< 百年の誤読っていう連載がありましたけど 感じ方が違うっていうんじゃないレベルが誤読 >
ブログ記事、小説、シナリオ、エッセイ。
散文を書く、書き続けるっていうことについて、いろいろ考えてみる5回目です。
随分前のことになりますが、ある文芸誌で新人賞の応募作品数が雑誌販売実績数より多かった、という話がありました。
小説を読まずに小説を書きたいっていう、意味不明な新人類の時代が来たっていうような評判になりました。
古いって言っても20世紀末のことです。
あれから時代が進んで21世紀になって、スマホ、パソコンが当たり前になってウェブが浸透すると、自由に自分の小説作品をホームページ、ブログだとかに公開することが可能になりました。ネット時代の到来ですね。
人気のブログの中には小説を書くためのノウハウを提供しているものや、小説を書こうとしている人を応援する趣旨のものが少なからずあります。
ブログで小説の書き方を指南しながら、そのブログの中に自作の小説を発表するっていうスタイルのものもありますね。
ブログマンガが、人気が出ると改めて紙媒体で出版される例は枚挙にいとまがありません。
小説を書いている人の数と、小説を読んでいる人の数が、それぞれどれくらいでどういう割合になっているのかっていうのは、寡聞にして知りませんが、出版不況と言われてからも数十年が経っています。
それでもまだ小説を読んでいる人が相当数居ることは間違いないと思います。
では、小説を書いている人の数はどれくらいなんでしょう。
これまでの流れでいえば、小説は読まないけれど小説を書いている、っていう人の数を知りたいところですが、調べようもありませんので、ここでは単に小説をはじめとした散文を書いている人、書きたいと思っている人にのみ焦点をあてて考えてみます。
小説、エッセイ、あるいはブログ記事にしてもある程度まとまった散文を書き上げるという作業は、それなりに工夫、努力の必要なことですし、おいそれと成し遂げられることではありませんよね。
孤独な作業ですし、かなりの精神力も要求されます。
苦行のようなものと解釈することもできそうです。
それなのに、なぜ多くの人が小説を、エッセイを、シナリオを、ブログ記事を書こうとするのでしょうか。
小説を書くっていう行為には、摩訶不思議な、人智を超えた魅力が存在しているのかもしれません。
小説を全く読まないと公言していた人が、ある映画を観て、その原作があることを知って本屋さんに走りこんだっていう話を聞いたことがあります。
小説はすっかり生活のなかに入り込んでいて、特に意識として小説を読む習慣があるとは感じていない場合もあるのかもしれません。
その人は、小説を読む冊数は少ないのかもしれませんが、小説という存在はしっかり頭の中に、自然と浸透しているっていうことなんでしょう。教科書の中にも小説ってありましたしね。
小説なんて、って言いながら、誰にとっても、すぐそばにあるのが小説だったりするのかもしれません。
一方、小説を読むのが趣味、本を読むのが大好き、本が好きっていう人も少なからずいて、積読なんていう言葉も案外と浸透していますよね。積読山脈なんていう言い方もあります。
まあ、読まないけれど買っておく、っていうんじゃなくって、読みたい本はすぐに手に入れておいて、いつか読もうとは思っているんだけれど、読むスピードより買ってくるスピードのほうが速い、っていう結果なんでしょうけどね。
このところ出版されてすぐに絶版になったりする本も多くって、興味のある本は素早く手元に置いておこうっていう、本好きの人たちの受けているプレッシャーは確かにあるんじゃないでしょうか。
積読は出版業界の新たな作戦にしてやられた結果なのかもしれません。
ん~、違いますかね。
今回は本の読み方。特に小説を書くための小説の読み方、について考えてみます。
その昔、小学校中学校時代、読書感想文っていうものを書かされたましたよね。
かなりつまらない授業だった記憶があります。
もちろん、得意だった人もいるでしょうけれど。
あの読書感想文っていうのは、いったい何を学習させようとしたものだったんでしょうか。
ただ単に小説っていう媒体に馴染ませようとするものだったのか、それとも、文章の読解力をつけさせようっていう目的だったんでしょうか。
読解力をつけさせることが目的だったんだとすれば、そもそも現代国語の授業自体がほとんど文章の読解力に役立つものとは思えませんでした。
