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【フィクションを読む】散文の書き方を考える その9

< お気に入りのフィクションをどんどん取り入れて 楽しく散文を書きませう >

ブログ記事、小説、シナリオ、エッセイ。
散文を書く、書き続けるっていうことについて、いろいろ考えてみる9回目です。


総務省統計局「書籍新刊点数と平均価格」を見ますと、日本の書籍出版数は、ここ数年、8千冊ぐらいで推移しているようです。

 

出版不況なんて言われてから久しいですが、年間8千冊っていう数字をどう見るかですよね。
決して少なくない数字のようにも思えます。


出版ジャンル別に出版点数をみてみますと、上から、社会科学、文学、芸術、っていう順位で、ここまでで全書籍出版数のほぼ半数に達しています。4位以下、技術、自然科学、歴史、児童書、哲学などと続いているんですね。


出版数のトップ、社会科学ってなんでしょう。
一般的には経済、法律、教育、政治なんかのジャンルを指しているんですよね。


テレビや新聞のニュースでも、圧倒的に経済ニュースが多いことは、多くの人が実感できているのではないでしょうか。


経済の本を読むっていうのは、報じられる経済ニュースをより深く理解するためなのか、それとも全く独自に資産運用するための方法を探っているのか。
人それぞれなんでしょうけれど、本屋さんの棚を見ていて感じられるのは、社会科学分野、イコール、経済分野って感じがしちゃいます。


まあ、お金は大事ですからね。真剣に勉強する人が多いのは頷けます。


2024年には渋沢栄一日本銀行券発行が決まっていますし、お金の運用ばかりじゃなくって、会社経営、あるいは資本主義そのものに対する知識欲だとかも旺盛なのかもしません。


実用書って言われるジャンルですね。

 

 

 


実用的、経済的な社会科学に続いて多いのが文学です。


既存出版点数が14000点程の社会科学に対して文学は13000点ぐらいで、続く芸術が12000点。ここまでが出版点数1万点越えです。


出版される書籍にはジャンルを跨いだものも普通にあることでしょうし、図書館っていう大きな存在もありますので、この数字だけでそのまま読者数であるという判断は出来ないんですが、文学や芸術本の出版数がそこそこであることに、何となく安心感を覚えてしまいます。


芸術関係の書籍は、かなり高価なイメージがありますが、結構売れているってことなんでしょうね。


さて、ここで取り上げるのは、もちろん文学なんですが、文学っていわれるジャンルの中には、大きく分けてフィクションとノンフィクションがあります。


どう違うのか、についてはいろいろな意見があります。


フィクションとノンフィクション。そのジャンルの境界がハッキリしていないのは、古今東西変わりないようですね。


感覚的な区別方法としては、ノンフィクションは新書、そしてフィクションは文庫本です。かなり大雑把ではありますが分かりやすいと思います。
ま、そうじゃない本もありますけどね。


本屋さんが、新書の棚と文庫本の棚、どちらに多くの面積を割いているかを比べますと、その店主がノンフィクション派なのかフィクション派なのか分かります。


最近、町の本屋さんがホント減って来ているのは悲しいことです。
大型書店も、丸善だとかね、消えていっています。オンラインってことなのかもですけどね。


新書は総じて売れないなんていう意見もありますが、中公新書の「応仁の乱」が突然30万部のベストセラーになったりしましたからね。


何に人気が出るのかは、これもまた明確な基準のようなものはないようです。
そりゃそうでしょねえ。それが分かれば苦労しないですよねえ。


応仁の乱」がなぜベストセラーになったのかについて、あれこれ分析していた人も少なくなかったですけど、結論は、よく分からない、っていう感じでした。


理由が分からないとしても売れれば、出版界としてはうれしいでしょうね。

 

 

 


ちょっとこんがらがる話になりますが、フィクションを読むことについてのノンフィクション(論文)があります。2006年にカナダで発表されたものなんですが、当時なかなかの話題になりましたので覚えている方も多いかもしれません。


その主旨は、


「フィクションの読書量が多ければ多いほど、共感力が高い。しかし、フィクションを読む行動が共感力を高めるのか、それとも共感力があることがフィクションへの関心を高めるのかは分からない」


