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【ニワトリが先かタマゴが先か】とか言うけどさ ヒヨコが先かもしれんがね

< 昔の哲学者は なんてお気楽な言い方をしていますが 解決なんてしてないみたいですよ >

灰色の脳細胞ってやつが、生まれつき錆びついているからなんでしょうか、説明を聞いてもさっぱり訳のわからないことが、頻繁にあります。


先日、雑誌記事で日本の中小企業の危機っていうのを読みました。


コロナ不況のあおりを受けて、満足な給与が払えない状況が続いているので中小企業に人が集まらない。人が充分に集まらなければまともな仕事をこなせないので会社の利益が上がらず、ますます給与が払えなくなってしまう。


人集めが先か、利益率の高い仕事が先か。そんな「ニワトリが先かタマゴが先か」みたいなことをいつまでもやっていたら、日本社会は浮かぶ瀬もない、ってな感じの記事だったんですが、この記事そのものが、だからどうするべきだっていうようなアイディアを提示しているようには読めませんでしたし、中小企業存続の問題は、日本に関していえばずっと続いていることですし、コロナ禍っていう特殊事情だからこうすべきっていう考えがあっての記事内容でもなかったことが、なんだか理解できませんでした。
言うだけ番長、ってやつ?


ただ「ニワトリが先かタマゴが先か」っていう表現に久しぶりに接したなあっていう、ある種、不思議な感覚があって、そういえばこの昔よく聞いた堂々巡りの問題って、実際にはどう解決されているのか、あるいは解決されていないのかが気になって、こっちの方を調べてみたんであります。

 

 

 


「鶏が先か、卵が先かという因果性のジレンマは、平たく言えば、ニワトリとタマゴのどちらが先にできたのかという問題である」
っていう説明にいきなり出くわしました。


こういうことなんでありますよ。ワタクシの錆びついた脳細胞が追いついていけない、現在の文章表現。


この言い換えは何を意図として書かれているんでしょうか。
漢字とカタカナの違いを強調している? ってことはないですよね、まさかね。


ま、そのあと、なんだかムツカシながら解説は続いているんで悪戯で書いた表現でもないんだろうとは思うんですけどね。何が言いたいのか、理解できませんでした。


「ニワトリが先かタマゴが先か」っていう問題。その言葉通りの問題を真剣に考えてみたこと、誰にでもありそうにも思えますし、さあねえ、って感じであっさり考えるのを止めちゃったりする人も多いかなって気もします。


ニワトリがいないとタマゴは生まれて来ないわけだし、そのニワトリはタマゴから成長するわけだから、どっちが先っていうことを考えると、タマゴの親はニワトリで、ニワトリの基はタマゴだけど、そのタマゴを生んだ親のニワトリがいて、ってことでどんどん先祖を遡っていくと、ってことで、いつまでも結論が出ませんよってことを、いわゆる「ニワトリが先かタマゴが先か」って表現するんですもんね。


結論とか、あるの? 出てるの? って思ったら、結果的には定説みたいなものは未だないんですね。


って言いますかですね、今回調べてみて、改めて思うのは「ニワトリが先かタマゴが先か」っていうジレンマに対する科学的なアプローチの方法自体が、そもそも答えを出したくないような感じもしましたですよ。


なんて言いますか、一応の結論っていうのを出していることは出しているんです。
説得力とかを考えなければ、です。


遺伝学的「ニワトリが先かタマゴが先か」に対する見解。
その中にも時代的に様々な見解があるみたいですけど、遺伝学的には「タマゴが先」っていう結論を出しています。


ニワトリの祖先が、交配して出来るタマゴに突然変異が生じて、生まれればニワトリになる状態のタマゴがあって、ニワトリが生まれた。だから「タマゴが先」っていうのが遺伝学的な見解みたいなんですよね。

 

 

 


まあね、私の受け止め方が間違っている可能性もありますけど、この見解に納得、満足する人っているんでしょうかね。
ツッコミどころ満載なように感じますよ。


一般的に、人口に膾炙している「ニワトリが先かタマゴが先か」っていうジレンマ的使われ方に対して、ずいぶん横はいり的な専門家の見解にならざるを得ないのはしょうがないとして、現在のニワトリの祖先って、セキショクヤケイ辺りを想定しているんでしょうね。


我々が「ニワトリが先かタマゴが先か」っていう表現で疑問にしているのは、ニワトリとセキショキャケイっていう変化のことじゃなくって、鳥全体のこととして、親が先なのかタマゴが先なのかっていうことだと思うですからね、


