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【日本人死亡数減少】コロナ禍2020年の統計情報から令和の葬儀事情を考える

<マスク手洗い外出自粛の効能なのか2020年の日本人死亡数は2019年より1万人弱減少という事実>

相も変わらずコロナによる感染者数、死亡者数のニュースを聞いている日常がずっと続いている中で、けっこうなインパクトを持った “人口動態統計速報” が2021年、令和3年の2月22日、厚生労働省から発表されています。
報道関係者に向けたプレスリリースですが、ネットから見ることが出来ます。

 

あまり大きな扱いではありませんでしたが、各社の報道に触れて「ほほう」と感じた方も少なくないのではないでしょうか。


厚生労働省のデータによりますと2020年の死亡者数は1,384,544人。
前年比で9,373人減少だそうです。


同じく厚生労働省の2020年12月31日版の発表を見ますと、2020年のコロナによる日本人死亡者数は3,414人。
そこから3か月後の2021年3月時点では8千人を超えていますから、第3波、あるいは変異株と言われるようになってからの死亡率が高いということが分かります。


2021年2月22日の“人口動態統計速報”が示す死亡数以外のデータは、
出生数が872,683人で過去最低であったこと。
死亡数が前年と比較して減少したものの、日本の人口全体としては511,861人の減少だったようです。


ま、幾分かでも明るい感じのデータは、離婚件数が16,314組減ったということでしょうか。
顔を突き合わせている時間が長くなって、コロナ離婚だとかいう表現で取り上げられていましたが、減ったんですね。


16,314組って、かなり減ったんだねえと感じたんですが、それだけ減ったうえでの離婚件数は196,641組という事実。1割以下。


ん~。受け取り方はそれぞれでしょうけれど、こういうデータなんですねえ。

 


死亡者数が減ったというデータの内訳を見てみますと、肺炎や心疾患といった疾患を原因とした死亡数が減っている中で、老衰がドーンと増えているという事が分かります。


高齢社会の日本ですから、死亡原因としての老衰は逃れようのないものですよね。


にしても、マスクして、手指の消毒をこまめにして、外出を控えることで疾患を持っている人の死亡率が減ったということは、昔から言う “一病息災” っていうのを証明していることになるんでしょうね。


ま、一病といってもそれがどういう病気であれ、コロナ感染を恐れるほどには徹底して衛生に気遣うこともなかったかもしれませんけれどね。


なんにしても日本は人口減少が続いています。


人は必ず死にますからね。誰しもきょう、明日、自分が死ぬと予定はしていないでしょうけれど、いつかは必ず。


出生率が上がらない限り、どんどん人口は減っていくことになります。


税収が減ってしまうことばかり気にしている政府の感覚は理解できませんが、出生率ってG7の国は何処でも低いみたいです。


でもねえ、税金ってその国の国民のために使うんだから、人口減に伴って税収が減ったからといって、それを役立てるべき国民の数も減っているわけだから、辻褄は合うというか、使い方を考えろ! ってだけで済むような気がするんですけれどね。


考える役割は、税収減っちゃうってぶーたれているお役人さんたち。あなた方です。ちゃんと仕事してよね。


だとかいいながら、2020年の死亡数減少というインパクトが消えやらない時期、近所のラーメン屋さんに行きました。久しぶり。


ペラペラだけれど、ちゃんとパーテーションやってます。ごく当たり前の町中華


はい、話は突然、変っております。
でもラーメンの話ではないです。


そのラーメン屋さんはカウンターのみの店なんですが、客の背中側の壁にテレビが設置してあります。小さいやつですね。壁掛けテレビ。
客からは振り向かないと見られないわけです。つまり厨房専用テレビ。


イイじゃないですか。客は食べたら出て行きますけれど、店の人はずっといますからね。厨房から見える位置にテレビを置くのが当然です。モンクはないです。


でもまあ、店主と奥さんもテレビに背を向けて調理したり作業したりですから、まともにテレビ画面に向き合うことって、実はあまりなかったりするんです。


11席のカウンター席を8席にしたディスタンスをとりながらも、けっこういっぱいになっていることの多い人気店。
全員がテレビの音声を聞きながら、なんか盛り上がったような声が聞こえると、客も店の人間も振り返って画面に目をやる。


音声がメイン。映像がサブ。
いやいやラーメン屋さんなんですから味が勝負。テレビはおまけ。でもメニューは少なめ。
そんな店です。


みんな、ラーメンを食べながら背中でテレビを聞いています。


私はずっとテレビのない生活ですので、今のテレビコマーシャルには馴染がありません。


やたら賑やかだけれど、いったい何を宣伝しようとしてるのかさっぱり分からないコマーシャルもありますし、面白いなあと思わず振り返って見入ってしまうコマーシャルもあります。


で、先日、とても気になったコマーシャルがあったのでした。

 