っていうものでした。


どうでしょう。かなり興味を惹かれる視点だと思いませんか。


フィクションを読むっていう行為には、間接的ではあるにしても、個人の人間形成に影響を与える力があるかもしれない、っていうことになりますよ。
それは、年齢に関係なく、なのかもしれません。


さらにもう1つ。イギリスの大学での研究ですが、


「フィクションを読むことは、脳を休ませるとても良い方法で、健康に良い効果がある。普段から読書をする人は、読書をしない人に比べて、よく眠り、ストレスが低く、自尊心が高く、抑うつになりにくい。その効果は音楽鑑賞や散歩よりも高い」


っていうものがあります。


なんともイイことばっかりじゃないですか。
読書好きの人、なかでも小説好きの人、ひゃっほ~! ですよね。


それにしても、フィクションを読むことが脳を休ませるっていうのは、かなり不思議な感じがします。


これらの研究では、ノンフィクションを読むことによっては同じような効果が得られないっていう共通した結論を出しています。


寝る前にはノンフィクションを読まないほうが良い、とまで言っている論文もありました。


就寝前にはフィクションがイイようですよ。

 

へええ、って思います。
フィクション、小説を読むってスゴイことなんですね。


自分に都合のイイような説は、あっさり信用しちゃいます。


健康にイイとか言われると、読書好きとしては、そっか、運動すれば肉体的健康にイイんだろうけれど、精神的な健康には読書がイイんですね。とかね、単純に喜んで納得してしまいます。ノンフィクションね。


以前に、

 

「小説なんて人生に何の役にも立たないから読みません」


っていうノンフィクション派の人の話を聞いたことがありますが、その人にぜひ話してあげたい内容です。


でも、なんで、小説を読むことが個人の健康に寄与するんでしょうか。


研究結果が表明しているのは「共感力が高まる」っていうことと、「脳を休ませることができる」っていう2つです。


小説を読んでいて面白いって感じるのは、その登場人物に共感しているから、っていうのは単純に納得できます。


反対に、つまらないって感じる小説は、どこに原因があるかと考えた場合、やっぱり登場人物に共感できない、あるいは、リアリティを感じられない、っていうことになるんじゃないでしょうか。


でも、小説にはSF、サイエンスフィクションというのもあって、そもそも仮定の話だからリアリティはないよね、っていう意見もあるかと思いますが、小説や映画のリアリティっていうのは、リアルとは違いますからね。


小説のウソ、映画のウソを受け止められるかどうかっていうのも、一種の共感力になるのかもしれません。


ただし、研究結果はこう言っています。


「サイエンスフィクション、ホラー、ロマンス小説を読んだグループは、ノンフィクションを読んだグループと同様に、他者の感情や気持ちに気付く能力にほとんど影響が現れなかった。こうした共感力が高くなったのは文学的フィクションを読んだグループだけだった」


む~ん。なかなか難しそうな区分けがあるようですね。


文学的フィクションとは何を指しているのでしょう。


文脈的に考えると、純文学のことなんでしょうか。それとも単純に、サイエンスフィクション、ホラー、ロマンス小説以外、って捉えるべきなんでしょうか。
こうした話だけからでもジャンルっていうのは、その内容を確定するのがとても難しいものだっていうことが分かりますね。


フィクションの中でも純文学至上主義みたいな風潮は、どこの国にもあるのかもしれません。


ホラーであれ、ロマンスであれ、優れた小説であれば登場人物に感情移入して読み進められると思うんですがね。


フィクションの主人公、登場人物に感情移入するのは、何も自分に近い環境に生きているから、だけじゃないと思います。


サイエンスフィクションの世界環境は、たいていの場合現実離れしているわけですが、その世界観にリアリティを与えられるかどうかは、書き手のウデでしょうし、読み手のキャパシティなんじゃないでしょうか。


セラピーが盛んな欧米社会で、治療に小説や詩が使われているのは、映画なんかでよく出てくるシチュエーションですが、ニュースのトピックスとしても時々取り上げられています。