ことに読書感想文の問題は、小説や詩に対して、何が書かれているのかを問い、回答を採点するものだったと記憶しますが、個人が感じたことに点数をつけるなんてことは、大きなお世話だと憤慨したものでした。
その感想は間違っている、とかいうことが誰に判定できるというんでしょうかね。
小説や詩の読後感に対して、正しいと判断される感想があるとは思えませんし、ましてや間違った感想などという概念は、採点する側に回った者の思い上がりなんじゃないか、とさえ思います。
とにもかくにもツマラナイ授業でした。
ま、現代国語担当のセンセにもよるんですけどね。
さらに言えば、間違った感想、とかいう評価を受けて、読書が嫌いになってしまった人も少なからずいるんじゃないかっていう、残念な教育方針に思えます。
そもそも多くの人は、男女の差なく、物語が好きなのが自然だと思います。
小さな子供の頃、夢中になる絵本に出会うと、何度もなんども読む、っていうか見る、っていうか味わう。
同じ話なのに、何回もなんかいも読んでくれと親にせがむ。そういった経験は誰にでも思い当たるでしょうし、今だって、普通にあることなんじゃないでしょうか。
絵本の物語に感動している子供の中ではいったい何が起きているのでしょう。
物語の世界に浸って、自分の感情がどうしようもなく動いている。それを感じ取っているからこそ、またあの、自分の気持ちが動くっていう不思議な体験を味わいたい。
あの、物語世界が与えてくれる独特な感覚。楽しい、嬉しい、あるいは怖い、素晴らしい世界がそこにあると感じさせてくれる物語の世界。
もう一度、何度でも、感じたい。自分が不可思議な感覚にとらわれる素晴らしい時間を。
なぜ自分の気持ちが動くのか、面白い、楽しい、不思議だと思う幸せな感覚。
その時、生きている実感そのもの、を感じ取っているのかもしれません。
まだ充分に字が読めなくとも物語は感じ取れる。やがて字も読めるようになり、自分で好きな本を探して読むようになる。
本を読むことの楽しさに初めて出会った時の記憶自体は、大人になると薄れてしまって明確なものではなくなっているかもしれません。
でも、おそらくそうした感覚の味わいが本好きのスタートだったんじゃないでしょうかね。
しかつめらしく言えば、形而上世界に遊ぶことのできた最初、といえるのかもしれません。
物語を見たり聞いたり、本を読んだり聞いたりするっていうことは、なかなかに能動的な人間行為ですよね。
大人になると、感動や感激、そうした感覚は鈍る、んでしょうか。
いえいえ、どんな本に出合うかは運しだい、というところがあるかと思いますが、いくつになっても大きな感動をもらえる小説はたくさんありますし、いわゆる人生を変える一冊っていう本に出合う人もいることは知られている事実ですね。
小説っていう芸術は、人が生きていくうえで、実は、なくてはならないものだと思います。
食事をするように本を読む、っていう言葉を聞いたことがあります。共感できる感覚です。
やがて、ふと、理由なんか無いとしても、小説を書こうと思い立った時、自分が感動した小説を目指す、あるいはその小説以上の感動を書きたいと考えるんだと思います。
大きなことを言わせてもらえば、小説を書く以上、ライバルは村上春樹であり、東野圭吾であり、カズオ・イシグロであり、スティーブン・キングであり、トニ・モリスンなんですよね。
そんな大それたことは、なんて考えちゃいけません。これから小説を書いて、世に問うっていうことは、そういうことなんです。たぶんね。
書いた本人がそれほどの出来でもない、っていうんじゃ意味がありません。百年、千年生き残る作品を目指しましょう。心がけとしてね。
しかしまあ、今あげた先人作家たちの作品が、なぜベストセラーになり、なぜノーベル賞を受賞したのか。
作品の好みっていう面もありますが、受賞作品に対する評価は必ずしも絶賛ばかりではありません。意見は分かれます。受け止め方は本当に人それぞれなんですよね。
話しは少しズレますが、「空中に消えた音楽をつかまえることは、誰にも出来ない」という言葉をご存知でしょうか。原文は、
When you hear music , after it's over , it's gone in the air. You can never capture it again.
