< オノマトペの語源は古代ギリシャ語「onomatopoiia」 名前を作るって言葉らしいです >
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散文を書く、書き続けるっていうことに対して、いろいろ考えてみる3回目です。
さて、みなさんご存じ「ガリガリ君」の「リッチシリーズ」
コロナ禍のせいなのか、2020年の「ピスタチオ」から新しいリッチシリーズが登場していないんじゃないでしょうか。
気付いてないだけ?
なんにせよ、2023年、またまた斬新なリッチシリーズの登場が期待されるところですよねえ。
2006年「ミルクミルク」「チョコチョコ」で始まった、ガリガリ君リッチシリーズなんですが、まあ、なんともザワザワさせてくれた衝撃リッチっていうのがありましたよね。
2012年の「コーンポタージュ」2013年の「シチュー」そしてあの2014年の「ナポリタン」と続いて、ナポリタンで決定打かと思ったら、2015年「コンソメMパンチ」2016年「メロンパン」
2017年からちょっとネタ切れなんでしょか? って思わせておいて、2019年「たまご焼き」「レーズンバターサンド」
で、2020年「ピスタチオ」だったんですよね。
食べました?
シリーズの中で最も衝撃だったのは、実に三億円以上の赤字を計上したともいわれている第三弾のナポリタン。
これ、さっそく飛びついたんですけど、ホンキでナポリタンやんけっ! ん~。むむう。だったですよ。
インパクトのある意外性で成功してきた「コーンポタージュ」「シチュー」の良い評判を吹き飛ばしてしまって、ガリガリ君ファンは誰しも、リッチシリーズはナポリタンの失敗で、尻すぼみの完結という次第になってしまったかと思っていたら、まだまだいくんでありましたねえ。まだまだいって欲しいんであります。
赤城乳業、そのチャレンジ精神や讃えるべし。2023年以降も期待させていただきます。
あくまでも個人的な思いですが、ガリガリ君は棒アイスのキング・オブ・キングでしょねえ。
圧倒的な認知度を持っていて、コンビニでは絶対に切らしてはいけない商品の代表格らしいです。
そりゃそうでしょねえ。大いに納得です。
他の棒アイスにはない、いろんなシリーズのバリエーションを持っているところは、アイス業界のトレンドを作ったっていう感じさえします。
アイス好きならずとも、ガリガリ君でしか出来ない楽しみ方がありますね。
それは、今やどこの居酒屋さんでも普通にメニューに載っている「ガリガリ君サワー」です。
中ジョッキにリキュール、たぶん甲類の焼酎でしょうけど。そこへ棒付きのままのガリガリ君。
炭酸を加えたり加えなかったり。居酒屋さんの仕入れ品としての棒付きアイス。ガリガリ君。
その形状、その色は、ガリガリ君しかないよねえ。みれば誰でもすぐにガリガリ君だって分かります。
初めて見た時、なんじゃそれっ! と、批判的に感じたものでしたが、あっという間に大人気メニューになりました。
他にもシャーベットタイプの棒アイスはたくさんある中で、なぜガリガリ君でなければならなかったんでしょう。
いやいや、ガリガリ君以外を試したりしないでしょ。っていうあたりが正解でしょうかねえ。
サワーを楽しむのにリキュールに突っ込まれるのはガリガリ君以外にないでしょ、っていうのが一番納得できそうな感じです。
ガリガリ君という名前は既に市民権を持っていましたし、その形や味もしっかり認知されていた存在だったから、ガリガリ君サワーが浸透したんじゃないでしょうか。
なにせ、ガリガリ君は棒アイスのキング・オブ・キングですからね。
取り立てて特徴があるとはいえないソーダ味で登場したガリガリ君。コーラ味が続きました。
シャーベットを棒アイスにしたっていうアイディアは画期的なものであったとしても、食べる側としては既知のものであったはずです。
それなのに、なんであっという間にダントツの人気商品になったのか。
名前です。そでしょ、名前でしょねえ。
「ガリガリ君」っていう名前にこそ、押しも押されもせぬ王者になった理由があるんじゃないでしょうか。
商品開発側としては偶然なのかもしれませんが、何とも天才的なネーミングです。あまりにもスンナリと入ってきちゃう名前だと思いませんか。
今さらながらに分析してみれば「ガリガリ」っていう擬音語に、擬人化としての「君」を付けただけのネーミングなわけですが、商品のイメージを伝えるとともに、呼びやすさ、親しみやすさ、安心感さえ、日本人なら感じないではいられないネーミングなんですよね。
