< 近くの雑居ビルにある「ロマンス」っていう名前の喫茶店 ちょっとだけ入りづらいです >
「ロマンだねえ」なんてなことを、時々、耳にすることがあります。
これですね、突き詰めて考えてみますと、どういう意味で、どんなニュアンスで言っている言葉なのかなあって思いますね。
「ロマン」
実現するのは難しそうだけど、そうなればイイよねえ。でもそれに挑戦するっていうのは素晴らしいことだねえ。
っていうぐらいの、ぼんやりした意味しか思い浮かびません。
日本にも「大正ロマン」なんていう言葉がありますよね。
「大正浪漫」っていう表記もありますし「浪漫」っていう言葉は、けっこういろんなところで目にする気がします。
「浪漫だねえ」
ん~。どゆこと?
「ロマン」っていうのは「ロマン主義」っていうのから来ているんだそうです。
18世紀から19世紀にかけてヨーロッパで起こった精神運動が「ロマン主義」っていうことで、なんだか堅苦しい雰囲気がしてきます。
精神運動ねえ。
って思ったら、そういう堅苦しいイメージの精神運動っていえそうな、教条主義、合理主義に相対する概念みたいで、「ロマン主義」が重視するのは感受性、個人の主観なんだそうです。
恋愛賛美、中世への憧憬っていうのが特徴ってことなんでした。
ははあん、なるほど。「ロマンだねえ」っていう時のニュアンスは、これですかね。
21世紀、令和の日本で「ロマンだねえ」なんていうときに、中世への憧憬なんてことはないでしょうけれど、なんとなく古き良き時代、昔は良かったよねえっていうノスタルジー的なニュアンスはありそうです。
アーサー・ラブジョイっていうアメリカの哲学者は、ロマン主義の時代っていうのは1780年から1830年の間、って定義しているんだそうですけど、めっちゃ短いやん。50年しかないです。
200年も前の50年しか続かなかった精神運動。それが「ロマン主義」
だとすると、その言葉の概念が今に残っている、なんとか通じるっていうのは、むしろ凄いことなのかもです。
「ロマン主義」を標榜していたのは主に文学のジャンルで、その後、写実主義、自然主義っていう潮流になっていったみたいですね。
「ロマン」っていう言葉自体は、やっぱりねって思うんですけど「ローマ」に由来があるんだそうですよ。
古代ローマ帝国の公用語は「ラテン語」
ラテン語にも文語と口語があるわけです。
時代が進んでいくと、この文語と口語っていうのが同じ言語とは思えないほど違ってしまって、文語の方のラテン語は一般庶民には通じないものなってしまったんだそうです。
違う言葉じゃん! ってことでラテン語の口語の方を「ロマンス語」って呼ぶようになったそうなんですね。
ローマ的な言葉、っていうニュアンスを感じます。
アカデミックな、お堅い言葉として区分けされてしまったラテン語に対しての「ロマンス語」ってことですから、「ロマンス」「ロマン」っていうのは、ローマ帝国庶民の、っていう意味を持っているんでしょうね。
「ロマン主義」が感受性や個人の主観を尊んで、恋愛賛美、古き良き時代への憧憬を重んじた文学だっていうのは素直に肯ける気がします。
アーサー・ラブジョイが何を根拠にロマン主義が1830年で終わったって言ってるのか分かりませんが、19世紀の文学作品に、そこを区切りと判断させる作品があるんでしょうね。
エミール・ゾラの「居酒屋」は1877年、「ナナ」は1879年の作品です。
この辺りから文学の「自然主義」が始まったってされていますね。
「写実主義」っていうのはレアリスムなんでしょうけれど、同じころの、文学っていうより絵画の方の精神運動がメインかもです。
日本では坪内逍遥が「小説神髄」で写実主義を表明したのが1885年のことですね。
勧善懲悪っていうような戯作はナンセンスだっていう主張ですね。現実をありのままに伝えるのがヨロシイって言ってますもんね。
ロマン主義から自然主義、写実主義っていうまでに40年以上の時間経過がありますけど、その期間には特に目立った潮流っていうようなものがなかったのかもしれません。
日本では写実主義の「小説神髄」の影響下に、あらゆる美化を排除すべきっていう「自然主義」が現れてきますね。
島崎藤村の「破戒」が1906年、田山花袋の「蒲団」が1907年、「田舎教師」が1909年に発表されています。
