< 話し言葉は神から賜った贈与であり、文字は人間たちの発明である >
酒呑みは暗くなると、なんとも真面目に、律儀に、毎晩、街へ出ていきます。
会社、仕事場へ向かう時とは全く調子の違う軽い足取りで、宵闇の街なかへ繰り出していきますねえ。
この時間に、上手く精神を解放できるとイイ酒になるんですよねえ。
恋人との待ち合わせでもないですし、誰かと約束があるってことでもないんです。ただ、酒を呑みに、さてさて、今夜はどこへ腰を落ち着けましょうか。
その晩は焼酎バーのノレンをくぐりました。
このところノレンのない酒場も増えてきましたですけどね、ノレンをかき分けるってう動作もまた、イイもんでございますよ。
よ、まいど。
8人がけのL字カウンターと、2人用のテーブル席が4つっていう小規模な呑み屋さん。
テーブル席は老若男女のカップルで埋まっていて、カウンターもあと2人分しか空いていませんでした。
夜の9時前ぐらいだったんですが、盛況ですねえ。良かったヨカッタ。
ジャズのBGMが流れていて、壁の薄型テレビはスポーツチャンネルが低い音量で映っています。
厨房の揚げ油の音、製氷機をガラガラ言わせている音。
そしてもちろん、客のしゃべり声ですから、ま、騒音っていうんじゃないですけれど、賑やかです。
これが普通ですよね。
夜の時間を、みんな楽しんでいます。
コロナ前はこれが当たり前だったんですが、今はね、時々こうなる程度で、店側もなかなか明るい笑顔になれないみたいですよね。仕入れの値段も爆上がりですしね。
そんな賑やかな時間経過の中で、突然、ふっと静寂が訪れることってありますよね。
BGMの曲の切れ目、テレビの一瞬黙り込むタイミング、厨房の作業の音が途切れる時、そしてなぜだか客席の会話が同時に途切れる瞬間。
ま、そんなに珍しくもないことかもしれませんけれど、その静寂のタイミングに合わせたかのように、っていうか店内の呼吸に合っていないのかもですけど、しゃべる人っていうのがいるんです。
L字の反対側の辺に席を占めていた40代と思しき男性サラリーマン2人。
特に大きな声で話していたんじゃないんですけど、その静寂の瞬間にそのうちの1人が酔っぱらった口調でこう言うのが聞こえました。
聞こえちゃうんですよね。
「だからさあ、記事書くのなんて簡単なんだよ。しゃべるように書けばイイんだってば」
BGMは次の曲、厨房も作業再開、客同士の会話も、別に何事もなく再びわやわやと始まって、すぐに賑やかな店内に戻りました。
けど、ちょっとね、気になったんでありますよ。
店内の静寂のタイミングで聞こえてきてしまった、そのセリフが。
その2人連れが何の話をしているのか、その言葉の後にどんなことを言っているのか、聞こえません。
記事を書くっていう話をしているようなんで、新聞、あるいは雑誌の記者なのかもしれません。はたまたブログを書いている人。
私見ですが「しゃべるように書く」っていうのは、まず新聞記事には当てはまりにくい気がします。
雑誌も、まあどんな種類の記事かによりますけど、「しゃべるように書く」っていうアドバイスがそのまま役立ちそうな雑誌記事って、多くはないって思うんですよね。
記事っていうのは文語で書くのが主流です。圧倒的に多いです。
そうなると、「しゃべるように書く」っていう対象となる可能性の高そうなのがブログ記事ってことになります。
かなり大雑把な推測なんですけど、その時、瞬間的にブログを続けるためのアドバイスかなって思ったんですね。
たしかにですね、ネットの中には「ブログ記事の書き方」だとか「ブログを続けるコツ」っていう記事が相当数ありますよね。
ブログを始めてみたんだけど、記事が書けないよ、っていう困惑は、私もそうですが誰にでもあることなんじゃないでしょうか。
たかがブログの記事ぐらいさあ、っていうご意見もございましょうが、どうしてなかなかシンドイもんでありますよ。
ブログっていうスタイルの表現形式が扱っている媒体は「文字」「絵」「写真」ですよね。
私がブログに接したのは「中国嫁日記」っていうマンガブログでした。
マンガに限らず絵の持っている表現力は、それこそ百万言に匹敵する力があるように思います。
はてなブログの中にもマンガ、絵画のブログはけっこうあります。
写真を主にしているブログも多いですね。
写真ブログはアクティブな人じゃないと出来ない形式だと思います。
その場のその瞬間を切り取ったイイ写真って、見る側の気持ちに素直に入って来るチカラがありますよね。
もちろん「絵」「写真」それぞれに対する好みがあったり、記事にしている側の力量っていうのもあるんでしょうけれども、だいたい本人の書いた文章との組み合わせになっているのがブログですね。
このブログは文章が主で、目休め的にフリー素材の画像を配置しています。
