ウキウキ呑もう! ニコニコ食べよう!

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ーー 居酒屋トークの ネタブログ ーー

【ノンシャラン】の勧め

< なんか前時代的な空気感に囚われちゃって 息苦しいのはなぜなんでしょ >

「舌先三寸」っていうのが正しいんで「口先三寸」っていうのは間違いです。


っていってもですね、そうやって変わってしまっている日本語っていっぱいありますし、なんとなくニュアンス的に違いはないような感じですし、どっちでもイイんじゃないかって思います。


伝統的に「舌先」だったんだから、正しい日本語を守っていくべきです、っていうご意見に反対はいたしません。いたしませんけれども、しょうがないかなっていう諦念みたいなものも大事かなと。


そもそも「舌先」だろうが「口先」だろうが、「三寸」っていうのがどれほど正しく認識されているのかって、かなり怪しいんじゃないですかね。
「くちさきさんずん」っていう言葉を耳で聞いて知ってはいても、「三寸」っていう字面を「さんずん」って読めない人だってけっこう居そうです。


「三寸」は「一寸」の三倍なわけですけど、「一寸」ってナニ? ってなもんなんじゃないでしょうか。


建築関係とか、服飾関係の人であれば、日常の中にこうした「尺貫法」の習慣が息づいているってこともあるでしょうけれど、そうじゃない人たちにとって「尺貫法」はすっかり遠いモノ、関係性の無いモノってことになっているように感じますね。

 

 

 


一寸法師」っていうのがありますからね、「一寸」は「いっすん」って読むんだって知っている人は普通にいるんでしょうけれど、同じ字を「ちょっと」とも読むってことになると、どの程度浸透しているんでしょうか。
「ちょっとほうし」って読んだってマチガイじゃないんですよね。読み方としてはね。


日本語って昔からそんな感じで我々の生活を作って来たんじゃないでしょうか。


尺貫法の一寸は、メートル法では約3.03センチメートルなんだそうです。
3.03とかかなり細かい数値なのに「約」って付いてます。


そもそもの基準になったものが違うんでしょうから、きっちりは変換できないですよね。


家屋とか衣装とか、日本人の性格に密着したものは、メートル法でございますって言われたって、おいそれとは変換できないってことで、今でも使っているんでしょうし、遺していくべき文化なんだとは思います。
国ごとに地域ごとに違っていて当たり前のことなんですもんね。
みんな違って、みんなイイ、ってやつです。


ってことで「舌先三寸」の三寸は約9.09セントメートルってことになりますんで、舌の先から10センチメートルに足りない距離ってことになります。


うわべだけを取り繕った、気持ちのこもっていない言葉、っていうニュアンスの「舌先三寸」ですが、本当には思っていないことを口にしても、10センチも届きませんよ、相手の気持ちになんか全然響きませんよってことになるわけですね。


で、結局、気持ちのこもっていない言葉が発せられるのが「舌先」からでも「口先」からでも、どっちでも似たようなもんだと思います。


あいつは「舌先三寸」なヤツだからね、っていうような言い方は、例えば居酒屋トークなんかでも聞く機会はまず無いですよね。平成のころからそうなんじゃないでしょうか。
「ウソツキ」っていう表現は聞きますが「舌先三寸」は聞きません。

 

 

 


すんごく意味を拡げて考えれば「舌先三寸」って「社交辞令」っていう言葉に置き換わっているのかもしれません。


「ウソツキ」には、少なからず利害関係が伴うように思いますけれど、「舌先三寸」の方はその場しのぎ、こう言っておけば相手に好印象を与えることはあっても、自分の評価が下がることはないだろう、みたいなニュアンスがあって、利害関係っていうよりは丸く納まりますよねっていう見え透いたマルをもらいに行く意識。


「お近くにお寄りの際は」っていうのとあんまり変わらないような、思考が介在していない言葉。


それすら言えないような人だっているんだから、言えないよりは言えた方がイイんじゃないの、っていう考え方もあるのかもですけど、そういうお約束事が身の回りに溢れちゃって、「舌先三寸」「社交辞令」ばっかりの思考停止に陥っちゃっているように思えるのが、21世紀初頭の日本の政治状況。
求心力、無さ過ぎです。


コロナ禍っていう要因もあるんでしょうけれど、地球規模でかなりキナ臭い感じになって来ていますし、空気が重く凪いでいますよね。
風が吹いていないです。


そんなに強くなくともイイんで、世の中に風を吹かせてくれるような指導者に、そろそろ出てきて欲しいタイミングのように感じます。


まあね、ドナルドさんのような思い上がりの強い利己的な風じゃ困るんですけど、民主主義の危機ってかなり根深いものがあって、権力欲っていうものの正体が、現状ではかなり堕落してしまっているんじゃないでしょうか。


集団で何事かを成し遂げるためには権力構造が必要とされますけれど、地域に住む人々のため、国民のためっていう行動を推進するための権力が、自分自身の保身のためになっちゃっているのが、残念です。


政治家になろうとするベース自体に権力欲があるんでしょうから、なにか根本的な意識改革がないと、ホントに民主主義が死んでしまうんじゃないでしょうか。
まったく権力だとか、政治だとかいう世界とかかわりのない、遠くの方の外野から見ていてもそう感じます。


自己保身には無頓着で、今、21世紀のこれからの地球全体のために、やるべきことを決めて、実行して、期限を決めて、その日が来ればさらっと去っていく、ノンシャランな指導者って出て来てくれませんかね。


地球規模の閉塞感を吹き飛ばしてくれる風(かぜ)の指導者。

 

 

 


「どっどど どどうど どどうど どどう」


「青いくるみも吹きとばせ」


「すっぱいかりんも吹きとばせ」


「どっどど どどうど どどうど どどう」


風の又三郎は、高田三郎さんっていう名前の人です。


北海道の学校から、宮沢賢治の故郷の学校に転校してきた、髪の毛の赤い、風をまとっているような不思議な少年


新しく来た学校に、これまで友達同士で言ったことのなかった「お早う」を広めます。

自然にイイ習慣を根付かせちゃうんですね。
みんなが暑いなあっていうと、風を吹かせてくれます。


「雨はざっこざっこ雨三郎」


「風はどっこどっこ又三郎」

 

 

 

みんなとイタズラして、遊んで、あっというまに帰ってしまいました。


転校して来てからすぐに、北海度に戻ったみたいで、いなくなってしまったんです。


※ ※ ※
「先生、又三郎きょう来るのすか」とききました。
 先生はちょっと考えて、
「又三郎って高田さんですか。ええ、高田さんはきのうおとうさんといっしょにもうほかへ行きました。日曜なのでみなさんにご挨拶あいさつするひまがなかったのです」
「先生飛んで行ったのですか」嘉助がききました。
※ ※ ※


高田三郎さんは風の又三郎ですから、まさに飛び去って行ってしまったんでしょうね。


大人になった風の又三郎は、その影響力も大きくして、でもノンシャランな風来坊で、世界に新しい風を吹かせてくれようとしている、とイイんですけどねえ。


世界中、コロナとか、CO2とか、戦争とか、強い風でサアーッと吹き飛ばしてもらってさ、にっこりして暮らしたいです。


そんなに強く肩ひじ張らず、ノンシャランでいくのがイイんじゃないでしょうか。