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【料亭】って今 誰が利用してんの?

< 花柳界って形骸化しちゃってる感じだなあって思ったこと >

JR飯田橋駅から早稲田通りを神楽坂方面に向かって歩いていました。
朝晩は肌寒くなってきた秋の日の快晴の午後の早い時間です。


カラコロと下駄の音を軽やかに響いて来ました。
結い上げ髪で三味線を抱きかかえた和服姿の女性、小走りの後ろ姿。
めっちゃ珍しいです。


ま、土地柄ってこともいえるのかもしれませんね、神楽坂が近い場所ですから。


しっかりとした和服姿に三味線っていうのを見たのは随分久しぶりです。
現役の芸者さんなんでしょうかね。三味線の稽古なのか、お座敷がかかって出かけて行くところなのか。
そんなことは知りようもありませんけれど、昔はこういう姿って普通に見られたんだろうなあって、知らないくせに妙にしみじみ。


と、お姐さんが背筋を伸ばして立ち止まったかと思うと、スマホを耳に当てて「はあい」


そりゃそうですよね、古い言い回しで言えば小股の切れ上がったような大年増ってところでしょうが、今どきの女性です。
アラフォーのすらりとした日本女性ですからね、スマホぐらい持ってますよね。


で、その後ろ姿を見たまま角を曲がってしまいましたので、表情まではうかがい知ることはありませんでしたが、形としては残っているんだけれど、和風と言いますか日本風っていうものの中身は21世紀なんですよね。

 


花柳界なんてぜ~んぜん近寄ったこともありませんが、業界自体、すっかり様変わりしているんでしょうね。
言葉としての「三業地」なんて、完全に死語ですよね。通じる人は限られていると思います。
花柳界っていう言葉も、なかなか通じないのかもですね。


置屋(おきや)、待ち合い、料亭の3つの業種が三業組合を組んでいる歓楽街のことを三業地と言う、っていうのは知識としてしか知りませんが、小股の切れ上がったお姐さんを見た神楽坂が、比較的昭和の後半になっても残っていた三業地ですね。


もちろん、すっかり消えてしまったわけじゃなくって、残ってはいるんでしょうけれど、かつての賑わいはないんじゃないでしょうかね。


置屋には芸者さんが居ますね。芸者さんを抱えているのが置屋です。
フジヤマとともに海外にも知られた日本の名物みたいに取り上げられることもあったゲイシャですが、芸者って呼ぶのは関東だそうで、関西では芸妓って書いて、ゲイギ、あるいはゲイコって呼ぶんだそうですね。

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歌舞音曲っていう「芸」で接待してくれるのが芸者、芸妓ってもんですが、相当な修行、練習がなければホンモノ、一人前には成れません。時間がかかります。
その修行中の身を、関東では半玉、関西では舞妓って言うんだそうです。


京都では舞妓さんが風物詩みたいになっている感じもあって、修行中っていうより、それで完成みたいにも扱われていますけれどね、本来、修行中ってことなんですね。

 


待ち合いっていうのは、要はスペース貸しですね。
その場所に芸者衆を呼んで遊興するっていう遊びの場です。


あくまでもスペース貸しですので、置屋から芸者衆を呼んで、料理屋から飲食物を取り寄せるっていう形態をとります。


待ち合いに飲食物を提供するのは、たいていの場合、三業組合に入っている料亭ですね。


三業組合っていうのは、その土地の生活を互いに支え合っていくための必要から生まれたものなんでしょうね。


料亭は飲食の提供と遊興の場を提供して、芸者衆を呼ぶっていうのが一般的。


料亭の酒と共に提供される和食をメインとした料理は、材料の吟味、器の贅を尽くして客をもてなしますので、そのお値段がね、ちょっとね、かなりのサイフをお持ちでないと、おいそれと経験できませんよね。
自然、政財界の大物が常連客、ってことになります。


