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【歌枕 見てまいれ】っていう平安時代の辞令

< 和歌をいかに巧みに操れるかが身分的実権を得るコツ モテるコツ >

「一億総株主化」とかおっしゃられてもねえ、どういう生活ベースからそういう発想が出てくるんでしょうか。
昔からそうなんですけど、エライ人たちって、生活感覚、一般からかなり浮いてますよね。


持てる者と持たざる者って言ってしまえばそれまでのことかもしれませんが、最近の日本、お役人さんたちの乱れっぷりっていうのも、なかなかな感じになっていますしね。
日本の何かが、どこかが、壊れてしまっているのかもです。

 

 

 


コロナ禍での飲食店利用自粛期間に酒宴を開いたとかいうのは、まだね、オヤクニンサマだって人間だからねえって感じもあって、褒められることじゃないにしても、そんなに目くじら立てることでもなかったですけどね。


2020年暮れ、国立印刷局の職員4人が給付金詐欺で逮捕。
ええ~、って思ってたら2021年になって経済産業省の職員が国会内の女子トイレで盗撮をして逮捕。
なにしとんねん!


でもって、同じく経済産業省の官僚2人が給付金詐欺で逮捕。
鶏卵会社による農林水産大臣への贈収賄事件。
ウソが判りやすすぎる大臣の弁明がありましたね。
東北新社からの総務省幹部への違法高額接待。
こういうのって、たぶんおそらく常態化しているんじゃないでしょうかね、他の場面でも。


2022年になると国税局の女性職員による風俗店アルバイト収入に対して、適正税務申告指導問題。
そして同じく国税局、経済産業省の職員らによる給付金詐欺で逮捕者がどんどん増えていっています。
ホントにどうにかなってしまっているって思わざるを得ませんよ。


こうした困ったちゃんたちのほぼ全員が若いオヤクニンサマなんですけど、各省庁の組織立てってどうなっているんでしょうか。当事者じゃないと分からない部分が大きいと思いますけど、オヤクニンサマの中堅層、上層部って何やっているんでしょう。


下々の目線で見上げてみますと、オヤクニンサマたちとか、議員のセンセガタとか、何を忙しくしているのかさっぱり分かりません。


でもねえ、何かが原因で急にそうなった、ってわけじゃないのかもなあって気もします。
昔々からの伝統。とまで言っちゃうのは違うんでしょうけれどね。


一騎当千って感じでバリバリやっているオヤクニンサマだってたくさんいるんだろうと思いたいですけど。


昔々、604年に聖徳太子が定めたってされている「17条の憲法」ですが、第1条は「やわらぎを以って貴しと為し」で始まっていますよね。
尊いオコトバ、って感じで記憶しているんですけど、要はこれ「ケンカしないようにね」ってことなんですよね。

 

 

豪族が争っている現実の中で、なんとか国としてのまとまりを保とうっていうことでしょうから、まず第一にケンカすんな、っていってるわけなんでしょうね。
「やわらぎ」です。とてもイイ言葉。言葉だけはね。


このことを改めて考えてみますと、「ケンカすんな」っていうのは一番上にいるからこそ言えることで、言われている側には、役職を巡っての争いとか、実際に命の取り合いみたいなこともけっこうあったんでしょうね。


で、第8条を見てみますと「諸役人は朝早く出勤して遅く退勤しなさい」って言っていますよ。
奈良時代のオヤクニンサマたち、出勤時間とかけっこうルーズだったのかもですねえ。親近感!


第13条「役人たちは自分の職務を把握しなさい。聞いてないよ! とか言ってちゃダメです」
むふふ、オヤクニンサマたちもまあ、いろいろ自己主張っていうのがあるんでしょうね。
それはまあ、当然のことではあります。

 

 

 


都を平安京に移したのは794年のことだそうです。平安時代が始まるわけですね。


「やわらぎ」が大事ですよって言われてからほぼ200年。貴族社会は安定していたんでしょうかね。


平安文化の熟成期、紫式部清少納言和泉式部が活躍したのはさらに200年経った平安中期、西暦1000年ごろ。


なんかね、伝わっている話しだけをみますと、けっこうルーズな貴族社会みたいに感じます。


984年に17歳で即位した「花山天皇(かざんてんのう)」は、権力争いの絶えない貴族社会の中で、有力な外戚をもっていなかったんだそうです。
でもまあ、17歳の天皇ですからね、政治は上級官僚が執り行って、特に問題ナシっていう、よく聞く話だったのかもしれません。


平安時代の官職のトップは「太政大臣」です。
この太政大臣は身分としての位階が最高位の「正一位(しょういちい)」の人か、2番目の「従一位(じゅいちい)」の人に限られます。


官職として太政大臣の下に位置するのが「左大臣」次が「右大臣」
この2つの官職に就けるのは位階が「正二位」「従二位」以上の人。


っていうか、その官職に就けば位階が上がるってことみたいですけどね。


そして続く官職が「大納言」「中納言
この2つの官職は「正三位」「従三位」の位階以上の人です。


そしてこの「太政大臣」「左大臣」「右大臣」「大納言」「中納言」が公卿って呼ばれる上流貴族ですね。政治を司るのはこの人たちに限られます。
それ以下の官職の人たちは公家で、下級貴族っていうことになります。


