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【現代短歌ブーム】SNSとマッチしているらしい短歌

< 日本人が文字を持ってから脈々と受け継がれている短歌のエッセンスって なに? >

俵万智「サラダ記念日」が発売されて一大ブームになったのは、なんと1987年。
知っている人には分かっていただけるかと思いますが、「なんと」って言ったのは、あれからもう35年も経っているのかあ、っていうどこか不思議な感慨を感じてしまう2022年の今だからなんであります。


1987年といえば、日本がバブル景気に入ってすぐぐらいの頃ですね。
「サラダ記念日」の発表当時、俵万智さんは25才。
そっかあって思っちゃいますね。


短歌とか、ほぼ接点のない生活をしているからってわけでもないと思うんですけど、俵万智っていう人は、令和の今でもなんだか30才ちょっとぐらいなイメージのままです。
うんにゃ、イメージとかいっても、会ったことがあるとか、そういうことじゃないんですけどね。


当時、与謝野晶子の再来だとか騒がれて、現代短歌のブーム到来っていわれてました。

短歌とか全く無縁の酒呑みたちの間にまで、そういう話題が浸透していましたですよ。

 

 

 


「サラダ記念日」っていう本はバカ売れしたらしいんですけど、その後、特に短歌ブームっていうのが起こることもなく、35年も経っているような気がします。


俳句は五七五、短歌は五七五七七でしょ。ぐらいの知識しか持ち合わせていませんし、自分で詠んだこともないんですが、そういう輩でも俵万智の名前を知らない人は、当時大人になっていた人であればいないだろうと思います。


知識人って言うんでしょうか、文化系の有名人たちに強く支持されていた「サラダ記念日」
もちろん他にも出しているのかもしれませんけれど、俵万智の短歌は門外漢の私でもいくつか覚えています。


「この味が いいねと君が 言ったから 七月六日は サラダ記念日」


凄いよね、っていう大絶賛だったんですけど、どういうんでしょうかね、ふううんって感じしかなかったんです。
そんなに年齢の変わらない現代歌人俵万智っていう女性の感性がピンとこないんでありました。


俳句だとか短歌って、言葉のボリュームがとっても少ないですから、受け止める側としての解釈っていうのか、好き嫌いは極端に分かれるのかもしれないですよね。


同じ本の中の歌なのかどうか分かりませんが、ピンとくる歌もあったんですよね。


「ツーアウト 満塁なれば 人生の 一大事のごと 君は構える」


俵万智っていう人は野球好きなんでしょうかね。


真剣そのものに構えているのが、どのポジションの選手なのか、内野なのか、前進守備の外野なのか。
はたまた、構えているのはバッターなのかもしれませんが、真剣勝負のゲームの中にいる「君」を見ているんでしょうかね。
母親の視線で息子を見ているとは思えませんし、その覚悟やヨシってことでゲーム全体の緊迫感を見ている解説者的な感覚でもないんだろうともいますが、イイ歌だなって思います。


ただ、そうして夢中になれることをイイねって思っているのか、そこまで真剣になるようなもんなの? っていう客観的な視線なのか、どちらにも受け取れるって感じもありますけどね。


他にも好きな俵万智の歌もありました。


「ため息を どうするわけでも ないけれど 少し厚めに ハム切ってみる」


このハムの歌が一番好きですかね、たぶん。なんでかっていうと、ハムだからあ~。


「サラダ記念日」の後も歌集、戯曲、小説だとか、活躍している名前は報道の中で見ますけれど、やっぱり短歌ブームっていうのが在ったっていう記憶はないですんですよねえ。
短歌、落語。ブームってほどになったことあったかなあ。メディアが騒いでいるだけだったような感じです。


俵万智っていう歌人に対する評価は、現代人が現代の言葉で詠んだ短歌、現代の話し言葉で詠んでいるってことになるんですかね。
たしかに言葉の選び方とか、サイノー、ですもんね。


でも、あまりにも日常っていうふうに感じてしまって、その言葉の選び方の巧みさに気付かないだけなのかもしれません。
嫌いだとか、興味がないっていうのとはちょっと違って、よく分からないっていうのが、俳句、短歌に対する正直な思いです。

 

 

 


書き言葉が浸透してから漢詩に対する日本の歌だからってことで「和歌」


和歌の中にも長歌だとか、いくつか種類があって、和歌の中の五七五七七形式の歌が「短歌」


短歌には俳句のように季節を読み込むっていうルールはないんだそうですよ。


なので「気軽に短歌を詠んでみましょう」とか言っている入門ページがあったりしますけど、言ってる意味が分からない~、って感じでしかないですねえ。
気軽に、とか言われても、ちっとも出てきませんよ。誰でも詠めるってもんでもないような気がします。


平安朝以来、ずっと五七五七七の形式は守られてきて、時代が進んで上流階級のたしなみから、だんだん庶民の文化になって来たんでしょうね。


明治になって短歌に対する新しさを求める運動があって、それまでの歌を和歌、明治以降の歌を「近代短歌」っていうふうに区別している向きもあるみたいです。


その流れから今現在の短歌は「現代短歌」
いつから「現代短歌」なのかって、ハッキリした線引きは出来ないんでしょうけど、俵万智以来の流れっていうのは無視できないんでしょうね。
根拠なくそう思います。


でも、歌っている内容に大きく差があるってことじゃなくって、言葉遣いがその時代のモノになったってことだけなのかもしれないです。


小野小町
「夏の夜の  わびしきことは  夢をだに  みるほどもなく  あくるなりけり」


紫式部
「曇りなき 空のかがみと 見るまでに 秋の夜ながく てらす月かげ」


与謝野晶子
「やは肌の あつき血汐に ふれも見で さびしからずや 道を説く君」


与謝野鉄幹
「我妻は 藤色衣直 雨に濡れて 帰り来 その姿良し」


俵万智
「嫁さんに なれよだなんて カンチューハイ 二本で言って しまっていいの」


こうして並べてみますと、昔は季節も入っていたのが分かりますね。平安時代ね。

 

