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【豆腐の話】「人間万事塞翁が馬」と「豆腐」の意外な関係 不老不死の副産物?

<紀元前から伝わる食べものなんだと考えると 凄い食品ですね 豆腐って>

始皇帝で知られる古代中国の「秦」は、徐福伝説によって日本との関連も浅くないですよね。


始皇帝の命を受けて「不老不死」の妙薬を得るために、男女3,000人の子供たち、多数の職工たちを引き連れて日本へ渡って来たというのが徐福伝説の概略ですが、「秦」という字は、日本の苗字にも多用されていますし、日本各地の地名にも多く残っています。


京都の太秦は、渡来人の秦氏の住んだところとして知られていますが、その秦氏というのが、秦からやって来た徐福の一団なのではないかという伝説が今でもいわれています。


中国を初めて統一したとされる秦ですが、不老不死の願い叶わず、紀元前210年に始皇帝が死んでしまうと、たちまち混乱状態になって、わずか4年で滅亡しているんですね。


この4年という時間をどう捉えるかはいろいろな解釈があるんだろうと思いますが、日本では、平清盛が1181年3月に死んでから4年後、1185年4月に壇ノ浦の戦いで平家が滅亡していることを考えますと、強大な個人の権力が消えてしまった後に組織自体を維持できる期間というのは、4年ぐらいの短さなのかもしれないなあ、と思ってしまいます。


圧倒的ヒーローの後を継げる人間って、やっぱり出てこないんでしょうかね。

 


秦の滅亡後、古代中国は紀元前206年「漢(前漢)」の時代を迎えます。


映画、小説、ゲームでも人気の「項羽と劉邦」の劉邦が漢の初代皇帝なんですが、任侠の人だったそうで、負け続けの戦の連続の中で、今の時代のリーダーとしては考えられないような残酷なといいますか、トリッキーなエピソードの多い人です。
ま、紀元前のことではあります。


そのせい、というわけでもないんでしょうけれど、紀元前195年の劉邦の死後、滅びはしなかったものの、漢の世情はなかなか安定しなかったようです。


第2代皇帝の劉盈(りゅう えい)は皇太后や臣下の政争に嫌気を起こして政務を放棄。酒で命を縮める結果となって紀元前188年に23歳で死亡。偉大なる父親の被害者なのかもしれません。


第3代皇帝の劉某は即位して4年後の紀元前184年に、政争の結果として殺害されてしまいます。


第4代皇帝の劉弘もまた即位4年後の紀元前180年に毒殺。まあ、有りがちといいますか、ドロドロの政争です。


直後に即した初代劉邦の4男、劉恒が第5代皇帝となると、ようやく落ち着きをみせて、食糧問題のない世の中になったとされています。


紀元前157年に第6代皇帝となった劉啓も続けて善政を敷いたとされる名君で、三国志でお馴染みの劉備はこの劉啓の末裔を名乗っていますね。


第7代皇帝の劉徹は紀元前141年に即位すると中央集権強化によって前漢時代の最盛期を迎えたとされています。
にしても初代劉邦の死から半世紀の間に皇帝が6代代わっています。


劉徹の時代になって安定し始めた漢の制度は「郡国制」といわれる劉氏一族による地方支配の方式です。各地に「諸侯王」をおいてその土地を支配させるという、いわば前漢は一族による連合国状態だったようです。


諸侯国のうち、鉄と塩を産していた「呉」が最も富んでいて、淮南というその中の主要の土地の王、「淮南王劉安」が豆腐を作ったと言われている人です。


紀元前164年に淮南王となった劉安は、紀元前122年に中央集権に反発して乱を起こそうとしたものの、臣下の裏切りによって果たせず、自害しています。
今の香港とは何の関連もありませんが、中央集権の犠牲になった人なんですね。


淮何王であり、学者、神仙とも評される劉安は、大きな業績と伝説を今に残しています。


古代中国の思想書として知られる「淮南子」は淮南王劉安の編であるとされています。


淮南子は「内二十一篇、外三十三篇」あるという記録が残っているそうですが、現在に伝わっているのは、そのうちの「内二十一篇」だけ。
紀元前の書物とはいえ、モッタイナイことです。「内」とは何を表して「外」ではなにをとらえようとしていたのか。今となっては半分以上が失われてしまっているんですねえ。


