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【旗本奴と町奴】やっこさんっていう人気者たちの もう1つの面 悪安定ってことかもです

< 腰パンとか ダルそうに見せるファッションの原型かも知れない「婆娑羅」 >

ほぼ死語になりかけている「伊達眼鏡」


♪メガネは顔の一部です
っていうこともありまして、オシャレめがねにこだわっている人も少なくないですが、近眼だとかの補正を目的としていない「伊達眼鏡派」っていうのも一定数いますね。


さすがにレンズの入っていない伊達眼鏡をかけている人は、芸能人でもなければ居ないんでしょうけど、視力補正のためじゃなくって、パソコンだとかのブルーライト対策のみのレンズの入った眼鏡を愛用している人もいます。


「せっかく視力はイイんだからさ、守っていこうと思ってね」


ご尤もございます。視力のイイ人ってうらやましいです。

こういう人と眼鏡の話をしますと、
「まあね、伊達眼鏡ってやつなんだろうね」
ってことで、伊達眼鏡っていう言葉は完全には死んでいないみたいです。ま、一定年齢以上の男女では、ってことになるのかもですけどね。


ブルーライト対策っていう目の保護目的があるんで、定義的に伊達眼鏡にならないんじゃないかって気もしますけど、今回、突っかかってみたいのは、眼鏡の方じゃなくって「伊達」の方です。

 

 


伊達ってなんなんでしょう。


伊達って書いて「だて」って読むんですけど、これ、無理がありますよね。
不思議な読み方だなって思って調べてみましたら「伊、は黙字」なんだそうです。


黙示って日本語にもあるんだ、って思ったんですが、ま、ちょこっとあるんでした。


「服部(はっとり)」の「部」
そですね、これ、考えてみますと、かなり不思議な読みですね。ふくべ、ですもんね。部民制から始まったんでしょか。


「右衛門(えもん)」の「右」
でもこれ、「うえもん」とも読みますけどね。うえもんって読むのは間違い?


「和泉(いずみ)」の「和」


「百舌鳥(もず)」の「鳥」


もう少し探せばあるのかもしれません。


「伊達」です。
華美、見栄、粋っていうニュアンスですよね。


男女ともにっていうんじゃなくって、男らしさのアピール的に使って「伊達男」なんて言ったりします。


言葉の本来的な意味からしますと、「婆娑羅(ばさら)」「傾奇(かぶき)」と同じ感じでしょうかね。


小田原征伐の際に、決められた期日に参上しなかった伊達政宗が、遅れてから死装束で豊臣秀吉に面会したっていうエピソードが「伊達」の語源だってされています。
これがホントだとすると、「伊達」は戦国時代後期からの言葉だってことになりますね。


でも、このエピソードの死装束っていうのは、華美とか粋っていうより、奇抜のニュアンスを強く感じますね。


単純にへりくだるんじゃなくって、生命をかけて、時の権力者に判断を迫るっていうパフォーマンス。
ヒエラルキー的に逆方向の圧力。


芝居がかっているっていう批判もあるようですけれども、生命を張った芝居って、誰にでも出来るってもんじゃないでしょうからね、肝の太さを示すっていう「伊達」なんでしょう。
違う方向から考えてみれば、秀吉っていう権力を嘲笑、軽んじている態度とも言えそうですよね。


こうした行為行動は、独眼竜、伊達政宗を嚆矢とするわけじゃなさそうで、たぶん、日本の古代から中央権力に対する反発心を表明する工夫としてあったんだろうと思われますね。


権力者っていうのは一旦その地位に就けば、周りに対して、ああしなさい、こうしなさい。あれしちゃダメ、これしちゃダメっていうことを言い始めるわけですよね。
それに対して、やなこった! っていうふうに思っちゃう人は、必ずいるでしょうし、出てくるもんでしょうね。
とくに、その中央権力がハチャメチャだったりすると、批判精神が大っぴらになるでしょうし、やなこった族の人数も増えそうです。


やなこった族は、その不満、世の中の不安定さに対して、服装だとかで抗議の意思を示すのかも知れません。


目に見える形での、装束。今でいうファッションってことになるんだと思いますが、とにかくその時代での常識からハズレて、独自のカッコ良さ、派手さを表現し始める。自分の美意識、ユニークさをとにかく目立つことによって表す。
無理矢理言ってしまえばある種のブームを作り出せるぐらいのエネルギーがないとできそうに無いことかもですね。

 

 

 


記録の中で最初にそういうヤカラが現れたのは、南北朝時代らしいです。


時の最高権力、天皇家が2分しちゃったわけですからね、世の中になんだかなあっていう空気感があったんでしょうね。無意識なのかもしれないですけど、現状の世の中に対する不安感、不満感。


装束っていう見た目だけじゃなくって、独特な美意識での文化の再解釈みたいなことを、派手で常識ハズレな行動で表した一群の武家、大名たちを「婆娑羅」って言ってました。


代表的な婆娑羅大名「佐々木道誉(ささきどうよ)」は、足利方の武将ですが、南朝側に攻められて、自分の屋敷を捨てて都落ちしなければいけなくなったときに、焼き払って立ち去っても良さそうなところを、屋敷内をキッチリと清掃して、飾り立て、酒と茶の用意をしておいて退却。


屋敷を占拠に来た楠木正成の息子、楠木正儀(くすのきまさのり)を感心させたっていうエピソードが遺されています。


勝負は時の運。形勢逆転して、今度は楠木正儀が立ち退かなければならなくなったとき、佐々木道誉が飾り立てたときより一層華美に、酒も茶も上等なものを用意して立ち去ったっていう後日談もあります。


