< 言葉が与えられたことによって何となく形があるように思えてくるのが概念 >
「クワイエット・クイッティング(Quiet Quitting)」っていう言葉、概念が日本で本格的に広まっていくのはこれからなのかもですけど、めっちゃ前から在る概念だと思うんですよね。
今の段階で「静かにやめる」「静かな退職」って訳されていますけれど、なんかシックリ来ない感じがします。
「クワイエット・クイッティング」っていう言葉が出てきたのは2022年7月、アメリカから、ティックトックでのことらしいです。
@zaidleppelinっていうアカウントから、
「仕事をいきなりやめなくても、規定以上に働かないようにしたらどうだろう。やるべき仕事はちゃんとこなすけれど、仕事イコール人生みたいな『ハッスル文化』のメンタリティーに染まらないようにすればいい」
っていう投稿があって、これに対して「いいね」が50万件以上も付いて拡散された、っていうのが始まり。
同じように考えている人たちからのコメントも多く寄せられて、たちまちアメリカメディアで様々な議論を呼び起こして、日本にも伝わって来たって感じなんでしょうかね。
いわゆる専門家たちの間では、新しい21世紀的概念っていう捉え方が多いみたいですけど、たぶん、こういう考え方って産業革命以来、どこの国にもあったんじゃないのかなって思います。
支持されたり無視されたり。そういう正弦波的に揺れた流れが、ずっとあるんじゃないでしょうか。
「仕事イコール人生みたいな『ハッスル文化』」っていうのはわりと近い過去、バブル期の日本でも言い表されていて、コマーシャルで盛んに流された「24時間戦えますか」っていうのがありましたね。
ワークライフバランス、なんて考える余地のない集団ヒステリーみたいだった感覚を記憶しています。
悪く言えば、バカじゃないと出世できない世の中って感じでしたね。
24時間戦えるビジネスマンなんてね、男女ともに、ヤですねえって思ってた人も一定数いましたですよ。
はい、その頃の私は「なんちゃってサラリーマン」ってのをやっておりましたです。
「ハッスル文化」っていう言葉は初めて聞きましたけれど、言い得て妙、ってとこでしょうか。
上昇志向っていう表現が、個人の向上心っていうプラス方向のジャンルから、出世欲、権力志向っていう色合いを濃くして来たのは20世紀後半ころから、なのかもなあって思ってしまうのは、それ以前の世の中を知らないから、ってことも充分に考えられます。
バブルがあろうがなかろうが、リーマンショックが起きようが起きまいが、我先にっていう考え方の人は昔から変わらずに居たんだろうって思えますもんね。
今回の「クワイエット・クイッティング」に対しては、
「給料分だけ働けば、それでなにか文句を言われる筋合いはないよね」
っていうような考え方に、働く人たちが落ち着いてしまうことを経営者側は恐れているっていう論調もありますが、給料分っていう割り切り方っていうのは、かなり独りよがりなもので、対価に対する根拠なんてないんじゃないでしょうか。
給料分だけ、っていう割り切り方は拠り所にはなり易いでしょうけれど、根拠なんてなさそうです。
「クワイエット・クイッティング」っていう言葉が出て来てから数か月しか経っていない現段階での評論家の判断は、なんだか持てる者と持たざる者との対立方向に偏っているような感じを受けます。
論点の矮小化。
今のタイミングで「クワイエット・クイッティング」っていう言葉が出てきたのって、そういう労働条件とかいう方向に重きがあるんじゃ無いと思うんですよね。
「クワイエット・クイッティング」は、もっとずっと普遍的な概念を言い表した言葉になっているんだろうって思いますよ。
「静かな退職」っていう訳に違和感があるのもそういうところなんですね。
「ハッスル文化」って、仕事がONで、プライベートがOFFなんだと思うんですけど、それを止めてもイイんじゃないの。誰彼と徒党を組んで運動を起こすってことじゃなくって、自分だけですんなりそういう働き方にシフトしましょう、っていうニュアンスが「クワイエット・クイッティング」なんじゃないかって思います。
人の生き方としてそういう方が、より自然なんじゃないの、っていう意志表明。
「アンチハッスル文化」
トリガーになっているのはコロナパンデミックでしょう。
リモートワーク、ズーム会議、っていうのが普通になった期間があって、家で家族と、あるいは独りで過ごす時間を強制されたっていう見方もできるかと思うんですが、そうなると、バリバリやっていた人ほど考えちゃうんじゃないでしょうか。