ガリガリ君の場合は、シャーベットを片手に持ってガリガリ食べるっていう、擬音語としてのガリガリですよね。
でも、ガリガリっていうオノマトペは、もう一つの使われ方があります。
ガリガリに痩せている。ほんの数ヵ月会わないうちにガリガリになってしまった。というふうにも使われます。この場合はオノマトペの中でも擬態語に区別されるんでしょうね。
オノマトペは多くの外国言語にもあるようですが、当然ながらその外国語に特有の意味というか、ニュアンスを伝える役割を果たしています。
日本語のオノマトペは、擬音語より擬態語の多いことが特徴らしいです。
英語にももちろんオノマトペはありますが、その数は多くなくって、擬音語がほとんどなんだそうです。
当たり前の話なんでしょうけど、言葉は国によって違いますし、国が違えば生活習慣、風俗が違います。
オノマトペに限らず、翻訳の難しさっていうのは、この辺りにあるんでしょうね。
ある単語を辞書的に翻訳したとして、それはその国の空気感までは伝えられず、本当の意味では理解しようのない言葉になってしまう可能性は常にある、っていうことです。
さらに言えば、外国語のオノマトペともなると、精確な翻訳は不可能と言えるのかもしれませんよね。
オーストラリアとイギリスから来た2人の女子留学生とオノマトペについて少しだけ話をしたことがあります。
コロナのだいぶ前、居酒屋さんで偶然隣り合わせたんですが、わりに盛り上がった時間を過ごしたことがあったんですよね。
2人の女性とも数年の日本滞在者で、流ちょうに日本語を話す人たちでしたが、日本語のオノマトペの多さに驚くとともに、とても面白がっていました。
「そわそわ? ですか。なんでしょか」
「何かを布の袋に入れている音、ですか?」
落ち着かない気持ちのことです。
「へええ。でも気持ちが落ち着かないとき、そんな音しないでしょ」
「でも面白い表現ですね。そわそわ、分かる気がします」
「でも、あなた、そわそわしますか?」
「しますよ、たぶん、しょっちゅう、そわそわです」
両手を阿波踊りみたいにさせながら、面白いジェスチャーでそう言うので3人で大笑いしました。
オノマトペの意味を聞いて、その時、そんな音はしない、ってうのが英語圏の人たちの擬態語に対する正直な感覚なのかもしれません。
オノマトペ、イコール、擬音語という文化、っていうことでしょうか。断定はできませんが、そういう感覚は日本人との差のひとつといえるものなんでしょうね。
もちろん日本語のオノマトペにも擬音語はたくさんあります。ガリガリ以外にも、一般的に幼児語と呼ばれている言葉がその代表的なものになるでしょうか。
車のことをブーブーと言います。ネコのことをニャンニャン、イヌはワンワン、ですよね。
我々日本人は、誰でもこうした幼児語のオノマトペを耳にすることから言語を、日本語を習得してきたんじゃないでしょうか。
まあね、そんな言葉をしゃべっていた自分というのをイメージできない、記憶にない、というのが普通のオトナではあるでしょうけれど。
でも、幼児に向かって「ほら、あそこにニャンニャンがいますよ~」であるとか、「ブーブーが来るから気を付けなさい」であるとか、ごく自然に幼児語を使っているのは事実ですよね。
こうしたオノマトペは、使い方を学校で教わった結果ではありません。
誰もが経験してきているからこそ、普通に通じている言葉なんでしょうね。
言語習得前の、親との、世界とのファーストコンタクト。それがオノマトペである、って言っても言い過ぎではないと思います。
ワンワンという言葉の意味を何となく理解はしても、まだ自分では上手に発音できない頃です。世界は自分と親しかない時期。
ガリガリ君という名前の親しみやすさ、安心感は、この幼児期のオノマトペが持つ、幼児期の信頼感に拠るものかもしれません。だから違和感がない。理由はどうあれ結果的に大成功のネーミング。
幼児に向かって擬態語を使うことはないだろうと思いますが、擬音語の記憶があるからでしょうか、擬態語のオノマトペに対しても、安心感は決して希薄でないものがあるようにも思います。
少なくともオノマトペに対して邪悪な響きを感じ取ってしまうということは、ないんじゃないでしょうか。
オノマトペは、心の奥底に誰もが持っているボキャブラリーなんだって言えるのかもしれません。
副詞だ、形容詞だ、いや名詞だという区分けは置いておくとして、オノマトペ、特に擬態語とされる言葉を散文の中に使うことをヨシとしないようなことを公言している向きもあります。
