ウキウキ呑もう! ニコニコ食べよう!

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ーー 居酒屋トークの ネタブログ ーー

昔むかし【たしなみ】とう概念が日本人にはありました

< 昔はたしかにあったはずですが 日本人はいったい何を失ってしまったんでしょうか >

例えば、これまで接してきたマンガの中に、いくつもの感動作品があります。


1993年に発売された、鈴木志保(1969~)の「船を建てる」


元々は少女漫画雑誌「ぶ~け」で1992年から1996年に連載されていた作品なんですが、持っているのは2007年に上下巻で発売された単行本です。
評価も高くって人気もありましたから、読んでいる人も多い作品だと思いますが、傑作ですね。


少女マンガって、かなりレベルの高い文学作品が、けっこうたくさんあるように思いますねえ。

 

 

 


「船を建てる」は、クジラ解体工場で働いているオスとメスのアシカが主人公なんです。
でもなんだか性別があるような無いような、そんな世界観の作り方が巧みな作品。


その主人公2人の名前が「煙草(たばこ)」と「珈琲 (こーひー)」っていうんですよね。


「船を建てる」っていうタイトルもそうですが、こうした名前、作者の言葉の使い方にも惹き込まれます。


でも、「船を建てる」って、どゆことなんでしょ?
そんな言い方があるの?


2011年に発売された、三浦しをん(1976~)の「舟を編む」っていう小説も人気でしたよね。
こっちは「建てる」じゃなくって「編む」


舟を編む」っていう、この小説のタイトルは「辞書は言葉の海を渡る舟、編集者はその海を渡る舟を編んでいく」っていう編集者の意気込みの言葉から持ってきているみたいなんですけど、「船を建てる」っていうタイトルはイギリスのロック・ミュージシャン「ロバート・ワイアット(1945~)」の「Shipbuilding」からとっているみたいです。


ちなみに「舟」と「船」ですけど、一般的に「舟」は小型の舟、「船」は大型船を表すそうです。

 

造船中

 

さて、「船を建てる」ですが、この傑作を未読の人もいるかもしれませんので、あまりディテールの話まではしませんです。
しませんですが、煙草と珈琲の周りで生活しているアシカたちは人間と同じで、さまざまな思いを抱いて生きているんですね。


ま、人間生活と違うところといえば、不思議なファンタジーがいろいろちりばめられていて、珈琲は、なんでだか突然卵になっちゃって、およ? って思っていると、パカって卵から珈琲再誕生。


ただ以前と違っているところは背中に小さな羽が生えていることだったりします。


こうした出来事を、どう解釈するかってうのは、読む人任せですよねえ。


人間世界同様、いろいろな個性を持ったアシカたちの生活を描いている作品なんですけど、ファンタジックでありながら現実との向き合い方はシリアスで、無情な悲しさを感じてしまう出来事も時々あります。


不条理な事故によって死んでしまうアシカの話も出てきます。


人生には終わりがあって、その終わり方は選べないのが人生だけれども、目標っていうか、夢は持っていたいよねっていうことなんですよね。きっとね。


主人公の1人、煙草は、そもそもカンザスからメキシコへ向かっている旅の途中っていう設定。
働いているクジラ解体工場がどこにあるのか分かりませんが、煙草の人生の今は珈琲との生活です。


煙草と珈琲の今、それが「船を建てる」


仲間の中に、フロリダへ行ってワッフルスタンドを開くのが夢だって言っているアシカのオネエサンがいます。


その彼女の口癖が「ビールのコマーシャルみたいな生活をするの」


このセリフ。ずっと記憶に残ってしまっているんですよね。

 

 

 


フロリダの気候がどういうものなのか、具体的には知りませんが、なんとなくビールが似合いそうなイメージはあります。


特にバブル期のビールのコマーシャル。
まったく暗さのないニコニコの笑顔がハジケてましたよねえ。
実際にフロリダで撮影したりしていたんでしょうか。


どこまでも明るくって、悩みの無い青空が広がっていて、ビールジョッキを掲げる人たちだって悩みや苦しみからすっかり解放されているような、そんな瞬間を能天気に笑っている。


コマーシャルですからね、って、それは分かっているんです。でもそれでイイじゃないの。そういうのがイイのよ。あこがれなのよ。


「ビールのコマーシャルみたいな生活をするの」って言う言葉の裏に、今はそうじゃないけどね、っていう意味がダイレクトに感じられて、そして、おそらくは「ビールのコマーシャルのような生活」はやってくることはないだろうっていう、自覚があるように感じられるんですよね。


「ビールのコマーシャルみたいな生活をするの」って言っているのに、無常観が感じられちゃいます。


でもね、アシカのオネエサンは、静かに、何回も、何回でも言うわけです。


「ビールのコマーシャルみたいな生活をするの」


鈴木志保っていう作者、凄いなって思います。


そんな生活は、結局、自分の人生には訪れないだろう予感はあるんだけど、そんな気分に引きずられることはないし、自暴自棄になったりすることもない。


だってコマーシャルなんだし、自分がそうならないことは、別に悲しいことじゃない。
それが自分の人生だからね。
アシカのオネエサンにはしっかりした「たしなみ」があるんです。


