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【不運な名前】ジャーナリズム無きメディアは今も変わっていないのか

< 派閥争いって想像するより命がけ みたいなところを取材して報道していただきたいです >

庶民としては上の方で何が起こっているのか、ニュース報道によって知るわけですよね。
自分で取材するなんていう人はいないでしょう。


新聞、テレビ、ラジオのニュースに触れるとき思うのは、取材記者の質問の拙さだったりします。


国会の廊下で政治家を追いかけながらの質問は、その相手が隠したいことを持っていれば足を止めて応えるなんてことはないでしょうから、投げかける質問も難しいんだとは思いますけどね、記者の質問は「悪いことをしましたか?」的なものが多いです。
小学生か! って思っちゃいます。


「はい、悪いことしましたけど、なにか?」
っとか、応えるわけないでしょ。


もっと足を使って、周りを取材して、新しい事実をつかんでそれを言葉短くぶつけるだとか、プロの取材記者として工夫すべきことが実行されていないんじゃないのかって、がっくり来ます。
新人記者教育の現場にしている感じもありますよね。

 

 

 


なにか大きな出来事があって、その核心に迫りたいっていう気持ちは、もちろん、どなた様もお持ちなんでしょうけれど、与野党間、派閥間の勢力争いの中で、いろいろトバッチリを受けちゃう人もいるでしょうし、わはは、大儲けっていう人も出てくるでしょう。
そんなイメージしか持てない現状です。


こんなことがありました、って報道されて、ふううん、ってやり過ごしていくのが我々の日常生活ってもんですけど、改めて考えてみますと、ん? なんか腑に落ちませんねえってことが、昔からあるんですよね。


1868年、明治政府が成立して内閣政治が始まったわけですけど、これはもう、上の方の人たちにとってはドエライ変化ですよね。
政っていうのをやったことの無い人たちが集まって、あーでもないこーでもないってやるわけですもんね。


海外視察だとか、近代国家に肩を並べるためにやれることはなんでもやって、とにかく新制日本を形作りましょうってがんばります。


1871年明治4年廃藩置県ってことになって内閣政治が始まります。
誰もがみんな初めて。
なんですけど、この段階から派閥争いの萌芽がしっかりあるみたいなんですよね。


明治維新を主導した薩摩藩長州藩土佐藩肥後藩の四藩は「薩長土肥」っていわれて、新政府でも中核を担うことになります。
ま、この辺はどこの国でも、こういうことが起きればそうなるでしょうね。


忖度とか、そういうんじゃなくって、武力も含んだ実力ってことになるんでしょう。
四藩の中では土佐藩肥後藩では新政府に人数をあまり送ることは出来なかったそうで、初期の明治政府は薩長政権なんて言われ方をしますもんね。


新政府になったから、みんな平等に日本を発展させていきましょう! とかじゃないんですね。


政府の要職、権力は薩摩藩出身者と長州藩出身者が握ります。


ところが、幕末の長州征伐だとか、蛤御門の変だとかで、長州藩は多くの人材を失っているんですね。
指導力、知力に富んだ吉田松陰高杉晋作久坂玄瑞なんかは、みんな命を落としています。


で、最初の頃は薩長のバランスは薩摩藩出身者の方がハバを利かせていたみたいです。


新政府の混乱期とも言えそうな1877年、明治10年。4年前に征韓論問題で下野していた薩摩藩出身者きっての大物、「西郷隆盛」を西南戦争で失います。
この西南戦争では、勝海舟からも才能を認められていた「桐野利秋」も命を落としています。


その8か月も経たない1878年明治11年には事実上の首相を務めていた西郷隆盛の盟友「大久保利通」が暗殺されてしまいます。


こうなると薩摩藩出身者の優位性はかなり強く失われてしまいますね。


廃藩置県が行われたとはいうものの、この頃の派閥は政治的考え方によって構成されたものじゃなくって、まだまだ旧藩組織に寄るところが大きかったでしょうね。


このころの権力的に失地回復を急ぎたい薩摩藩閥には「大隈重信」「江藤新平」が居ます。
2人とも大政治家として名前を遺していますが、その実行力の裏側にロクでもない輩が巣食っているかもしれないっていうことは、今の、令和の政権を見ていても感じますね。
権力の周りには有象無象が集まるんですよね。

 

 

 


大久保利通が暗殺された1878年明治11年の暮れ、税金を納めた国庫から2円札のニセ札が発見されて大騒ぎになります。


この騒ぎは、なんだかスッキリしない、どこかアサッテの方からの力が働いているんじゃないかって気がします。
気がするだけですけどね。


「藤田組贋札(がんさつ)事件」として知られるこのニセ札事件には、松本清張が「疑問」を表明していて、「相模国愛甲郡中津村」「不運な名前」と、少なくとも2つの小説を著わしているんですよね。


この事件はそのニセ札がとても精巧に作られているっていうことが特徴らしいんですけど、誰がなんでニセ札だって解ったのか、各府県から集められた札の中からどこで使われたものなのかをどうやって特定していったのか、詳細は分かっていないみたいなんですね。