画像がメインになって、それに付随した文章を書くパターンと、文章をメインにして付属的に画像を配置するパターンのどちらかがほとんじゃないでしょうかね、ブログって。
どっちのパターンであったとしても「しゃべるように書く」っていうアドバイスは、一応、マトハズレではないんだろうなあって思います。
文章教室なんかでも「話すように書く」「しゃべるように書く」っていうアドバイスはよく見かけます。
でもですね、これ、ブログをやっている人へのアドバイスとして、どれぐらい響くかなあって、けっこう批判的な感想です。
そもそもブログを始める人って、文章なり画像なり、自分の好きなアウトプットを持っていますよね。
そんなに得意じゃないとしても、文章を書いたり、マンガを描いたり、写真を撮ったりするのが好きではある。
だから、ブログをやってみようって考えるんだと思います。
「しゃべるように書く」っていうのは、普通に考えれば文章を書くにあたってのアドバイスになりますが、しゃべるより書く方が違和感ないっていう人もいますし、ホントの意味でしゃべるように書いたら、その文章に何かしら意味を伝える力があるかって考えますと、意味不明ってことになりかねないと思います。
我々は、向かい合ってしゃべっている時に、実は言葉のやり取りだけじゃなくって、身振り手振り、顔の表情だとか、プラスアルファがあるからこそコミュニケーションが成り立っているんじゃないでしょうか。
つまり「しゃべるように書く」を素直に実行すると、純粋に言葉だけになるわけですから、コミュニケーションを成り立たせるのに重要な役割を果たしていたはずの、プラスアルファの部分がゼロになってしまうわけです。
言葉だけで、ちゃんと伝えられますか?
ブログだって、記事を書くのは難しいんです。
日本人は日本語を特に難しく考えていないのが普通だと思いますが、けっこう複雑な使い方をしている言葉なんですよね。
しゃべる言葉は「音」で伝える言葉です。
人間が言葉をしゃべるようになったのがいつの頃なのか、それはハッキリしていないらしいですね。
そりゃそうでしょねえ、って思います。
声でコミュニケーションをとっていたのは、もしかすると二足歩行の前からなのかもですけど、声の信号が意味を持つ言葉になったのっていつ頃なのかなんて、想像もつかないことでしょうね。
人類の伝承は文字じゃなくって音声で伝えられてきたわけで、その期間ってもの凄い長さなんでしょうね。
最初はボキャブラリーも少なかったんでしょうけれど、あっというまに増えていったように思えます。
コミュニケーションが始まれば、気持ち、想い、数量を伝えるためには、様々なボキャブラリーが一気に必要になるでしょうからね。
だんだん集団も多くなってきたんでしょうから、言葉によるコミュニケーションは重要になるでしょう。
一方、書く言葉は目で見て「意味」を伝える言葉です。
人類最初の、意味を持って生活に欠かせないものとなった書き言葉を発明したのは、紀元前30世紀、メソポタミア文明を花開かせたシュメール人だって言われています。
「楔形文字」ってやつですね。
「ギルガメッシュ叙事詩」は、このシュメール人の楔形文字で書かれています。
上に挙げた「話し言葉は神から賜った贈与であり、文字は人間たちの発明である」っていうのは、シュメール人の遺した言葉だった言われています。
すごく納得させられる言葉です。
最初は商取引なんかに書き言葉が使われて発展していったみたいですね。
その場で消え去ってしまう、しゃべる言葉と違って、書き言葉は記録に残りますからね、言った言わないの問題は無くなりそうです。
「楔形文字」は表音文字に分類されていて、時代が進んでアルファベットの基になっていくわけですね。
ソクラテス(紀元前470年~紀元前399年)は、対話を重んじたしゃべり言葉の人です。
書き言葉を拒否して、自らの著作を遺していないんですよね。
しゃべる言葉偏重です。
しゃべる言葉こそが生きていて動的実体だって言っているのに対して、書き言葉は柔軟性に欠けた沈黙であって死んだ会話だ、とまで言っています。
ですが、今に遺る「ソクラテスの弁明」は弟子のプラトンが書き遺したもので、やっぱり書き文字のおかげで、現在の我々はソクラテスの考え方の一端を知ることが出来ます。
皮肉と言えば皮肉な結果になっているんですね。
こうしてアルファベットとして発展していった表音文字とは、全く無関係に、おそらく同時発生的、同時発展的に出来ていったのが表意文字の「漢字」ですね。
太古の中国人って、なかなか凄いんです。
アルファベットと漢字っていう書き言葉の違いは、表音文字と表意文字の違いっていうことになって、我々日本人は、自分たちは表意文字文化だよねえって思いがちです。