親族に上流貴族がいれば天皇も安心ってことなんでしょうけれども、権力争いが激しいのも上流貴族ですね。


成人天皇を補佐する「関白」っていう特別な上級官職があります。


藤原家の全盛時代ですから上流貴族はほとんど藤原姓の時代です。


花山天皇の関白は従一位藤原頼忠(よりただ)だったんですが、実権は太政大臣、従二位の藤原義懐(よしちか)が握っていて、天皇の意思が政に反映されにくい状況だったみたいですね。
とはいっても、花山天皇は17歳。関白が仕切らなければいけないところで、藤原頼忠藤原義懐の確執が始まります。


同じ藤原家とはいっても、公卿さんには細かく分かれた家柄っていうのがあるんですよね。
藤原頼忠藤原北家小野宮流で、藤原義懐藤原北家九条流
何がどう違うのか判りませんが、違うみたいですよね。


関白と太政大臣の確執に加えて右大臣の藤原兼家(かねいえ)が、花山天皇の退位に向けて策略を巡らすっていう三つ巴状態になっちゃうんですね。


この頃の藤原家って、全体的に、やあねえ。


そういうことに嫌気がさしたのかどうか、花山天皇って政よりも女御探しに一所懸命だったみたいです。


で、太政大臣従一位藤原為光(ためみつ)の娘、藤原忯子(しし)に一目ぼれして強引に入内させるんですが、なんと985年に藤原忯子は17歳で亡くなっちゃいます。
ショックの花山天皇藤原兼家が焚きつけたものか、986年に内裏をこっそり抜け出して出家しちゃいます。


なので花山天皇は花山法皇ってことになって、7歳の一条天皇が即位ってことになります。


ん~。時代が違うとはいえ、天皇家もいろいろあったんですねえ。


一条天皇には、正二位の藤原道隆(みちたか)が関白として付いて、自分の娘、藤原定子(ていし)を皇后にします。


藤原道隆が死去すると、藤原道長(みちなが)が自分の娘、藤原彰子(しょうし)も皇后にしてしまいます。


一条天皇は初の一帝二后ってことになるんですね。


この頃が藤原家の最盛期で、藤原定子には清少納言藤原彰子には紫式部和泉式部が仕えて、女流文学も隆盛期を迎えます。


平安時代の政は権力争いがメインだったようなところがあって、その武器として使われたのが漢籍の知識と和歌でした。ってことらしいんであります。
和歌の能力っていうのは、古くから詠まれた和歌にどれだけ通じているかという記憶力、解析力と、巧みに和歌を詠むウデと、その場で即興で詠みあげられる瞬発力だそうで、これはまあ、並大抵じゃないですね。
皇后の家に文学が根付いているのも偶然じゃないってことなんでしょう。


もちろん女ばっかりじゃなくって男も和歌です。


一条天皇が即位して10年になろうかっていう995年。和歌のウデも評判で、従四位上っていう位階まで徐々に上がって来ていた「藤原実方(さねかた)」っていうイケメン貴族が左遷されます。


どういうやりとりがあったのかっていうディテールは伝わっていないみたいなんですが、正二位、権大納言で能書家の「藤原行成(ゆきなり)」と和歌について口論になったそうなんですね。


一条天皇の目の前で激しい口論になって、藤原実方藤原行成の冠をむしり取って投げ捨てたんだそうです。
藤原行成は慌てず騒がず、従者に拾って来させて、その場を何事もなくおさめたそうです。
この成り行きの一部始終を見ていた17歳の一条天皇は、藤原実方陸奥守を任命します。


その時に言ったとされているのが「歌枕、見てまいれ」
和歌の国の天皇の辞令です。


ま、これはこれで上に立つ者の言葉としては悪くないように思いますけれど、この逸話がホントなのかどうかについては、いろいろ説があるみたいですね。


「歌枕、見てまいれ」ってことで左遷されたって言われている藤原実方が、陸奥、今の宮城県名取市笠島道祖神の前を馬で通りかかったとき、馬が突然倒れて、その下敷きになって死亡したってされているんですが、それは999年のこと。

 

 

 


999年には陸奥平維茂(これもち)っていう武将と、藤原諸任(もろとう)っていう地元の有力者との間に所領を巡る争いがあって、平維茂が藤原諸任を討ち取ったっていう話が「今昔物語」に出てきます。


かなり激しい死闘を繰り広げていたんだそうで、両者の争いの調停役として藤原実方の名前も出てきているんですね。
宮城県名取市名取川っていうのはたしかに歌枕の地ではありますけれど、まつろわぬ陸奥の地の豪族を押さえ込むために、藤原実方が送り込まれた可能性もあるのかもしれません。


馬から落ちて、それが命取りになるっていうのは源頼朝もそうですよね。


なんかね、不慮の死っていうんじゃなくって、中世の頃のタブーがそこにあるような雰囲気も感じます。
馬から落ちて落馬して、っていうことになったら、それ以上突っ込んじゃいけません! っていうような。


陰陽師安倍晴明が活躍していたころの話です。


中世は藤原ばっかりだったみたいですけど、現在のエライ人たち、めいっぱいじゃなくってイイんで、それなりに真面目にやっていただきたいです。


歌枕、見てまいれ! とか通じる世の中じゃないでしょうけどね。


陸奥に ありといふなる 名取川 なき名とりては くるしかりけり」
古今和歌集 壬生忠岑(みぶただみね)

 

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