アメリカのジャズ・ミュージシャン「エリック・ドルフィー(1928~1964)」の有名なセリフなんですが、有名な焼酎のラベルにも記されています。
知っている方も少なくないと思います。そうです、「百年の孤独」っていう名前の焼酎です。
宮崎県の黒木本店が発売している麦焼酎。大変な人気で、今ではプレミアがついてなかなか手に入れることができません。
いつから発売されているのか調べていませんが、その昔、酒屋さんで見かけて、ほほう、とその名前に惹かれて買って、仲間との呑み会に出して堪能しました。
その頃はプレミアなんかついていなかったと記憶しますが、樫の樽で熟成させたようなウィスキー色の焼酎です。
いや、焼酎の話じゃなくって「百年の孤独」です。
百年の孤独っていえば、言わずと知れた「ガルシア・マルケス(1927~2014)」の長編小説ですよね。
読んだことはなくともそのタイトルだけは知っているという人も多いと思います。
その呑み会の時、本好きが4人集ったんですが、全員が既読でした。「百年の孤独」
で、当然のごとく、小説「百年の孤独」についての感想談となりました。
どの本でもそうでしょうが、本の感想は人それぞれに違います。
その時もバラバラな話になりましたが、ある部分の受け取り方について、前後の流れからして、そういう解釈が成り立つわけがない、とかね、ケンケンガクガク、になるかと思いきや、あっさりと、あ、そういうことか、って納得してすんなり話が進みました。
他人への配慮というより、読み方のキャパシティの問題なのかもしれません。
4人ともしっかりした本読みだったっていうことが言えると思います。
「百年の孤独」はマジックリアリズムの代表的な小説ですしね。単純単一な解釈というのが成り立ちにくいっていうことは充分に考えられますしね。
相手の受け取り方を尊重はしますが、間違った受け取り方、っていうのがどうしようもなく存在することもまた事実です。誤読ってヤツですね。
それにしても、とその時思いました。誤読、っていうのは極ありふれた現象なんだなあと。
その時のメンバー全員が既読の小説だったとはいえ、全員が習慣的に本を読むわけではありませんし、ましてや散文を書く習慣など4人とも全くありませんでした。
焼酎の「百年の孤独」とアテとしての小説「百年の孤独」っていう組み合わせはかなり上質なものだったと思うんですが、書かれた文章を好むと好まざるにかかわらず、誤読せずに受け取れるかどうかっていうことは、小説を味わうのに重要なことだっていうことを感じました。
4人のうち2人が誤読しまくりで、残りの2人が主に誤読の解釈修正をしたんですが、ギャグについてどこが可笑しいのか後から解説するようなもので、興ざめ感は拭えませんでしたけどね。
でも、イイんです。誤読の結果としてその小説が面白くなかったとしても、それはそれで味わいかたの1つでしょう。正しい感想なんていうものは存在しないと思います。
書かれている事実認識が違っているのが誤読なのであって、感想についての指摘ではないんです。
もちろん、誤読の指摘に納得がいけば、その感想自体も変わっていこうっていうものです。
誤読は、誤読している事実に本人は気付かないっていう点が厄介なところです。再度読み返す機会があれば気づくでしょうけれど。
例えば、小説の書き方、シナリオの書き方についての本を誤読していては不利益この上ないことになるんじゃないでしょうか。
良質なノウハウ本はたくさんあります。たくさん読んでおいて悪いことはないと思います。
誤読なく読みさえすれば、という条件付きにはなりますけれどね。
ところで、小説の書き方本は、概念的なものが多いように思いますねえ。
