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【色と酒とが敵なり】という先人のあーだこーだに どーのこーのとクダをまく

<世の中は 色と酒とが敵なり どふぞ敵に めぐりあひたい>

2020年からコロナ禍でツライ憂き世となりました。まだ続いてます。さっぱり終わりが見えません。
いつのまにか令和も三年を迎えましたねえ。

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みなさまには如何にお過ごしでいらっしゃいますでしょうか。


流行語大賞は「3密」でした。まさに憂き世でした。世が世なら年号を変える動きが出てきてもおかしくないのかもです。


憂き世という言葉は平安時代ぐらいから使われ出したそうですが、我々の生きているこの世の生きづらさを言い表す。
なんですが、普通には「浮世」って書きますよね。


辞書にあたってみますと、こちらは、どうせ定めなき、はかない世ならば、浮かれて暮らそうという気持ち。現世を肯定し享楽的な世界を言う。だそうです。


日本では近世初期、元禄文化期のあたりから憂き世から浮世になったといわれているみたいです。

 


元禄文化を代表する人といって思い浮かぶのは、井原西鶴近松門左衛門松尾芭蕉でしょうか。


さて今回の狂歌
酒と色とをカタキとおっしゃるのは、誰あろう、蜀山人、太田南畝さんです。


幕臣でありながら、ねぼけ先生とも呼ばれた人気者の文化人。
1749年生まれだそうですから、元禄文化のちょっと後の時代の人ですね。


この狂歌とは別に「とかく浮世は色と酒」という慣用句もありますね。これまたみなさんご存じかと思います。
この世の楽しみは、なんたって色事と酒だあ、というヤブレカブレな感じもする言葉です。
でもまあ、誰しも思うことは同じといいますか、そだよね~、と同意する人が多いのではないかと思います。酒呑みはとくに。

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で、我らが蜀山人さんは、この色と酒をカタキだとおっしゃる。


巡り合いたい、と詠む前段としての工夫、と言ってしまえばその通りなのではあります。色と酒をカタキとするからこそ、巡り合いたいと落としたところでフッと笑える。


そこが醍醐味、ですよね。
好きなカタキ。そうだね、そういう深いトコがあるよねえ、って感じ。カタキといってもコロナなんかとは大違いです。


ただ、なぜわざわざカタキと表現したのか。
江戸時代から評価のあった狂句、狂歌なんですが、現在の我々と同じ感覚で江戸時代の庶民も笑っていたんでしょうか。
なんかね、この狂歌ブームを作ったとされる蜀山人さん、当時の人たちの捉え方は少し違うのではないか、と思うのであります。


調べてみますと蜀山人さん、19歳の時「寝惚先生文集」という狂歌集でデビューしています。
この文集の序文を書いたのが、平賀源内だそうですから最初から認められた才能だったんですね。

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この「寝惚先生文集」から狂歌ブームが始まったとされています。
時は田沼政治の熟覧期。
田沼派閥の幕臣だった蜀山人さんはそこそこ出世。吉原の遊女を身請けして妾にしたりなんかして、お盛んだったみたいです。
まさに色と酒、それに狂歌といった生活だったんでしょうね。

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酒好きということはかなり有名で、酒呑みたちの評価は特段なものがありますね。令和の今ですと、江戸時代の酒をイメージしたという純米江戸原酒「蜀山人」というの、ありますねえ。山形県の千代寿虎屋(ちよことぶきとらや)って名前の酒蔵さんからですね。


千代寿虎屋って、初見で読める人、なかなかいないんじゃないでしょうか。こういうネーミングセンスの酒蔵さんですから「蜀山人」イイ感じだと思います。
あ、すみません、呑んだことないんですけれどね。今度出会ったら試してみようかと。はい。燗酒がお勧めの呑み方らしいですよ。