 

共通しているのは、その歌を詠んだ人、その人の独自で正直な気持ちが言葉を通して、読む人に伝わってくるのがイイ短歌だってこと、なんでしょうか。


ま、受け取る側の好みとか、そういうのが大きな要素だっていうのは他の文化ジャンルについても言えることですけどね。


時代によって言葉が変化して来ているのはハッキリと解りますけど、ちゃんと伝わるものは伝わるような気がします。
どう受け取るかは、読む側の自由ですから、いろんな解釈があるんでしょうけどね。


小野小町の夏の朝の「わびしきこと」っていうのが、1人で夜明かしをしたと受け取るか、隣りに男がいて、って考えるのかで、全然歌の意味が違ってきますしね。


詠まれているのが花鳥風月であれ恋愛感情であれ、日本人のDNAに訴えかけてくるのものは確実に守られてきているのが短歌、なのかもです。


説得力っていうのか、訴求力っていうのか、言葉に対する感覚はやっぱりサイノーなんでしょうけどね。


与謝野晶子の詩


「ああをとうとよ、君を泣く」
「君死にたまふことなかれ」
「末に生れし君なれば」
「親のなさけはまさりしも」
「親は刃をにぎらせて」
「人を殺せとをしへしや」
「人を殺して死ねよとて」
「二十四までをそだてしや」


なんて、今のタイミングで読み返しますと、ホントに人間って成長しないっていうか、バカな生き物だなあって思いますね。
100年以上前、1904年、明治37年の作品です。


現代語じゃなくたって意味はズド~ンって来ますもんね。サイノーでしょ、やっぱり。


対して、旦那の鉄幹さんの歌は、ふううん、ですけどね。
言葉の感覚って、どうもね、男より女の方がね。。。


閑話休題


SNS全盛の現在、なんと現代短歌がブームになっているんだそうですよ。


Twitterにはいくつもの短歌ハッシュタグがあって、Instagramには写真付きの短歌。


もちろんジジババでもSNSをやっている人はたくさん居るわけで、そういう人たちが、ある種の発表の場としてやっているのかっていうと、そうじゃなくって、短歌を投稿してるのは、いわゆるZ世代。デジタルネイティブの世代なんだそうです。


ま、当人たちは「Z世代」って呼ばれることに対して「なにがZやねん!」っていう気持ちみたいですけどね。
Zっていうシンボルはねえ、今はねえ、特にイヤでしょねえって思いますです。


でもまあ、なんの意図もなくミレニアル世代が「Y世代」って呼ばれていたっていう経緯から、その子どもたち世代ってことでの「Z」ってことでありますんで、そう重く受け止めずに、ここはひとつ、ってことで。(?)


SNS上での短歌ブームを専門家のオトナたちはこう分析していますですよ。


Twitterの短い文章でのネット発信がナチュラルな行動である世代に、五七五七七、31文字の短歌は格好の社会参加ターゲットになったんじゃないか」


「イイネ! がもらえるっていうことで、すぐに反応を感じられることも魅力になっている」


そう言われてみればそうなのかな、って感じで専門家たちの分析も受け止められます。


Twitterに詳しくはないですけれど、いわゆるツブヤキは、どうしてもその場に垂れ流している短い言葉の羅列って感じになりがちかもしれませんね。
まとまりがあってもなくても、tweet
完結性とかは求められない文化。


なんでこんなことをつぶやくのかな、ってことじゃなくって、発信することが重要って部分もありそうです。


でも、垂れ流しっぽいのには飽きてきているかもです。他人のtweetも自分のツイートも。


なんにしても文字ツールとして圧倒的な自由さで定着しているTwitter文化に対して、日本人のDNAがムクって持ち上がって、限られた文字数の中で、しっかりした作品、芸術の域にまで達している俳句、短歌っていうのが日本にはあるじゃんか。


ってことで、ちょっとキチンとしたtweetをする、っていうのに選ばれたのが現代短歌っていうフォーマットなのかもですね。


つぶやきっぽさを装ってはいても、垂れ流しじゃなくって「作品」ってことになるわけですからね。


なんか、ホントのところは全然理解できていませんけれど、Z世代ガンバレ! っていう気がします。


木下龍也っていう人のこんな短歌を見つけました。本も出している有名な人みたいです。


「鮭の死を 米で包んで またさらに 海苔で包んだ あれが食べたい」


イっすねえ。


短歌のDNA、日本人の才能はちゃんと受け継がれているような気がします。
サラダ記念日には2人の人間存在がありますけど、鮭の死は1人ですね。サイノーです。
すごく共鳴できる作品になっているんじゃないでしょうか。
おにぎりはシーチキンマヨでしょ、っていう人であってもね。

 

 

 


こうしたSNS現代短歌ブームに対してブログって、なんか新しいムーブメントみたいなのって出てきませんかねえ。


でもあれか、言葉がキラッて輝くのって、17文字とか31文字で勝負していればこそってことなんでしょうかね。


ま、あれです。どんな形式であれ散文にとって、一番大事なのは「言葉」そのものであることは肝に銘じていきたいところですね。


好きな近代俳句ってのがあんですよ。あの「山椒魚」の井伏鱒二の。


「春の夜や いやですダメです いけません」


ぶっはっは! え? SNS短歌の勝ち!? でもこれ「冬の夜や」ってバージョンもあんですよ。ダメ?


おあとがよろしいようで。