当たり前ですよね。書き方に正解や公式なんていうのがあるはずないですもんね。
有名有意義な小説の書き方本として、
前田塁「小説の設計図」
スティーブン・キング「書くことについて」
日野啓三「書くことの秘儀」
ミラン・クンデラ「小説の技法」
等々があります。
でも小説の書き方本よりも、シナリオの書き方本の方がより具体的に書かれているかもしれません。
小説とシナリオ。物語を書くっていうことについてはとても似ている両者ですが、映画など映像作品の土台となるシナリオは小説と違った職人技術のような約束事があるからかもしれません。
有名有意義なシナリオの書き方本として、
野田高梧「シナリオ構造論」
リンダ・シガー「ハリウッド・リライティング・バイブル」
新井一「目からウロコのシナリオ虎の巻」
ブレイク・スナイダー「SAVE THE CATの法則」
等々があります。
小説の書き方本も、シナリオの書き方本も、まだまだたくさんの優れたものがあるだろうと思います。
どの本も著者渾身の作でしょう。
これらの本を誤読したが為に、オリジナルな手法を会得する、ということもないではないでしょうけれど、やっぱり誤読せずにエッセンスを受け取りたいものですよね。
本との出会いは、散文を書くと書かざるとにかかわらず、人との出会いよりは自由なものだと思います。
本は選べますからね。
途中で投げ出してしまうような本もあるかもしれません。
解説本を誤読せずに理解する方法は、たくさんの小説との出会いを果たして、いくつかの文体、それによって醸し出される文脈を経験することが肝要なのではないでしょうか。
身もふたもなく言ってしまうと、誤読したってイイんだと思います。
誤読していたとしても、何某かの感想を持つことには違いありませんから。
もちろん、誤読はしないにこしたことはありませんけれど。たくさんの本を読んでいくうちに、誤読も無くなっていくんじゃないかなって思います。
個人的に感銘を受けた本は数多くありますが、最近ではジョーゼフ・キャンベル「千の顔をもつ英雄」です。
上下二巻の文庫本で読みましたが、世界各国、各地で語られる物語(神話)に向き合うメタレベルの視点、というものが感じられて、読んでいる間の時間そのものが希少な体験でした。
小説、シナリオ、エッセイ、ブログ記事などを書くためにはボキャブラリーが不可欠です。
ボキャブラリーが豊富なほど色合い濃く情緒豊かな世界を描けるだろうと思うからです。
豊かなボキャブライーはどこから得られるか。
単純にたくさんの本を読むことだと思います。
読めない人は書けないっていうのは暴言ではないと思います。
老婆心的に言い加えれば、正しく読めない人は正しく書けない、ということだと思います。
そして、誰かと読んだ小説について語り合うのも、悪くないはずです。
最後に、正しく書かれた小説がつまらなくて、正しくなく書かれた小説の方が面白い、っていうことが有り得るかも、っていうことが文芸ジャンルのややこしいところではあります。
正しくなく書かれた小説、その正体がどんなものなのか、それは全く分かりませんが。
読むチカラは書くチカラ、でしょねえ。
wakuwaku-nikopaku.hatenablog.com
< いろいろ考えるです >
【考えてから書くか、書きながら考えるか】散文の書き方を考える その1
【神サマの集まり過ぎ?】散文の書き方を考える その2
【オノマトペの実力】散文の書き方を考える その3
【熟字訓と、その周辺】散文の書き方を考える その4
【タイトル、この悩ましくも決定的なもの】散文の書き方を考える その10
【リライトとブラッシュアップ】散文の書き方を考える その11
【面白い小説って、どんなの?】散文の書き方を考える その14