仕事ってなんだっけ? ってことをです。
家族と一日中一緒にいると、最初のうちは騒々しいなあとか、面倒だなあとか感じていたかもしれませんが、やっぱりね、腹の底から笑い合えたり、遠慮なくストレスのない時間を過ごせていることに気が付いて、ホントの自分はプライベートがONであるべきで、仕事はOFFでイイんじゃないか。
独りでいる場合でも、その充実感はプライベートの方が大きいことに気が付く。
でもまあ、誰でもってことじゃないでしょうけどね。
他人とのコミュニケーションがないと、生きている張り合いがない。そうしたコミュニケーションを得られるのは職場が一番でしょ、っていう生活スタイルですね。
もちろん、それはそれでアリですよね。っていうか、これまでのスタンダード、リアルノーマルです。
特にここ最近の3年間に就職したばっかりの社会人1年生、2年生、3年生。
それまでは学校の中で、友人たち、同級生たちとの集団生活を経験してきて、就職して社会へ出たとたんに孤独を強いられる形になってしまっていますからね。
パンデミック下での生活、世の中、こういうんじゃないはずだよねっていう気持ちもホンモノだと思います。
ただそういう世代の人が会社へ出勤して他人と触れ合いたいっていう気持ちと、自分の人生のON、OFFを考えることとは別のことに思えます。
会社なのか個人、家族なのか。
「クワイエット・クイッティング」っていう1つの言葉から、様々な社会現象を考え始めていることはプラス方向のベクトルを感じますが、今の段階では専門家の人たちの意見は結論ありきの論調に終始しているように思えます。
仕事をするために生きているんだよ、っていう考え方だってアリでしょうし、仕事は生活するための1つの手段っていう考え方も、実は昔からしっかりあるんだと思うんですよね。
生きるための仕事。衣食住に直接関わる仕事じゃない方が就労人口は多くなっている現状ですけど、働けハタラケっていうのはこの辺に事情があるのかもしれないです。
足りているってことを忘れた利益追求。
そうやって求めている人間の幸せって、なんなのかなあっていう考え方もあるですよねえ。
なんでそうなるかなあっていう不条理っていうのは、19世紀辺りから言葉にされて来ています。
1835年、ナサニエル・ホーソーンの「ウェイクフィールド」
主人公のウェイクフィールドは、ある日、妻には何も告げずに家を出て、すぐ隣りの区画で生活し始めて、20年後にふっと帰って来る、っていう話です。
この説明だけですと、単なる奇行の話って思えるでしょうけれど、そうした不条理の心理を抱えている現代人の生活の危うさが不思議な後味を残す作品です。19世紀の小説ですけどね。
そもそもの日常生活っていうのが、人間にとっての生き方として正しいものなのか、って感じですね。
1853年、ハーマン・メルヴィルの「代書人バートルビー 」
法律事務所に新しく雇われたバートルビーは、普通に仕事をこなしていたんですが、次第に「せずにすめばありがたいのですが」っていうセリフを口にするようになって仕事を拒否し始めます。
仕事をしない自由もあるだろうけれども、仕事をしないのに事務所に居座り続けるバートルビー。
所長はなんとか平和的に、人間らしく解決を図りますが、結局バートルビーは刑務所に収容されて、そこで食事を拒んだまま命を落とします。
「ああ、人間とは」っていう所長の言葉で終わっている作品です。
「クワイエット・クイッティング」っていう言葉が日本でもこれから取り上げられることになるんだろうって思いますけど、労働力の提供っていうことの方に力点が置かれそうな気がしますね。
今のままでは、ですけどね。
でも本当には、SDGsっていうことや、ダイバーシティだとか、今ある問題全体に対して、人間が本来あるべき行動形態を考えるきっかけになればなあって思います。
今、アフターコロナの生活に何かしらの変化が起きつつあるのは間違いのないことなんじゃないでしょうか。
ニューノーマルっていう言葉の定義も、まさに今のタイミングで定められようとしているわけです。
「Quiet Quitting」静かに退職するっていう訳は、たぶん、間違っています。
「クワイエット・クイッティング」は世界的な動きになるんじゃないでしょうかね。
wakuwaku-nikopaku.hatenablog.com
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