精神的健康に小説が寄与していることが理解できる例としてイイんじゃないかと思いますが、それがサイエンスフィクションであったりロマンスであったりすることもあるんじゃないでしょうか。どうなんでしょ。


セラピーを身近に経験したことがありませんので確実なことは言えませんが、読み手の、この場合はセラピーを受けている人の小説キャパシティ、言葉の受け止め方、ボキャブラリーといったものが大きく関与してくるのではないかと思われます。


詩は特に、言葉に対するイメージが敏感でないと感じ取れるものが少ない感じがします。


共感する、感情移入できる、っていう現象は書き手と読み手の共同作業だとさえ言えそうです。
何も登場人物たちが自分と同じ社会環境の中で生きている必要はないはずです。


幼いころに読んだ絵本。登場して来るのは人間ばかりではありませんよね。
そんな話がいつまでも記憶に残って、忘れられない。


大人になって、そんな絵本を本屋さんで偶然見つけても手に取ってみることはしないかもしれません。
それでも、ある種の感情が静かに去来するのは確実ですし、思い切ってページを開いてみたりすると、胸の中ばかりでなく、思わず知らず、表情にも変化が現れるかもしれません。


そしておそらく、こうした気持ちの変化は精神的にプラス方向の影響力を持っているんじゃないでしょうか。


日常生活の中では弛緩の時間になるでしょうし、これこそが「脳を休ませる」ことの正体なのかもしれないですね。


脳が休むっていうことは、脳の働きが止まることではないはずです。
止まっちゃったら、マズイですよねえ。


我々は現代社会の複雑さの中で生活しています。
仕事や用事をこなしたり、ときにはサボったりすることを選択しているのは、常に明確な意識からばかりではないでしょう。


日常生活は明確な意識の連続じゃなくって、少なからず無意識っていわれる不明確なものが関与していると考えられますよね。
無理に明確な意識ばかりを続けていると、かなり疲れます。


それがなければ社会生活が成り立たないものではあるのですが、うまくバランスを取って四角四面の社会意識から離れる時間を持つことが、精神的な健康を保つのに必要なんでしょうね、きっと。


ノンフィクションが精神的健康に寄与しないのは、むしろ、その内容が社会的に役に立つものだからだとさえ言えます。暴論ですけどね。


フィクション全体、研究結果とは相容れませんが、サイエンスフィクション、ホラー、ロマンスも含めて、小説を読むことが精神的健康に役立つのは、別人の人生をシミュレーション体験できるからよりも、登場人物に感情移入してカタルシスを得られるからよりも、無意識を活性化するからなのかもしれません。


一冊を読み終えた時点で何かイイものがやってくるんじゃなくって、読んでいる間も楽しめるのが読書です。
いいえ、読んでいる間こそが醍醐味ってもんでしょねえ。


本を読む人は、記憶力が良くなるとか、アルツハイマーになり難いとかいった研究結果も出されていますが、そうした実用的な効果を期待して読書好きになる人は少ないと思います。


フィクションを、本を読むことがいつから好きになったのかなんて、誰も気にしていないでしょう。
活字中毒っていう言葉もありましたが、なぜ本を読むのかといえば、本が好きだから、っていうことになるんだと思います。それしかありません。

 

 

 


人生を楽しむには釣りを覚えることだ、っていう定言を聞いたことがありますが、釣りに負けず劣らず、フィクションを読む、読書をすることは人生を楽しむ最良の方法であることは間違いありません。


ストレス社会を実感せざるを得ない現代人である我々は、自分を幸せにしてあげる時間を必要としています。
本を読むことが好きだっていうことはハッピーなことなんですね。


たくさん読んで、いっぱい幸せになりましょう。フィクションが良いそうです。


たくさん読めば、散文を書く方にも、たぶんおそらく、大きく寄与してくれるでしょねえ。


ボキャブラリーを増やして、書くための読書。

 

< いろいろ考えるです >
【考えてから書くか、書きながら考えるか】散文の書き方を考える その1
【神サマの集まり過ぎ?】散文の書き方を考える その2
【オノマトペの実力】散文の書き方を考える その3
【熟字訓と、その周辺】散文の書き方を考える その4
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