ところがですね、やがて始まった寛政の改革松平定信さんが時の人になって、田沼派全員が追い落とされてしまいます。


幕府の財政再建に励んだ人とはいえ、人気がないんですよ、松平定信さん。やり過ぎ。
蜀山人さんを取り立ててくれていた上役の人なんかは、斬首されてしまったそうです。
いきおい、蜀山人さんの文化活動はしょんぼりしたものになってしまう。
色と酒どころではなさそうです。


コツコツと幕臣の仕事に精を出して、46歳で試験に合格して、支配勘定役に採用され、55歳の時に大阪銅座に赴任しています。


銅座の仕事というのは銅山を管理するらしいんですが、この銅山のことを中国では「蜀山」といったことから、蜀山人と名乗るようになったといわれているんですね。
教養っていうのは漢文だった時代ですからね。仕事を名乗りに使ったわけです。

 


寿命の長くない江戸時代。55歳の蜀山人さんとしても、ある種の感慨みたいなものがあったのかもしれません。
上から睨まれていたはずの蜀山人さん。やっぱり有能な人だったということでしょう。たいした出世です。


でもやっぱり、おそらく、色と酒の暮らしではなくなった、でしょうね。


で、話はちと飛びますが「夢の憂橋」っていうの、そういう本があるんですが、聞いたことあります?
そこそこ知られてる本だと思うのですが、これもまた蜀山人さんの著作。


59歳の時のことです。その時蜀山人さんが江戸に居たのかどうか判りませんが、多くの死傷者が出たという永代橋崩落事故の顛末を記したもの。
深川の永代橋が落ちた事故。なんてこった、と思ったことでしょう。

 

天災ではなく人災。全然関連性のない仕事ではあっても、役人としての責任感もあったかもしれませんし、華やかな江戸の生活にあってはならない人死。ゆかりのある人が亡くなったのかもしれません。

 


色々と浮き沈みのあった我が人生、を蜀山人さんも振り返らざるを得ない日々が続いたのではないでしょうか。


面白く思わない上役たち。恩人の命を奪ったカタキども。能力の高い人だけに、人一倍、悔しい気持ちも強かったかもしれません。
でもなあ、なにを言ってもしかたがねえなあ。積極的にバカやるわけにもいかない世の中だしなあ。


このあたりは、令和の世の中でもいらっしゃるかもですねえ。少数派ではあってもですねえ。トップの人たちってさあ、なんだかさあ……。
ん? 蜀山人さんの話です。
昔は色にも酒にも親しんだもんだったっけが。

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役人の身で、自分から酒を浴びて色におぼれたんじゃ示しがつかないだろうが、せめて向こうからやってきて、ひょんなところで色でも酒でも、巡り合えたら、どんなにイイかなあ。ってんで、


世の中は 色と酒とが敵なり どふぞ敵に めぐりあひたい


世間的には、よっ、分かるよその気持ち。人一倍酒呑みで助兵衛なねぼけ先生だ。よく耐えたもんだね。
という評価の一面もあったんじゃないでしょうかね。


色についてはイロイロご意見もあろうかとは思いますが、今現在の日本に生きている我々は、金さえ用意できれば色も酒も、まあ、いけますね。


蜀山人さんはコロナ自粛どころではなく、おのれの首がかかった色断ち、酒断ち。
コンニャロという思いを人間に向けるんじゃなくて、色と酒をこそカタキと呼んで、巡り合えれば、ここで会ったが百年目!


てな気持ちもあったように感じます。蜀山人の無念を知る人たちは、この狂歌をダハハとだらしなく笑いながら受けとめてはいなかったのではないかと。


でもですね、蜀山人さん。転んで、そのケガがもとで死んじゃうんですね。75歳。

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転んだってことは、酔っぱらってた、のかしらん。
でも違いますかね。75歳まで生きたんですからね、色も酒も、表立っても陰ででも絶って、役人然として生き抜いたんでしょう。
と思いきや、辞世の句。


今までは ひとのことだと思ふたに 俺が死ぬとは こいつはたまらん

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やってくれます蜀山人さん、カンパーイ!