから集団へ、人類全体に拡張してくれるような、地球規模のオピニオンリーダーが望まれます。
実際の行為、行動のための「コギト・エルゴ・スム」なはずですからね。
なんか出だしと全然違うテイストになってしまいました。へぼくてすびばせん。。。