でも、せっかくの日本語ならではの文化的特徴です。巧く使わないテはないと思います。
たしかに日本固有のオノマトペを外国語に翻訳する難しさは否定できません。
ですが、翻訳される心配を書く前からする必要って、ね。
散文の中で使えるシチュエーションならば、オノマトペを利用するのは有益な手段の1つだと思います。
オノマトペが巧く使われている文章は、オノマトペ以外の言葉が持ち得ない、単語外の意味を持っていると思われるからです。
擬音語にはその言葉が示す対象物以外の意味を伝える機能は少ないでしょうけれど、擬態語には表現されている場面の空気感といいますか、心情のニュアンスというものを、説得力を持って伝えてくれる機能があります。あるように思います。
使うべきでないと主張する人たちは、オノマトペの幼児性という感覚に囚われてしまっているのかもしれません。
擬音語は確かに幼児性を感じさせる言葉が多いですね。ただ、そうしたオノマトペにしても、使うべきではないという感覚は、個人的に理解できませんねえ。
それに、擬態語には幼児性を感じさせる言葉は無いといって差し支えないんじゃはないでしょうか。
ただし、オノマトペを巧く使う、っていうのは簡単なことではないですよね。
まず、オノマトペがその散文の中で目立ってしまっていては、巧く使えているとは言えそうにないです。
目立ってしまっているっていうのは、オノマトペがうるさく感じられる場合です。
レトリックとして失敗している状態。
オノマトペを使用していない比喩の場合でも、巧くいっていなければ浮いた感じになって、説得力を持つどころか違和感さえ与えてしまうんじゃないでしょうか。同じですね。
一般的な比喩表現は文節として使用されるのに対して、オノマトペは単語です。短い分だけ違和感の正体を負わされやすいと考えられます。
当たり前のことですが、オノマトペが悪いのではなく、使われ方が相応しくないってことです。
さらに難しいのは、言語を習得してから、つまり日常生活を送るにあたって充分な数の言葉を習得した後で得たオノマトペの存在っていうのがあります。
特に幼児の頃の生活の中で、自然に習得したオノマトペじゃなくって、後の学習によって習得したオノマトペっていう存在は誰にでも少なからずあると思います。
こうした、後の学習によって習得したオノマトペには、生活習慣っていう、オノマトペにとって最も重要であると思われるペーソスが欠けていたり、間違っている、つまり他の人と、そのオノマトペが持っている空気感が違ってしまっている場合がありそうです。
オノマトペの方言。
この場合、使っている本人は、そのギャップに気づき難い、っていうことになってしまいますね。
会話の中で使った言葉を、指摘されて初めて間違いに気付く。という経験は誰でもしていると思いますが、オノマトペの誤使用に関しては不思議にスルーされてしまうことが多いように感じます。
ヘンな表現、と感じても、まあ、オノマトペに目くじらを立てなくともイイだろう、っていうような根拠のない緩やかさがあるんじゃないでしょうか。
使用する側が確認していくしかないんですね。オノマトペの研究は決して盛んじゃありませんが、辞書も出版されています。
なにしろ巧く使用されてるオノマトペの効用は、かなり高度に計算された結果、っていう評価がなされる種類のものじゃなくって、スムースに読み過ごされていくがために、細かく注意していないと、なぜ気が付かないほど巧く配置されているのかを、認識し難いものですよね。
使い過ぎることは、オノマトペに限らず、比喩の場合でも避けるべきことですが、創作者の心得として、そのオノマトペがどういう空気感を持っていて、読む側にどういう効果を与えることが想定できるのか、改めて認識しなおすことは、無駄ではないはずです。
作品のブラッシュアップの時なんかには、とっても重要なチェックポイントになると思います。
オノマトペは、とんでもない影響力を持っているですよ。巧く使えば、ですけれどね。
以上、パアパア言わせていただきました。
さてさて、ガリガリ君リッチシリーズ、2023年以降は、どんなのが登場してくるでしょう。
「そわそわ」しちゃいますう。
< いろいろ考えるです >
【考えてから書くか、書きながら考えるか】散文の書き方を考える その1
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