自分の目的のために他人に迷惑をかけたり、ましてや騙したりして資金を作るなんていうことは考えもしません。


それってふつうでしょ。誰だってそうなんじゃないのって思っている人が、実は今、減ってきているんじゃないかって気がしてきている、きょうこのごろです。


21世紀、死語になってしまっているかもしれない「たしなみ」ですが、「酒は少々たしなむ程度で」だとかね、趣味や好みっていうニュアンスもある言葉ですけど、「つつしみ」特に「心得」っていうニュアンスで浸透していたはずの日本語でしたけど、今、どうでしょう。「たしなみ」なんて言ってたら世の中に置いて行かれますよ、ってな感じになっていないでしょうか。


即物的、刹那的です。自分も含めてみんなね。


世間の中で自分という1個人がどういう存在であるのかを意識した「たしなみ」はすっかり消えてしまって、自分さえよければ他人のことなんかどうでもイイし、世間が自分をどう見ているかも関係ない、世の中がどうなろうと知ったこっちゃない。


自己アピールだとか、承認欲求だとか言われている飲食店での犯罪動画。ちっとも減りません。


若者の劣化、って言ってシレッとしている大人が多いですけど、若者ってことだけじゃなくって日本人の劣化として捉えるべきなんじゃないでしょうか。
バカを作り出しているバカな世の中。


「たしなみ」「良識」を伝えてこれてないってことですもんね。


さらに加えて、嫌な事件が相次いで摘発されて、1985年生まれの犯人が次々に検挙されていますけれど、特別にその年に何かがあったわけもなくってですね、もうずいぶん前から日本人の「たしなみ」は失われてしまっているのかもしれません。


悪事を悪事と思っていない拝金主義。

犯罪行動に簡単に飛び込んでいってしまうバカさ加減。


もちろんお金は大事なものですけど、なんでそんなにお金のことばっかり言うのかなっていう世の中になってしまっている気もしますよ。


いつからそうなってしまったんでしょうか。


グローバリズムっていうアメリカ主導の舵取りは、もうずいぶん前に失敗しているんじゃないでしょうか。
日本の大企業も、経営陣と現場は隔離しちゃって、利益至上主義に走った結果、失われた30年ですよね。


みんなに支持される商品、製品を作り出す役割だったはずが、株主への高配当を果たすために拝金主義みたいになっちゃっている企業が多い感じは変りませんね。


経営陣の犯罪っていうニュアンスも感じます。


企業のトップがそんなんじゃ、魅力的な商品、世界的競争力のある製品なんて出てきませんよね。
日本はいま、急速に零落し続けています。


どこから変えていくべきなのか、ていうことになりますとね、ボンクラには分かりかねます。


せめて情報取得に長けた日本のデジタルネイティブ、ゼット世代が拝金思想にとらわれずに世の中をコントロールしていってくれるように願うばかりです。


しょう油舐めたり、他人の寿司を食べちゃったりしてる場合じゃないでしょ。


メディア報道にも考えるべきところがあるかもです。


ニュース番組に定番でくっ付いているウェザーニュース
天気予報はとっても有益ですし、誰にとっても必要な情報だと思うんですけど、同じようにくっ付いている円相場、為替情報っていうのもあるじゃないですか。
あれ、個人的には何の関係もないですし、ニュース情報として要らないと思うんですけどね。


株価の影響は間接的であったとしても、誰でも受けるものなんですよっていう説明がありますけど、そうだとしても日々の値動きって、関係ないでしょ。寄り付きは、っとか、知らんっちゅうねん。


そのくせ、そういう情報が必要な人には役に立つレベルの情報でもないわけでしょ。


株をやっている人だとか、投資している人たちって、ちゃんと自分なりの情報取得手段を持ってやってますよ。


日本企業を元気にするのって、資産価値とかじゃないんじゃないの? 仕事の内容でしょ。


なんでもお金に換算して判断する習慣から脱却しないと、失われた40年になって行っちゃいませんか。
政治家のセンセ方、企業経営のオエライさん方、ご自分の「あるべきよう」を再考願いたいです。

「実態経済」とか言ってますけど、実態じゃない経済って、なに?


「ビールのコマーシャルのような生活」っていうのは、そうじゃない生活時間があってこそ価値のある、アリガタイ瞬間なんですよねえ。
有り難いって書くんですよ。そんなにしょっちゅう有ることじゃないんであります。珍しいことなんだっていう自覚が薄れちゃってますよね。


安直に「ビールのコマーシャルのような生活」のイメージに飛び込んじゃいけません。

 

 

 


アシカのオネエサンはね、寂しい笑顔で言っているんだってことを「良識」で判断できる「たしなみ」を大事にしたいですね。


意識的には、まず自分からですけど、資本主義システムの根本って見直すべきタイミングなんじゃないでしょうか。


煙草と珈琲、21世紀の今、どこで、なにをしているんでしょう。

 

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