婆娑羅大名は、生命のやり取りの中で、ただ刀を振り回すだけじゃない新しい武家の在り方を模索していたのかもしれないですねえ。
とにかく派手な出で立ちだったらしいです。


婆娑羅っていう言葉はダイヤモンドを意味するサンスクリット語、バジャラからとっているんじゃないかってことらしいんですけど、鎌倉時代、既にダイヤモンドって日本にも伝わって来ていたんですかね。


足利幕府の陰の立役者って言われた佐々木道誉だったんですが、婆娑羅の風潮は幕府によって禁止されたみたいです。


まあね、婆娑羅を気取っていたって、文化レベルの高くない大名、小名なんていくらでもいたでしょうし、見た目の恰好だけを真似した有象無象がロクでもないことばっかりやって、ダメ、ってことになったんでしょうね。
世の中、昔からそんな感じなんでしょうね。


婆娑羅の心意気なんてすっかり消え去ったてしまった室町幕府の終期、戦国時代になると有名な出雲阿国が男装して刀を持って跳ね踊る「かぶき踊り」が大流行して、その派手な装束が注目を集めます。


下剋上の世の中で、誰か具体的な権力者に対する反発っていうより、世の中全体に対するやりきれなさ、みたいな感情からなんでしょうか、女物の着物を羽織ったり、異様に大きな刀を担ぎ歩いたり、ムダに大きな髷を結ったりして歩き回る、いわゆる「傾奇者(かぶきもの)」って言われる連中が出てきます。


奇妙な方向に傾いているんで傾奇です。


お国のかぶき踊りは、歌舞伎の基になったってされていますけれど、当初は傾奇っていう表記だったのかもしれません。っていってもまあ、このころに文字表記がどれだけ浸透していたのかは分かりませんけれどね。
歌と舞の芸っていう歌舞伎に対して、奇抜に傾いているっていうのが傾奇。


傾奇者はヘンな奴ってされながらも、戦国時代を通じてその風潮は続いていて、江戸時代初期になると、傾奇者たちが徒党を組んで、乱暴狼藉する社会問題を引き起こすようになるんですね。


このロクでもない連中の大半が、この前書いた「やっこさん」たちなんですね。


武勇自慢の喧嘩沙汰は日常茶飯事で、無銭飲食したり、集団で押し寄せての強請、たかり。
なんとも困ったちゃんの奴さんたちが出て来ちゃうんですね。粋がってるだけ。

 

江戸幕府の大名、小名の家の奴さんたちですからね、「旗本奴」って呼ばれています。
徒党を組むんですね。


有名なところでは、


「大小神祇組(だいしょうじんぎぐみ)」


「鉄砲組(てっぽうぐみ)」


「笊籬組(ざるぐみ)」


「鶺鴒組(せきれいぐみ)」


「吉屋組(よしやぐみ)」


「唐犬組(とうけんぐみ)」


の6つが知られています。


このうち唐犬組っていうのは旗本奴じゃなくって、「町奴」って呼ばれていた町人のグループなんですが、旗本奴との争いを繰り広げていて、奴さんたちじゃないんですけど、奴って呼ばれていたみたいです。侠客ですね。


この6つの奴グループのことを「六方組(ろっぽうぐみ)」っていって、歌舞伎に取り入れられて、その荒事を表現して今に遺っているんですね。
「六方を踏む」ってやつです。

じゃないですけど

勧進帳」の弁慶の「飛び六方」


天竺徳兵衛韓噺」の徳兵衛の「泳ぎ六方」


だとか、いくつかの六方があるみたいです。


町奴の頭目として知られているのが「幡随院長兵衛(ばんずいいんちょうべえ」


その侠客の元祖って言われる幡随院長兵衛を風呂へ誘ってだまし討ちにして殺したのが、旗本奴、大小神祇組を率いていた「水野十郎左衛門」


幡随院長兵衛は殺されるだろうことを分かっていたようなんですが、ここで逃げては男が廃るってことで、死地へ出向いて行ったってことになっています。


水野十郎左衛門、本名は「水野成之」
名門の旗本の家に生まれた長男坊だそうです。


幡随院長兵衛殺しでは、身分の違いから御咎めなしになった水野十郎左衛門でしたが、その後も旗本奴としての悪行三昧が続いて、幡随院長兵衛だまし討ちから7年後、切腹させられます。


とにかく決まりごとに従うのが嫌いだったらしい十郎左衛門は、切腹する時も、作法に従わず、反骨精神のまま死んでいったそうなんですね。


辞世の句が

 

「落とすなら 地獄の釜を突ん抜いて 阿呆羅刹に損をさすべい」


六方言葉ってやつでの辞世の句ですね。


あの世へ行っても旗本奴のままで、地獄の鬼どもを困らせてやるっていうことなんでしょうね。

 

 

 


幡随院長兵衛が殺されてから町奴の頭目として頭角を現したのが唐犬組を率いていた「唐犬権兵衛」ってことみたいです。


江戸幕府は再々旗本奴、町奴の捕縛、処刑を繰り返して、江戸中期には衰退したってことです。


旗本奴、町奴は今に伝わってはいませんけれど、伊達が今になんとか残っているのは不思議な感じもします。
権力に対する反発心って、暴れることじゃないんでしょう。
伊達男は暴れませんもんねえ。

 

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