< 野沢菜って普通に知っているつもりだったんですけど やっぱり本場っていうのがあるですねえ >
冬の雨の夜。街灯に照らされたアスファルトが濡れて光っています。寒いですしね、人通りはやっぱり少ないです。
そんなに強い降りでもありませんでしたので、ポテポテ歩いていつもの居酒屋さんへ。
テーブル1つに若いカプルが座っているだけで、カウンターには誰も座っていませんでした。
冷たい雨の夜ですからねえ。
いつも通り、厨房の中で大将がにっこり。女将さんがすぐに温かいおしぼりを持ってきてくれます。
「雨の日はね、ダメなのよね」
8時半ぐらいだったと思うんですけど、
「最近はもうこの時間から来てくれるお客さんって、ホントいないのよ」
ってことなんでありました。
お通しのレバーパテのクラッカー乗せをアテに黒糖焼酎をロックでやっておりますと、入り口の扉をさらりと開けて1人の壮年女性がコンビニ袋を手に入って来ました。
厨房の中に入りながら、丁寧なお辞儀で、
「いらっしゃいませ」
へ? 誰?
おずおずと頭を下げて挨拶を返しますと、女将さんが、
「姉です。ちょっと遊びに来てるんだけどね、今ちょっと買い物頼んでたの」
はあ、そですか。でも、なんて言いますか、
「あんまり似てないでしょ。昔からよく言われるのよね」
先回りして女将さんが説明してくれます。とお姉さんが、
「ご利用いただきまして、ありがとうございます」
「常連さんなのよ」
「うん、なんとなく分かる」
うっそー。そんなこと分かっちゃうもんなの?
まあ、良く見てみれば似ていなくもない、かなあっていう感じもしてきました。
「こちらは何呑んでらっしゃるの?」
「朝日、黒糖」
女将さんの応えに、お姉さんはカウンターの中で黙って頷いていますね。なんなんでしょ。って思っていると、小鉢を1つ、すっとカウンターに置いてくれました。
「野沢菜です。焼酎に合いますよ」
ん? 焼酎に野沢菜? そですか。
にしても、これ、なんか色合いが、ヨロシクナイように思えますですねえ。いつも見ている野沢菜の緑色じゃないですよ。
「まだ古漬けってほどじゃないけど、これぐらいからがおいしいのよ」
小鉢の中を見る目つきが怪しくなってしまっていたんでしょうかね、女将さんが説明してくれました。
ま、いただきますけどね。ありがたくいただきますとも。
茎の1本を箸でつまみ上げて食べてみました。
あれ? 意外!
野沢菜の風味が深いです。旨い。アテとしてバッチリです。緑色よりイっす。
「あたしが漬けたんじゃないんですけどね」
女将さんの説明によりますと、お姉さんは長野県の飯山市ってところへ嫁いだんだそうです。善光寺と野沢温泉の中間ぐらいの街。
まあ今では野沢菜ってどこででも栽培されているんでしょうけれど、本場ですよね。
農林水産省の「うちの郷土料理 長野県 野沢菜漬(のざわなづけ)」でも紹介されていますけれど、野沢菜は長野県野沢温泉村の名物野菜です。
野沢菜漬けは、高菜漬け、広島菜漬けと並んで「日本三大漬菜」なんだそうですね。
日本三大〇〇っていろいろありますけど、漬菜っていうのもあるんですねえ。
「緑色のね、きれいなのは観光客用みたいなもんなんですよ。あたしたちはこっちの方が風味がイイから緑色のはね、あんまり食べないんです」
「焼酎で漬けるんでしょ」
「そうね、焼酎で漬けるっていうか、基本はもちろん塩なんですけどね、野沢菜を漬ける樽にまず焼酎を入れて、そこにビニールを敷いて、そのビニールの中にまた焼酎を入れてね、それから野沢菜を入れて漬けるんで、焼酎は相性がイイと思いますよ」
へええ、焼酎で漬けるんですかあ、知らんかったですう。ってなもんですけど、焼酎ならなんでもイイかっていうと、そこは各家庭の好みなんだそうです。
なるほど、各家庭ごとの野沢菜漬けってことになるわけですねえ。
しかしまあ、考えてみれば当たり前なんですけど野沢菜にも浅漬け、古漬けっていうのがあるらしいんですね。
本場の長野県以外の方々、知ってました? 緑鮮やかな野沢菜漬けって観光客用なんだそうですよ。
普通にスーパーで売ってる野沢菜も茶色っぽいのってないですよね。あんのかな? ないでしょ。
全国流通している野沢菜も観光客用ってことなんでしょうねえ。観光してなくてもです。
正確には茶色っていうんじゃないんですけどね。深緑って言いますか、黄色がかっているって言いますか、ちょっと見にはワルクなってるんじゃないの? って感じですよ。
完全に古漬けっていう状態になると酸味が強くなって、そっちの方が好きだっていう人もいるってことでしたね。
にしてもですね、野沢菜漬けに焼酎が活躍しているなんて知りませんでしたね。
どんな焼酎なのかは、
「あたしは呑まないから分かりません」
ってことでしたけど、度数は35度のを使っているってことでした。けっこう高めの度数ですね。
家によっては専用の酢を使うところもあるんだそうです。
焼酎でなければ酢、っていうのもなかなかですよね。全然違った出来上がりになるんじゃないでしょうか。知らんけど。
でもねえ、さすがにそんなに高級な焼酎は使わないでしょうし、たぶんおそらく甲類なんでしょうね。
樽の大きさにもよるんでしょうけど、樽とビニールの中にとで2升は使うらしいです。
野沢菜漬けの半古漬け。
なんかね、歯ごたえは緑色のと変わらないと思うんですけど、風味がホントに焼酎のアテとしてバッチリでした。
イイなあ、これ、って思うんですけど、東京近辺では売ってませんもんね。この日この時だけの観光客用じゃない方の野沢菜漬けなんでありました。
いつものごとく後から調べてみますと、野沢温泉村にある健命寺の住職さんが、1756年に大阪、天王寺で栽培されていた「天王寺蕪」を持ち帰って栽培を始めたんだそうですね。
そういえば女将さんのお姉さんから説明を聞いたときに「カブを落として」って言ってましたね。
でも、あれ? ですよね。野沢菜って蕪だったの?