こんな感じで明治時代の日本は「自然主義」が主流だったみたいですけど、これとは一線を画した作品が1905年から1907年にかけて3回に渡って発表されます。
自然のあるがままにっていうのもイイですけど、そういった世俗から離れて、もうちょっとゆったり人生に向き合いましょうっていう「余裕派」って分類されていますね。
夏目漱石って、胃が悪くなるぐらい、めっちゃ考えてばっかりいる人っていうイメージですけど「余裕派」なんですねえ。
「倫敦塔」「坊ちゃん」と続けてヒット作を発表したこの頃の夏目漱石は、自分のことを「低徊趣味」って言っていますね。
「低徊趣味」っていう言葉は夏目漱石の造語だそうです。
イギリス留学生活には馴染めず、東大の先生として甚だ評判の悪かった夏目漱石。金之助センセ。
露悪的というか、自己評価が低かったかもしれない時代ですよね。
ところが作品は続けて大ヒット。文豪って言われて現代にその名前を遺している大作家です。
明治時代、開国間もないころの文学界は、これまでの日本になかった概念、その概念を表現している言葉がどんどん入って来ているわけですね。
「低徊趣味」っていうような、独自の造語をするのは夏目漱石に限ったことじゃなかったみたいです。
夏目漱石の作品に造語はいたるところに出てきますが、森鴎外の作品も同様ですよね。
文語、口語とかいうことばかりじゃなくって、自分の中に想いはあるけれども、それを表す適当な日本語がない。存在しないから、新たに造っちゃいます。っていう明治文学界の造語。
読む側は、当然ながら初めて接するわけですが、まあ、だいたいのところのニュアンスって言いますか、意味は通じます。読み取れます。
「肩凝り」っていう言葉も夏目漱石の造語だって言われていますが、これはなんだか怪しいらしいですね。
造語じゃないんですけど「浪漫」っていう当て字を作ったのは夏目漱石、だっていうのは確実な話みたいです。
「文学を考察して見まするにこれを大別してローマンチシズム、ナチュラリズムの二種類とすることが出来る、前者は適当の訳字がないために私が作って浪漫主義として置きましたが、後者のナチュラリズムは自然派と称しております」
これは明治44年に長野県の県議会事院での「教育と文芸」っていうタイトルの講演記録に残っていますから、夏目漱石自身の言葉を疑わなければホントだと思えますね。
「浪漫」っていう表記は、中国語にも浸透して、今でも使われているらしいんですよね。
ま、漢字を読みとして合わせるわけですから、中国としては、夏目漱石? 知らんがな! ってことも充分あり得ることかもしれないですけどね。
ロマンに対して浪漫って漢字をあてるっていうのは、2バイト文化として自然な気もします。
恋愛賛美、古き良き時代への憧憬を「ロマン主義」って言うことから考えますと、恋愛賛美を「女のロマン」って表現するのは、あまりにも当たり前過ぎるんで言わなくなって、「男のロマン」っていう言葉の方が今に残っているってことなんでしょうかね。
でもあれですね「男のロマン」って言った場合に、恋愛賛美って感じはあんまりしないですね。
だとすると古き良き時代への憧憬のことなんでしょうか。
これもどうもピンときません。
「男のロマン」とかいうときに、どこか「女には理解できないだろうけど」っていうニュアンスを、ちょっと感じます。
ん~。
自分で言い切る「男のロマン」っていうのは、相手が女の場合に限らず、相手に理解してもらえないだろうけど、オレはイイって思ってんの! ってことなんでしょうか。
誰か実現目標、夢を語っている男に向かって「男のロマンだねえ」っていう場合は、ちっとも現実的じゃないけど、いっていること自体は悪くないと思うよ、ってぐらいの感じでしょうかね。
実現出来そうなことだったら「ロマン」とは言いませんもんね。
無理矢理の結論!
「男のロマン」とは、タワゴトである!
いやまあ、男の側にも自覚はあると思いますけどね。とほほのほ、です。
「浪漫」のほうは、男も女も無くって、単独で古き良き時代、ってニュアンスを感じます。
ロマンねえ。
コロナ禍の今は、そういう方面のトピックって、全然聞こえてこない感じなのが悲しいです。
男もロマン、女もロマンで居られる生活がよさげな気がしますけどねえ。