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【ネコのエンパシー】言葉に先行する動物同士のコミュニケーション

< 自分はどういう生き物か考える そんなことを考えてる自分を考えるメタレベルの自分 >

コロナ禍の地球をカオスだって表現する人がいます。
カオス。渾沌。無秩序。エントロピー
そうなんでしょうかね。どうなんでしょうかね。


たしかに一部の人間にとってはカオスを感じざるを得ない状況なのかもしれません。


ワクチン接種ってことを考えてみますと、コロナ禍を脱出するための唯一絶対的な方法なんだから、接種しないなんてあり得ない、って人たちがいます。
いやいや、今のワクチン薬は開発工程の全てが特別、拙速臨時的になされたもので、充分な安全性なんかないんだから接種しないに越したことはないんだよ、っていう人たちがいます。


ネット社会の中で「インフォメーション・バブル」っていう状態も、身近な問題ですしね。


個人的な金儲けの手段としてコロナについての情報を扱っている「センモンカ」もいます。


とにかくワクチン接種率を上げたい、みんなにワクチンを接種して欲しいという政治家は、接種済み証明という制度を設けて、社会生活をおくる免罪符にしようとする動きも出てきました。


陰性証明っていうのと並行で運用されるみたいですが、せっかちな人はどこにもいて、催し物の会場に入れろ入れないで、衝突もけっこう起きているみたいです。


しかも、個人主義が確立されているかのように感じていたアメリカ、イギリスで、暴力沙汰が頻繁に起きているっていうニュースが続いていますしね。


両方に共通している感覚は「自分を守りたい」っていう考え、っていうより感情なのかもですが。


その催し物を楽しみたいっていう気持ちは同じはずなのに、対立してしまう。
純化して言ってしまえば、ワクチンを接種しなければコロナに感染してしまって危険じゃないかっていう考え方と、そんな信頼できないワクチンを接種する方が危険だっていう考え方。その対立。


ワクチン接種に反対する意見の中には、政府の陰謀説みたいなものもあって、1つではないみたいですけれど、ここにもう1つのグループもあって、両方の対立を黙って見ています。


ワクチンを接種したからと言って、変異をし続ける新型コロナウイルス感染リスクがゼロになるわけじゃないよ。
ワクチンは人間が、個人が感染しないためにコロナに対抗する武器の1つに過ぎないんだから、それだけに注力している政治やメディアの意見じゃなくって、自分自身で判断することが重要なんじゃないの。


こういう意見も尤もらしく聞こえますが、感染症対策の専門家にだって正体不明のコロナ対策なんて、素人の我々には、とても自分自身でなんか判断できませんよね。


結局、誰にも正解なんて分かっていない。政治にも医学界にも、ましてやジャーナリズム業界とかに正解なんて望めない。ハッキリした意見を公開する人もいるけれど、そこに根拠はない。


って、こういう状況を「カオス」って言っているんでしょうかね。

 

 

 


「おしりかじり虫」なんかからしてみれば、地球人はちと「集団ヒステリー状態」なのかもしれません。


宇宙の中の神秘として、命っていうのものが存在していて、地球は人間だけのものじゃないっていう考え方が、言われ始めたのもつい最近ですからね、無理もないのかもしれません。未熟者。


人類もウイルスも地球上の生き物なんですよね。
そもそも我々の身体の中にいるミトコンドリアって、人類とは全く別の生命体らしいですよ。


もしかすると、コロナに対して排除、殲滅っていう方向ばっかりに力が入り過ぎているのかもしれません。


「集団免疫」っていう状態に早く持って行って、毎年流行を繰り返しているインフルエンザと同じものにしてしまおうっていうのが、政治家や医療業界のホンネなのかもしれません。


今回のコロナ禍で改めて知ったこれまでのインフルエンザ、そのワクチン効果の実態っていうのも、なかなかにショックなものでした。


インフルエンザワクチンの効果は50%ほどしかなくって、毎年数十万人がインフルエンザで亡くなっているってこと。
えー! そんなに死んじゃってるの?!


ん~。人類とウイルス、細菌との戦いって、必ずしも人類が圧倒的優位な状態にあるってことじゃないっていうおとなんですね。そういう事実。


だって、自分自身の構造を変えちゃうんだよ、アイツら。


ってことなんでしょうから、根絶ッていうんじゃなくって共生ってことが、差し当たってのコロナ対策の正解ってことに落ち着くんじゃないでしょうか。
ま、今現在、専門家にもいろんな考え方があって、これから先もいろいろ出てくるんでしょうね。


神さま仏様にお願いしても正しい答えが得られそうもないコロナ対策で、せめて、人類同士、国民同士がもめるっていうのを、なんとか早急にストップできないもんでしょうかね。


アイツらは何も解っちゃいない。
ってお互いに考えて疑わない。


そういうグループがいくつもある、っていうのが現状なのかもしれないです。海外のことじゃなくって日本でもです。


そういう意味でコロナウイルスは人間を差別していませんからね。
地球人は「行動変容」する前に「思考変容」しなきゃダメかもですよ。


お、おまあ、アホやろ。ってヤツ。
ばあか、なヤツ。
ヤなヤツ。


そういう相手に対して、その相手の身になって考えてみる。っていう思考変容。


そういう意識を「エンパシー」って言うんだそうですね。

 