落とした蕪は、そのまま蕪として生産地の人たちが食べてるの? かな?
なんで蕪も一緒に漬けないんでしょうか?
で、もうちょっと調べてみたらですね、なんだか面白いって言いますか、野沢菜には、ほほうっていう物語があったのでありました。
大阪、京都で18世紀当時の名産品だった「天王寺蕪」を野沢温泉村に持ち帰って栽培したところ、野沢は寒いんで「天王寺蕪」がビックリして突然変異! 蕪は小さくなって、茎と葉っぱが大きくなった。
その茎と葉っぱを漬物にしたら旨かった。蕪の部分、要らんわ!
野沢温泉村の人たちは寺からわけてもらって「蕪菜(かぶな)」っていう名前で栽培を始めて、その蕪菜漬けは地元で評判の味になって野沢温泉の名物になった。
野沢温泉は湯治客の他にもスキー客が訪れる土地。
戦後に、湯治客、スキー客が野沢温泉村の蕪菜漬けをとっても気にいって全国に広まっていくなかで、野沢の漬物っていうことになっていって、全国区としては「野沢菜漬け」って名前になった。んだそうです。
めでたしメデタシ~。
なんですが、
名前が野沢菜漬けになったっていうあたりのエピソードはその通りだったとしても、天王寺蕪が寒くって突然変異したっていうのは、現代科学の遺伝的研究でハッキリ否定されているんだそうです。
そりゃそでしょねえ。
天王寺蕪は西日本で主流のアジア系。中国経由の野菜。
一方、野沢菜は東日本で多く栽培されている寒さに強いヨーロッパ系の特徴が強いんだそうです。
なので野沢菜は遺伝的に天王寺蕪が突然変異したものじゃない、ってことみたいなんですよね。
地元に伝わっている話とはチガウってことですね。
でも、これもまた不思議な話ですよね。
健命寺の住職さんが野沢菜を関西から持ち帰ってきたっていうのがホントだとすると、蕪として持って来たんじゃなくって、最初から茎と葉っぱの旨さを気に入っていた可能性もあるんじゃないでしょうか。
だとすると、天王寺蕪の地域、アジア系の蕪の地域にヨーロッパ系の蕪、って言いますか、蕪もどきもあったっていうことになるんでしょうかね。最初っから蕪じゃない蕪。
いったいどこから来たのか正体不明の謎の野菜、それが野沢菜ですよ。知らんけど。
蕪の部分は食べない「蕪菜」っていう名前で野沢温泉村に根付いた野沢菜。その漬け物が野沢菜漬け。
炒め物にしても旨いですよね。
高菜チャーハンも旨いですけど、野沢菜チャーハンっていうのもありますね。たぶん炒め物にも野沢菜の古漬けの方が合うのかもです。
初対面では「顔色ワルイ」って思った野沢菜の半古漬け。一回食べて、その旨さを知ってしまうと、とっても好い色ってことになってしまっておりますよ。
でも地元に行って、観光客用じゃない方ってリクエストしないと食べられないのかも。
焼酎のアテには観光客用じゃない方の野沢菜漬け、かなり上位で、いけますよ。
野沢菜漬けは1983年に長野県の選択無形民俗文化財「信濃の味の文化財」に指定されているんだそうです。
たぶん観光客用じゃない方でしょねえ。
焼酎以外の酒にも合いますし、そもそもごはんの添え物としてイイですもんねえ。
観光客用の緑色野沢菜漬けチャーハンも、旨いです。
謎の野菜だったんですねえ。