セキショクヤケイのタマゴに中に、既にニワトリになるタマゴが、ある日、突然変異で出来たことがニワトリの発祥なんですよ、って言われてもですね、そこじゃないねん! って思います。


そこじゃなくって、その理屈でいくんだったら、セキショクヤケイのずっと前、そもそも鳥類になる時点。卵生動物になった時点の説明が欲しいんでありますよ。


恐竜も卵生だったみたいですけど、同じでしょ、ティラノザウルスが先かタマゴが先か。


そこですよ。そこなんです、問題は。ニワトリっていう鳥の種類のことじゃなくって。
種を維持していくための手段としてタマゴっていう形式を選ぶに至った経緯です。


人間は胎生動物なわけで、胎生っていうことを基本に据えちゃうと、まず親の方が先ってことになりそうですよね。
その論法で考えるとニワトリが先ですよね。


でも、人間はだいぶ後の時代になってから発生したみたいですから、基準にするわけにはいかないでしょうね。


最初の卵生動物が何なのか、ま、判りようもないんでしょうけれど、遺伝学的アプローチ。今、判っていることでしか答えられませんから、タマゴですっていう結論を暫定的に、ってな感じがしてしまうですよねえ。


まともに答えようっていう気は無さそう。

 

 

 


神学的には「ニワトリが先」
理由は神がそう言ったから。


創世記にある「神はまた言われた、水は生き物の群れで満ち、鳥は地の上、天のおおぞらを飛べ」
ってことで、神がお創りになったのはタマゴじゃなくって鳥、なんだから「ニワトリが先」なんですよ。


とっても潔い説明であります。乱暴な感じもありますけど、説明としては簡潔明瞭。
個人的には、なんとなく納得しちゃう感じもありますねえ。


宗教的なことは全然分かりませんけれど、成長していけば、そうなるべき姿かたちを約束されたタマゴが最初にありますっていうよりは、なんかね、直感的にふううん、そですかって感じます。


そうなるべき姿かたちの生き物が最初にいて、種族維持の方法としてタマゴっていう方法を選んだ、って考える方が自然なような。


胎生動物である人間も、卵子っていうタマゴを持っているんですよね。卵子が受精して、ちゃんと人間の形になるまで外に出さずにお腹の中で成長させるのが胎生。


人間の遠い祖先の哺乳類は、ちっちゃなネズミみたいな動物だったんじゃないかっていう説を聞いたことがありますけど、そのネズミ、胎生だったんでしょうかね。
生命はホント不思議ですよねえ。


「この世の生命は循環しているんだから、始まりも終わりもありません」っていうのが仏教的な結論。
循環時間論っていうやつらしいんですけど、あれですよね、輪廻転生ってやつ。


日本人の多くが仏教徒ってことになるんだと思うんですけど、こういう仏教理論みたいなのって、どうなんでしょうね。詳しい人ってお坊さん以外でいるんでしょうか。
仏教思想とか、さっぱり知りません。


日本人は葬式仏教って言われて久しいわけですけど、盂蘭盆会なんかでも、お坊さんに言われた通りに動いて終わりって感じなのが普通でしょうかね。


ニーチェも、こうした仏教的な考え方に近いようなことを言っているみたいですけど、結局のところ誰も「ニワトリが先かタマゴが先か」っていうことには結論を出せていない現状なんですね。

 

なんかね、しょっちゅう「結論が出されました」っていうニュースがあるみたいなんですけどね。
それが、さっき言った遺伝学とか、そのほかにも進化生物学、生化学、っていう学術分野、さらには数学的見解だとかなんです。


「ニワトリが先かタマゴが先か」っていう言葉の使い方、根本的疑問にちっともマッチしていない「研究成果」ばっかり。


なんか、あれですかね。さまざまなジャンルの研究者たちにしてみれば、「ニワトリが先かタマゴが先か」の答えを無理矢理求められるから、しょーもなって思いながらも新説を発表しているんでしょうかね。


新説って言ったって、2つに1つなんで、どういう説得力を新たに持たせるのかっていうことになるわけで、ニワトリです、いいえタマゴです、っていうのは、これからも続いていくんでしょうかねえ。


ニワトリもインフルエンザで大変みたいですけど、どっちが先かなんて、彼らは気にしてないでしょね、きっとね。

 

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