< 児雷也豪傑譚(じらいやごうけつものがたり)は未完の大作 >
「大衆」っていう言葉を最近聞かなくなった気がします。
十把ひとからげっていうようなニュアンスがマーケティング的に避けられるようになって、廃れていったってことなんでしょうか。
大衆文化って呼ぶってことで大衆の扱いが良くなったり、文化レベルが上がったりとか、そんなことはないんでしょうけど、大衆を大衆って表現していた頃の方が、世の中的に元気だったかもしれないです。
ま、そういう名前の週刊誌はありますけどね。
あんまし文化的、って感じじゃないイメージです。
江戸時代の大衆文芸っていうのも、昭和の時代までは生き残っていたっていいますか、映画やテレビで取り上げられていたような記憶ですが、平成、令和の今はすっかり消えちゃった感じがします。
滝沢馬琴の「南総里見八犬伝」は1814年、文化11年から1842年、天保13年にかけて刊行された全98巻、106冊の大作ですけど、NHKで人形劇の「新八犬伝」が放送されたのが1973年、昭和48年から1975年、昭和50年でした。
なかなかの人気でしたですね。
「南総里見八犬伝」は、伏姫の数珠。100の水晶小玉と8つの水晶大玉の数珠なんですが、伏姫が自害すると8つの水晶大玉が大空に飛び散ってしまうんですよね。
8つの水晶大玉のそれぞれには「仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌」の文字が浮かんでいて、それぞれの球を持っているはずの8人の剣士たち、八犬士たちを集めてお家再興を図ろうっていう物語。
伏姫が自害せざるを得なかった事情とか、かなりエグイです。
親交のあった葛飾北斎が、
「ついにやりやがったな。犬の子を産ませやがった」
って言ったとか言わなかったとか。
これ、江戸時代の物語ですよ。
滝沢馬琴って、凄い人ですよね。とんでもないアイディアです。
出版っていう方法が版画だった時代の爆発的大ヒットだったみたいです。
歌舞伎をはじめとしていろんな形で演じられることになりました。
1984年、昭和59年に連載が始まって1995年、平成7年まで続いた「ドラゴンボール」は、世界中に散らばった7つのドラゴンボールを集めてシェンロンに願いを適えてもらうっていうコンセプトで始まった、ビッグヒットだったわけですが、ベースに「南総里見八犬伝」があるんだろうと思いますね。
ただね、「ドラゴンボール」は途中からギャグマンガっていうジャンルじゃなくなって、シリアスな格闘マンガになっていきました。
作者の鳥山明の構想としての、ここで終わりっていうタイミングを大きく逸脱して「続けられた」作品だったですね。
シリアスに変化していった経緯としては、同じ時代の「北斗の拳」の影響もあるのかもしれないです。
ま、なんにしてもドラゴンボールは「続けさせられた」結果として商売にはなったんでしょうけどね。
テレビアニメでも人気でしたし、映画も何本も作られました。
そうした意味では、いまだに「南総里見八犬伝」は昭和、平成って、生き残っているって言えるのかもしれないです。
カメハメハー! 出せないかなあって思いましたよね。思わなかった? そですか。
江戸時代に「南総里見八犬伝」に勝るとも劣らない物語があります。
こっちの方も、昭和の早い時期までは歌舞伎、講談、映画なんかでもてはやされたんですが、平成、令和の時代となっては全く聞かなくなりました。
歌舞伎の演目としては消えていないんだろうと思いますけど、それ以外では、なんでか消えちゃっているのかもです。
1839年、天保10年に出版開始だそうですから、「南総里見八犬伝」から遅れること25年。
1868年、明治元年まで、4人の作者によって書き継がれた大作「児雷也豪傑譚(じらいやごうけつものがたり)」がそれです。
歴代の作者は「美図垣笑顔」「一筆庵可候」「柳下亭種員」「柳水亭種清」っていう4人。
ほとんど名前の知られていない4人だと思います。
「美図垣笑顔(みずがきえがお)1789~1846」っていう人は、江戸で涌泉堂っていう本屋を経営していて、「南総里見八犬伝」の6集、7集を刊行してもいるみたいです。
狂歌もたくさん作っていたってことですから、出版するし、自分でも戯作するしで、なかなかの才人、エネルギッシュな人だったんでしょうね。