 

 


2005年に公開されたアメリカの映画「イン・ハー・シューズ」っていうのがありました。
作り方が巧いなあって感心させられた映画でした。


オシャレとしてクツが好きな人っていますよね。男にもいますが、圧倒的に女性に多い気がします。
実際、女性用のクツはいろんなジャンルがあって、色合いや、素材の違いを楽しめるように作られているんだろうなあって気がします。


そういう女性用のクツをアブ的に楽しむ男もいるらしいですが、それはもう、まったく別の話です。


ドレスアップして、ルージュをひいて、オシャレなクツを履いてっていうのは、女の戦闘モードだっていう話も聞いたことがあります。


この映画の主人公は2人姉妹なんですが、お姉さんがクツマニア。
オシャレなクツをたくさん持っているんですが、履かないんですね。ただクローゼットに並べているだけ。
敏腕弁護士で高給取りらしくって、かなり高価なクツばっかり。


履かないのに、なんでこんなに買っちゃうの、っていう妹に、履かなくたってこのクツたちは、自分にとっては充分な意味があるって答える姉。


ここで、クツそのものに存在感を持たせておいて、ストーリーは観ていない人にネタバレにならないように伏せておきますが、やがてお姉さんは結婚式をあげることになります。


その結婚式に、お姉さんはいろいろイワクのあったおばあさんのクツを履いて出てきます。


そのクツで、お姉さんの、妹の、おばあさんの、身内のわだかまりを、その解消の予感を象徴させて終わるんですね。


ま、こんな説明じゃ何も伝わらないかも、と思いますが、クツがモノをいう「イン・ハー・シューズ


で、この映画を観た時はそういう理解でしたし、ある種の感動をもらいました。


誰のものでもないクツが、誰かに履かれることによってその人のものになる。
その誰かのものになったクツを、その誰かじゃない人が履いてみる。
自分じゃない誰かのクツ。
履いた自分は何を感じるのか。履かれたその誰かはそのことをどう見るのか。そういう映画。


で、かなり経ってから、とあるイギリスのことわざを知りました。


「stand in someone’s shoes」


他人のクツを履いてみる、っていう意味ですね。


イン・ハー・シューズ」って、このクツだったんですね。
へええ、って思いました。


個人主義の確立した国ってうイメージのイギリスのことわざ。「他人のクツを履いてみる」


どうやらこれが「エンパシー」の正体のようです。


物理的なことじゃなくって、そういう思考方法。


対象相手がマイナス状態にある時の同情っていう「シンパシー」じゃくって、対象相手がどういう状態の時であっても相手の立場、気持ちになって考えてみる。「エンパシー」
利他的ってことでもない。


人間は言葉で考えます。感情じゃなくって、言葉としての理解を結果としてとらえることの出来そうな「エンパシー」です。


他人のクツを履いてみると、ん~っていう違和感があるとしても、その違和感こそが自分ではない、他人っていうものの正直な存在。


それが感じられて、そこから、なんでそいつはそういうことを言うのか、するのか。
それを考える。考える以上は言葉で理解するしかないわけですね。


言葉を持ってるのは人間だけで、人間だけが細かい意思疎通を図れる。明確な意思を持てるし、表現できる。
でも、時には「stand in someone’s shoes」ってことが必要になるよね、っていう、実は面倒なことも、言葉を持ってしまったからなのかもしれません。

 

 

 


実のところ、「エンパシー」って人間同士より、人間とイヌ。人間とネコの方が、なんでもなく巧くやっているんじゃないでしょうかね。


昔、一緒に暮らしていたネコは、私が身体的に疲れて帰ってくると、手と言わず顔と言わず、ザリザりと舐めてくれるんですが、舐めたあと、キョトンとした表情でじっと見つめてきました。


そして、精神的に参った時には、なんと前足で、トントンって腿だったり、うなだれている頭だったりを軽くたたいてくれたんですね。
「うんうん」っていう感じのトントンでした。

 

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めったに鳴かないネコでしたが、言葉を持たないネコの「エンパシー」


同じ地球に生きて在る動物同士の、ごく普通のコミュニケーション。だったと思います。


アニマルセラピーのイヌたちも、じいっと人間の目を純粋に覗き込んで、ただ、寄り添いますよね。


言葉じゃないんだよ、っていうのが「エンパシー」の正解なのかもしれませんが、生憎と人間に生まれついていますからね、言葉を大事に、他人のクツを履いてみて、言葉で納得しながら、コロナ禍のカオスを乗り越えていくしかないんでしょうね。人間ですから。


っていってもね、ヤなヤツと肩を並べて歩いていて、いつの間にか、知らないうちに歩幅が一緒になっている関係、なんて具合に、うまくいくのかっていう感じもしますけれどね。エンパシー。


ネコとかイヌとかの方が、相性イイってことなのかもです。個人的にですが。。。


年齢制限とかのない「コロナ治療薬」の開発、流通がいち早く望まれるところです。


それまでは、せいぜい「stand in someone’s shoes」「エンパシー」でコロナ禍を暮らしていきましょう。


現在の分断が止むを得ないものだとして、エンパシー・コミュニケーションで打開できる民族じゃないでしょうかね、少なくとも日本人は。

 

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