残っている「内二十一篇」とは、
「巻一 原道訓」「巻二 俶真訓」「巻三 天文訓」「巻四 地形訓」「巻五 時則訓」「巻六 覧冥訓」「巻七 精神訓」「巻八 本経訓」「巻九 主術訓」「巻十 繆称訓」「巻十一 斉俗訓」「巻十二 道応訓」「巻十三 氾論訓」「巻十四 詮言訓」「巻十五 兵略訓」「巻十六 説山訓」「巻十七 説林訓」「巻十八 人間訓」「巻十九 脩務訓」「巻二十 泰族訓」「巻二十一 要略」


といった内容で、道教儒教の思想に法家、陰陽家の考え方を交えた古代中国のインテリジェンスを伝える貴重な書物だと思います。ちとオカタイですけれどね。


でもですね、誰でも知っているような話も含まれているんですよね。
例えば、「人間万事塞翁が馬」という話は、この淮南子、「巻十八 人間訓」の中の一遍です。

 


おさらいしておきましょう。


塞翁と呼ばれる老人の自慢の馬が、胡という地方に逃げていってしまい、村人たちがお悔やみを言うと、塞翁は「がっかりなどしていない。そのうち福がやって来るだろう」と言う、あの話です。


胡という地方は【あなたが求めるのは【ピペリン】か【カプサイシン】か おうち時間の正しい刺激 前編】で触れました、中国から見た「西戎」という地方で、胡椒、胡桃、胡麻、胡瓜などの食べものばかりでなく、名馬の産地としても中国と取引のあった地域で、三国志の名馬「赤兎馬」も胡の馬であるとする説もあります。


で、やがて塞翁が言う通り、逃げた馬が胡の名馬をたくさん連れて帰って来ます。村人たちはビックリしながらも、お祝いを言います。


そうすると塞翁は「これが不幸のもとになることもあるだろう」といいます。


しばらくすると、自慢の息子が胡の馬に乗って落馬してしまって足が不自由になってしまいます。
塞翁は「これが福のもとになることもあるだろう」と言います。


時が経ち、村が戦争に巻き込まれてしまい、村の若者たちは全員戦闘に駆り出されてしまい、全員が戦死してしまいますが、塞翁の息子は足が不自由だったために駆り出されず、命が助かった。


淮南子 巻十八 人間訓 人間万事塞翁が馬」はだいたいこんな話でしたね。


少し後の紀元前104年ごろから書き始められたという司馬遷の「史記」に記されている「禍福はあざなえる縄のごとし」も同様の名言と言えますね。人間訓です。2000年以上前ですよ。凄いですね。


淮南子を遺したという他に、淮南王劉安は「一人得道、鶏犬昇天(一人が道を得れば、鶏や犬も天に昇る)」という中国のことわざにもなっています。


一説によれば、劉安が神仙の術をきわめて霊薬を作り、それを飲んで天に昇って行った。すると、家で飼っていたニワトリとイヌも、その霊薬を舐めて劉安を追って天に昇って行ったという意味のことわざだそうです。


今の中国では、一族のうち一人でも出世すれば、能力もない親戚たちまで地位が上がるという意味で使われているみたいですよ。
「一人得道、鶏犬昇天」ん~、そっちですか? って感じです。


このことわざにもあるように、劉安という人は神仙の術にも詳しかったそうで、不老不死の霊薬を開発しているうちに偶然出来たのが「豆腐」なんだそうです。
豆腐ってもしかすると霊薬? 不老不死? なのかもですよ。

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古代の淮何、現在の中国の安徽省八公山というところには「豆腐村」というのが今でもあるそうです。
淮南王劉安の豆腐伝説の村。


まあ、改めて考えてみますと、大豆を煮てそのまま食べるのではなく、搾って豆乳を作って、にがりを入れて固めるっていうのは、かなり不思議な作り方ですよね。無理矢理の科学。なんで、豆乳とにがりを出合わせたのか。


言ってみれば劉安の学識は現代の科学ってことなんでしょうね。しかも世界全般に渡っての思考と科学。
淮南子はそういう書物ですもんね。

 


史実の劉安は、淮南王という立場から、中央集権を進める第7代皇帝の劉徹に反乱を企てたものの、信頼していた臣下の裏切りによって露見して、自害して果てたということです。


ことわざとなった「昇天」の話は、劉安の善政を慕って、淮何の人民たちが言い伝えて出来上がったものなんでしょうね。


さてさて、霊薬でなくとも全然問題ありませんので、きょうも豆腐、いってみましょうかね。古代中国科学の結晶です。