この頃のメディアがどういう状態だったのかは、ちょっと分かりませんが、捜査を進める警察機関は薩摩藩が主導していたらしいです。


翌年の1879年、明治12年に元は奇兵隊士だってされている「藤田傳三郎」が組織の7人とともに逮捕されます。


まあね、薩摩藩主導の警察機関が、長州奇兵隊出身の実業家を陥れようと企んだ事件っていうんでは、あまりにおバカでマンガじみているっていう判断が「世の常識」ってことになるんでしょうけれども、どうもね、怪しいことが続くんですね。


藤田傳三郎っていう人は、当時の藤田組を率いていて、藤田財閥創始者なんです。
あらゆる産業を手掛けて、政府にも取り入っていて、当時の日本の追いつき追いこせを実際にやっていた人です。


警察の発表では、長州藩出身の「井上馨」と藤田傳三郎が結託して、井上馨がドイツとフランスで、精巧なニセの2円札を作らせて、国内に持ち込んだもの、っていうことだったみたいで、薩摩対長州の色合いは濃くなってきますね。


家宅捜索で政府中央と藤田組の癒着は証明されたものの、ニセ札に関する証拠は何も出てこなかったそうです。
そもそもニセ札の犯人は藤田組だっていうのは、警察へのタレコミが唯一の情報だったそうですから、なんだかなあって結末になるのもわ分かる気がしますよね。
結局、藤田傳三郎は嫌疑不十分で釈放されます。


薩摩側のゴリ押しに、長州側の反撃があったんだとすると、ニセ札事件のホントの解決を強く要求されることになりますよね、警察は。


3年後の1882年、神奈川県愛甲郡中津村の熊坂長庵(くまさかちょうあん)がニセ札を作って、使ったっていうことで逮捕されます。


松本清張の小説タイトル「相模国愛甲郡中津村」は熊坂長庵の住居なんですね。


熊坂長庵の家からニセの2円札815枚と印刷器具が押収されたってことなんです。
裁判の結果、無期懲役


熊坂長庵っていう人は、医師、日本画家、元小学校校長で、地元で慕われていた人格者だっていうふうに語り伝えられているそうなんですね。


日本画家だし、印刷器具もあったわけですけど、とても「精巧」なニセ札を印刷できるようなレベルの器具じゃなかったっていう説もありますし、そもそもドイツとフランスで作っていたって話は、どこかへ消えちゃってますね。


裁判記録だとかは遺ってないんでしょうかね。
なんとも酷い捜査と裁判だったようにしか思えません。


上の方の権力争いがあったのは事実だとしても、そこまでやりますかねって感じです。
犯人を捏造して、この事件を終わらせてしまえ、っていうような思惑があったんじゃないでしょうかね。
じゃあ、誰を犯人にするか。
あ、ここに恰好な名前の奴が居る。


熊坂長庵。これ、「熊坂長範(くまさかちょうはん)」っていうワルモノと名前が似てるから、世間向けにもイイんじゃないか。


ま、ここまで酷くってレベルが低いとは考えられませんけれど、松本清張のもう1つの小説「不運な名前」の一番下のアイディアにはその辺もありやなしや、って気がします。


熊坂長範は、幸若舞とか謡曲に出てくる伝説の大盗賊。

 

こちらは五右衛門さん

 

牛若丸から元服していた源義経が、鞍馬寺から脱出して奥州平泉をに下っていく途中、義経一行を襲おうとして、逆に討たれるっていう芝居で知られた名前なんですね、熊坂長範。


今の時代と似たようなもんで無能な上の方で、熊坂長庵は熊坂長範にすり替えられていた。
んなバカな、っていう話ではありますけどね。


熊坂長庵は、北海道樺戸郡月形町っていう、札幌の北東、美唄市の西にある樺戸集治監に収監されて、1886年に獄死しています。まだ42歳という若さです。病死ってされてますけど死因は不明、


ちなみに藤田組は1884年に明治政府から秋田県の小坂鉱山を払下げられて、水力発電、黒鉱乾式製錬の事業を始めて世界展開しています。
2006年にDOWAホールディングスとして、今でも活躍しています。


そして現在の神奈川県愛甲郡愛川町中津には、国の登録有形文化財の「古民家山十邸(やまじゅうてい)」っていうのがあるんですが、これは熊坂長庵の邸宅なんですね。


熊坂家は愛川町豪農で、屋号が「山十」
無料で見学できるそうです。

 

 

 


古民家山十邸の周辺は、かながわのまちなみ100選に選ばれている景勝地です。


ニセ札の犯人の家? なんかね、ぜんぜん違うよね、関係ないよねっていう地元の人々の無言の政府批判が「古民家山十邸」を遺してきたんじゃないでしょうかね。


不運ってことじゃ済まされないはずですけれどねえ。
世の中、そういうもん? なのかもですけどねえ。