「日本のお葬式って謎だ」


日本語のうまい外国人のしゃべり。といった感じの声、しゃべり方でした。


「一番悲しいはずの喪主が」
「こんなに忙しいのは、なぜだろう」

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忙しい 忙しい


で、その疑問文をどう受けるのかと思って、口をもぐもぐさせながら画面を振り返って見ると、


「♪小さなお葬式」


といって終わってしまいました。15秒CMってやつですね。


その時1回見ただけですが “小さなお葬式” という文字とフリーダイヤルの番号が出ているだけで、会社名は出ていませんでした。


“小さなお葬式” というのが会社名なのかな? なかなかユニークな、と思って調べてみました。


コマーシャルを流している会社は “村田葬儀社” という名前でした。
“小さなお葬式” というのはブランド名とかプロジェクト名とかいうものかもしれませんです。


で、新たに出てきた情報がありまして、このコマーシャルの基になったと思われるコピーが存在していたのでした。


村田葬儀社の新聞広告等に使用されたもので、“東京コピーライターズクラブ” の2005年新人賞を受賞しているらしいんですね。


「いちばん悲しい はずの人が、
いちばん忙しい お葬式は悲しい」


ふううん、と思います。


“小さなお葬式” というのには大賛成なんです。


もちろん盛大にやりたいと思って実現できる人がそうすることには、何も意見はありません。
そうしてあげることが故人のためになる、という生きている側の判断ですから、そうすればイイんだと思います。


ただ、葬儀費用が負担になる人が多いことも事実、現実問題ではあります。


ここで言いたいことは「葬儀は死んだ人のためにあるのではなく、生きている人たちのためのイベントである」ということです。


当たり前ですが、葬儀に参加するのは生きている人だけです。


東京コピーライターズクラブという組織がどういった団体で、どういう活動実績を持っているのか知らずに言ってしまいますが、新人賞を受賞するほどのコピーとは思えませんです。


オリンピック周りだけじゃなくて、なんか、こういうアート部門での業界評価って、一般感覚とはズレているなあと感じる事例が多い気がします。


繰り返しますが “小さなお葬式” には大賛成なんです。


テレビコマーシャルの基になったのであろう、受賞したコピーはただのセンチメントな空気を感じさせるだけのものに終わってしまっているのではないでしょうか。


“いちばん悲しいはずの”


というのは、限定できるわけがないですよね。人の悲しさにランク付けしちゃってますよね。


人が亡くなれば、様々な人間関係の中で、その人を失うという “対象喪失” をみんな一様に経験することになります。
対象喪失という事実は、その喪失感、悲しさについてランク付けされることに意義を見出せないでしょう。


大切な相手、自分のアイデンティティを成立させていた一部であった相手を失うこと。その喪失感に身内も他人もないと思います。


“いちばん悲しいはずの人がいちばん忙しい”


テレビコマーシャルの映像で考えれば、夫を失った妻が喪主という役割なんでしょうけれど、これで正しいと思うんですよね。


すこしズレるかもしれませんが、葬儀で一番忙しい人を、その忙しさから解放してあげると、何がどうなるというんでしょうか。


“小さなお葬式” にどう結びつくんでしょうかね。


故人との結びつきとして、生前最も多くの時間を共有したであろう人を “いちばん悲しい” と表現したいのは分かる気もするんですが、このシチュエーションの例でいえば、喪主を忙しさから解放してあげることが良いことであるかのように演出されています。


喪主が忙しくないように “小さなお葬式” にしましょう。ってことなんでしょうか。


対象喪失を現実として向き合っていないように思えます。


対象を喪失して、今、生き残っている人は心の置き所、身体の置き所に欠損感を抱いてはいないでしょうか。
忙しくしてあげなければ、その場で役割を与えてあげなければ、何かすべきことを目の前に示してあげなければ、自身の存在を確認しづらい状態。


葬儀は寺院の生活のタネ。ということも事実であるんでしょうけれど、そこにはそれなりの長い時間を経てきた、個人個人の対象喪失に寄り添った日本社会の工夫があるんだと思います。


新人賞を受賞したコピーは、そういう気持ちに寄り添っていないんじゃないかと感じたのでした。
コピーのためのコピー。


再三言いますが、“小さなお葬式” には大賛成。
コピーには共感できません。


これは今、日本の政治シーンにも強く感じることですが、他人の気持ちになってのシミュレーション能力が弱い。
弱いというか、考えていない。配慮していない感じがします。


東京都の飲食店に対する時短命令の是非に関しても、緊急自粛要請を解除するにあたって、何か新たな施策を示めさなければならばいという博弱な根拠から、あわてて出した感じが強いですね。


緊急自粛要請を解除すれば命令は出来ないわけですから、解除日が4日後に迫っている段階での命令は実効性もないです。


命令を発することによって、店側の人間だけではなく、多くの都民がどういう反応を見せるか。考えていない。シミュレーションしていない。


コロナ対策リーダーって、なんなん? 笑ってしまいますね。


やっぱり考えてはいないんじゃないでしょうか。優秀な人たちのはずなのに、とガッカリです。

 


日本は、政治も産業ももうちょっと考えて、それぞれの問題に対処していかなければ、世界との差は広がってしまうばかりのように思います。


シミュレーション能力って昔の日本人はちゃんと持っていた能力だと感じますけれど。どうでしょうか。


シミュレーションを働かせることは、確実に思考停止状態から脱却する方法の一つだと思います。


“小さなお葬式” は、そうあるべきだと思うんですが、その宣伝にあたって、他の、同業他社に対するアピール、差別化から逸脱してしまって、仏教儀式に対するコメントになってしまっているのではないか、という話でした。


当事者が忙しく動くことが供養であるという葬式仏教でいう供養という概念。


供養であるという後押しで悲しく沈む時間を別ごとに割り振ることが出来る。泣きながら動きなさい、生きなさいという忘れられがちな衆生同士の習慣。


まだまだこれから日本人の死亡数が減ることは無さそうです。