その昔、政治は国会ではなく料亭で決まる、なんてことも言われた時代もありました。


一見さんオコトワリ、とかいうのは、この頃の料亭の常識で、既存客の紹介がないとは入れなかったらしいですよ。


オープンじゃなくってクローズドマーケット。それで成り立つ値段設定ってことなんでしょうね。
少なくとも昭和の終わりごろまでは、そういう空気感があって三業地っていう言葉も普通に知られていました。


田中角栄さんあたりが最後の利用者、時代的にそんな感じなんじゃないでしょうか。
ま、これはあくまでもイメージ的にってことですけれどね。


今、官官接待なんていうのも大っぴらには出来ませんし、大会社の接待費もちんまりしてしまって、料亭で「会議」とか「打ち合わせ」なんてやれる人はめっきり減っているでしょうね。


平成生まれの人たちが中堅層になってきている令和の今、料亭での遊びかたなんて知っている人もいないんじゃないでしょうか。


三味線の音を聞く機会も、ほぼ無いっていう世の中になりましたよねえ。
芸者さんの芸が判らないってことになっているんだろうなあって思います。


古典落語に出てくる言葉をいちいち説明しないと、噺が成立しないっていうのと同じ。


料亭は高級和食屋っていう顔がメインなんだろうと思うんですが、こっちのほうもね、食材からして、ホンモノかどうか判断できるレベルの人も少ないでしょうからねえ。


船場吉兆」っていう大阪を代表するような料亭が廃業したのは2008年のことでしたが、これは2007年の食材の賞味期限切れ、産地偽装という問題で休業に追い込まれて、1年後に再開したものの、今度は食べ残しの使い回しという何とも下司な問題で辞めざるを得なかったという後味の悪いものでした。


食い倒れの街として知られる大阪の料亭ですからね、とても残念なことです。


船場吉兆」は特殊な例だといえるでしょうけれど、今回のコロナ禍で閉業せざるを得なくなった料亭っていうのも少なくないそうです。


元々、政治家の政策決定に利用されたってことにみられるように、その閉鎖性、密閉性が特徴だったとさえいえる料亭ですからね、換気が良くってアクリル板で仕切られた席っていうんじゃ、もうカタナシですもんね。
安全かもしれませんけど、粋じゃない。


文化としては非常に大事な日本的なものだと思いますが、なにかこれまでとは違ったサービス方法を考えないと生き残るのはキビシイかもですね。

 


1881年明治14年に東京都千代田区永田町に設立された「星岡茶寮(ほしがおかさりょう)」はその名前の通り茶道の普及のために作られて、明治の要人たちに利用されたそうですが、やがて経営不振になって、関東大震災の後、1925年、大正14年に、あの北大路魯山人等に貸し出されて「美食倶楽部」の会員制料亭に変身しています。


知る人ぞ知るウルサガタの魯山人センセですからね、食材、調理方法に対するこだわり、さらには器の選定だとかで、周りと随分トラブったらしくって、10年余りで解雇されていますね。


1945年には戦災に遭って消失。
1956年には東急グループが、中国料理「星岡茶寮」を建設開業。
この中華料理店も1963年には閉業しています。


和食の方は、1933年に消失前の「星岡茶寮」で開かれた「日本風料理講習会」が現在まで引き継がれていて、阿佐ヶ谷に「星岡(ほしがおか)」という店を構えて、講習会、お茶会を令和の現在でも催しています。

 

時は流れていきますからね、どんどん変わっていくのは理の当然ってことなんでしょう。


料亭で芸者あそびとか、そういう時代じゃないよってことではあるんでしょうけれど、芸能の変化はやむを得ないことだとしても、和食の文化は受け継がれてきているんでしょうかね。


魯山人センセの意図したことを、現在の食材に合わせて、なんとか落としどころを見つけてもらって、できればリーズナブルに、味わえるような日本になって欲しいところです。


でもですね、令和になってから和服姿の女性って、ちょっと増えてきたようにも感じる、きょうこの頃です。


気のせい? かなん?