思いがちなんですが、すぐに気付くのが、日本語の書き文字は、漢字だけじゃなくって、ひらがなとカタカナ交じりですね。
ひらがなとカタカナっていうのは、万葉仮名から発展して、日本人が独自に作り上げた表音文字ですよね。
つまり表意文字と表音文字の組み合わせこそが、日本語の文章なんです。
これが日本語独特の書き言葉の複雑さです。
我々日本人が普段書いている日本語は、表意文字と表音文字の両方を自在に組み合わせて、まとまった文章として成り立たせているわけです。
アルファベットっていう表音文字の文化であれば、しゃべるように書くっていう方法は、とってもスムースなのかもしれません。
話し言葉と書き言葉に違いがないんですからね。
日本語の場合、単純に表音文字だけで、意味のある会話、何か意味を伝えるまとまった文章は成り立ちませんよね。
それでも、しゃべるように書くっていう方法を勧める文章作法がたくさんあるのは、しゃべるのが巧い人には有効だからなのかなあって思います。
しゃべるって行為についても、上手にやれる人と、そうじゃない人がいるんです。ですよね。
政治家の答弁を聞いていると、なんだか意味の分からないしゃべり方をする人が少なくないですよね。
言語明瞭意味不明ってやつです。
なんであんな答弁になるのかを考えてみますと、しゃべっている中に表意文字をそのまま発音しているからじゃないでしょうか。
しゃべっている当人の頭の中では表意文字そのものが浮かんでいるんでしょうけれども、表意文字を発音した場合、同じ発音の言葉が複数あることが普通ですから、目で文字を追うんであれば理解できる内容でも、しゃべるスピードには理解が追いついて行かないです。
そういうしゃべり方をする人は、しゃべるのがヘタっていう判断でイイと思います。
政治答弁のケースを考えてみますと、読んでいる原稿は書き言葉で書いてあるんでしょうから、それをそのまま、何のアレンジもなく読むだけっていうんじゃ伝わるわけないです。
そしてこれまでそういう人と一緒に仕事をした経験からしますと、しゃべるのがヘタな人の書く文章は、表意文字を頭の中に思い浮かべているはずなのに、かなりの悪文であることがほとんどでした。
政治方面とは関係ない人のことですけどね。
コミュニケーションが成り立たないのは、言葉を受け取る側のアタマが悪いんであって、もっと勉強しなさい、的なことをいう人もいますが、コミュニケーションの目的は相手に内容を伝えることですから、伝える側にも半分の責任があるんじゃないでしょうかね。
要するにしゃべるのがヘタなんでしょ。
しゃべるのがウマイ人は、文章を書いてもやっぱりウマイ、っていうのが現実じゃないでしょうか。
だいぶ回りくどくなりましたけれど、「しゃべるように書く」っていうのは、元々しゃべるのがウマイ人にしか通用しないアドバイスだと思います。
カウンターで話していた2人がブログについて話していたかどうかは分かりませんが、もし「しゃべるように書く」っていうアドバイスがブログ記事に対してのものだったとすれば、気休めにもなりゃしない、ってことだと思いますね。
別に私も文章巧者とかでは全然ないんですが、ブログ記事を書き続けるために必要なのは、文章を書く技術じゃなくって、何を書くのかっていうアイディアの方だと思います。
文章が書き進められないっていうのは、文章を書くのがヘタだからじゃなくって、何を書きたいのかっていう気持ち、頭の中の整理がまだ出来ていないからだと思います。
まあね、こんなふうに言っちゃうと、自分はちゃんと頭の中を整理してから書いているように受け取られるかもですが、私の場合は書き始めてから考えるっていう書き方をしています。
書き進めていかないと、自分にとって何が分かっていて、何が分かっていないかが理解できないっていうタイプなんですね。
タイプっていうか、そういうレベルのアタマ、ってことなんでしょうけどね。
書き始める前には、こういう記事を書こうっていうボンヤリしたイメージがある場合もありますけど、調べながら書き進めていくと、分からないことが見えて来て、調べて、ってことをやっていくうちに、初めのコンセプトと違ってしまうことも多々あります。
でもまあ、いっか! ってことで書き進めています。
一旦書きはじめたら、必ず書き終えること。っていうのが記事を書くコツって言えば言えるんじゃないでしょうか。
そんな結論かよ! って言われるかもしれませんが、ま、いっか、が大事だと思います。
表音文字と表意文字を、いかに組み合わせてニュアンスを作り出すか、ってことをアタマの片隅に置いて、とにかく書き始めて、クオリティとか気にせずに書き終える。
そして推敲。
しかない、って考えます。
ブログ記事を書き続けるのは、大変なんです。