なんかね、もっと評価されていてもイイようにも思いますけど、今となっては知られていない名前ですね。
「一筆庵可候(いっぴつあんかこう)1791~1848」っていう人は、なんと浮世絵師の「渓斎英泉(けいさいえいせん」の戯作者名だそうです。
しかしですね、江戸時代の浮世絵、戯作周りの人間関係ってどうなっていたんでしょうかって思うんですが、「一筆庵」なんて言う名前は単なる思い付きみたいなもんでしょうけど、「可候」っていう名前はですね、葛飾北斎が名乗っていた名前をもらったっていいますからね、なんなんでしょうかね。
でもまあ、この人は浮世絵師として名前を残している人ではありますね。
英泉は現在でも人気の絵師です。
「柳下亭種員(りゅうかていたねかず)1807~1858」っていう人は、酒屋、本屋、小物屋だとか、いろいろ経験してから戯作者になったっていう江戸人ですね。
「柳水亭種清(りゅうすいていたねきよ)1823~1907」っていう人は、元、浅草日輪寺のお坊さんで、なんかね、不始末をやらかして寺を追われたっていう経歴の持ち主みたいです。
その後、許されたみたいですけど、柳下亭種員の門下に入って戯作者になったっていう飛騨の人。
明治維新が影響したものかどうか、書き継がれてきた「児雷也豪傑譚」は明治元年に書かれたものを最後として未完の大作なんですね。
柳下亭種員が亡くなって柳水亭種清が引き継いだんでしょうけど、柳水亭種清がなんで途中で止めたのかは分かりませんね。
寺に許されてからは常陸国、今の茨城県に寺を持っていたっていうことですから、江戸を離れることによって版元との関係が無くなったのかもしれません。
「児雷也豪傑譚」もお家再興の物語なんですが、歌舞伎なんかでも、見せどころは主人公の尾形周馬弘行が蝦蟇の妖術を使うところです。
この尾形周馬弘行が「児雷也」なんですが、蝦蟇の児雷也に対して、敵役、大蛇から生を受けた大蛇丸っていうのがいます。
そしてもう1人。尾形の血筋らしい怪力の美女、綱手が登場します。
この3人の妖術合戦が見せどころになっているんですが、このアイディアは一筆庵可候、渓斎英泉から始まったらしいです。
児雷也は「自来也」っていうふうにも書くんですが、宋の時代の中国に実際に居た盗賊。
盗みに入った家の壁に「我来也(われきたるなり)」って書きつけていたっていうエピソードから「自来也」っていう物語が「児雷也豪傑譚」に先だって人気を博していたっていことみたいです。
義賊の物語として日本に定着したっぽい自来也が児雷也になって、どんどんおどろおどろしくなっていったっていう経緯なんでしょうね。
児雷也の蝦蟇、大蛇丸のヘビ、綱手のナメクジっていう妖術合戦は、「さんすくみ」として知られています。
なんだか勝負がつくのかつかないのかっていうエンターテインメント。
しかもそのうちの1人が美女ですからね、出色のアイディアです。
このさんすくみは、じゃんけんの理屈ですよね。
カエル、ヘビ、ナメクジっていうさんすくみは「虫拳」としてじゃんけんに使われていたこともあるそうです。
日本で最も古いさんすくみの遊び。
ヘビはカエルに勝ちますが、ナメクジを飲み込むと身体が溶けてしまう。
カエルはナメクジに勝ちますが、ヘビには適わない。
ナメクジはヘビに勝ちますが、カエルには飲み込まれてしまう。
っていう関係なので、3者とも身動きが取れなくなってしまう。
ん~。分かるような気もしますが、え! そなの? っていうイマイチの臨場感ではありますね。
じゃんけんに使うときは、親指がカエル、人差し指がヘビ、小指がナメクジです。
映画では大蝦蟇の背中に乗った児雷也が、巻物を口にくわえて手印を組むと白煙濛々と湧き出でて、っていう演出で実写ですからね、けっこうグロテスクな映像です。モノクロね。
妖術を使う忍者の決闘は山田風太郎も書いていましたね。
単純な勧善懲悪ものじゃない大衆文芸って、令和の世の中でも、もっとね、出てきても良さそうに思うんですけどね。
人間社会って、そんなに簡単に割り切れることって、むしろ無いですからね。
メディアって言うのかジャーナリズムっていうのか、疲弊の一因って二元論に縛られているのが原因かもですよ。
大衆っていう捉え方で世の中に何を伝えるべきなのか、戯作作品に学ぶところがあっても良さそう、な感じ。