< 桓武天皇が平安京に遷都して 藤原氏の女系が重視される女性の時代に入るんですよねえ >
現存する日本最古の物語だってされている「竹取物語」
光り輝く竹の中にいた10センチメートルに満たないような女の子が、あれよあれよという間に成長して、年頃の女になったので、竹取の翁は、朝廷の祭祀を司る人に頼んで名前をつけてもらった。
これが世に言う「なよ竹のかぐや姫」
かぐや姫は5人の公達からの求婚に対して、それぞれに無理難題を出すんですよね。
「ワタクシの言うものを持って来てくれた人と添い遂げましょう」
それぞれに対して持って来てくださいって言ったっていうのが、
「仏の御石の鉢」
「蓬萊の玉の枝」
「火鼠のかわごろも」
「龍の首の珠」
「燕の産んだ子安貝」
全員失敗。子安貝を取りに行った男なんかは死んじゃってますからね。
でも今度は、そんな噂を聞き及んだ帝がかぐや姫に言い寄ってきます。
強引にかぐや姫を連れ帰ろうとする帝ですが、あっさり失敗。
でもなんだか、やっぱり相手が帝だっていうことで、物語り作者も気を遣ったものか、帝とかぐや姫は和歌のやりとりなんかをし合うような仲になるんですよね。
で、3年が経ったころ、かぐや姫は月に帰ることになるわけです。
竹取の翁と帝は、なんとか帰すまいと妨害を企てます。軍勢で屋敷を囲みますね。
でも、どんな抵抗も意味を成しません。
月からかぐや姫を迎えに来た一行の中の王が、竹取の翁を呼びだして言います。
「お前、幼き者よ。少しばかり翁が善行を作ったから助けにと、僅かばかりの間ということで姫を下したところ、長い年月の間に多くの黄金を賜って、お前は生まれ変わったように金持ちになったのだ。かぐや姫は罪を御作りになったので、このように賤しいお前の元にしばらくいらっしゃったのだ。罪の期限は過ぎた。早くお出し申しあげよ」
かぐや姫は月の世界で罪を犯したんで、地球に下ろされていたってことなんですけど、かぐや姫って名付けられたことは、ごく当たり前に、とくとご存じの月のご一行。
ちゃんと見て、なんでも知っているってことになるんでしょう。
それにしても、かぐや姫、元々はなんていう名前だったんでしょうね。
で、あっさり月へ帰って行くかぐや姫なんですが、帝に和歌を遺していきます。
「いまはとて 天の羽衣 着る時ぞ 君をあはれと おもひいでぬる」
かぐや姫、カッチョイイ~!
まあね、現代では、かぐや姫って性格悪いよね、なんて声もあるようなんですが、物語りですからね。はい。
登場する5人の公達にはそれぞれモデルになった実在の人物がいるっていう噂の竹取物語ですが、ここに出てくる帝のモデルは、第42代の「文武天皇(もんむてんのう)(683~707)」だって言われているんでありますよ。
645年の乙巳の変以降の日本。天皇が短期間で代わっている時期で、古代日本の権勢が蘇我氏から藤原氏へ移行していっている時期でもあったんですね。
竹取物語の成立は平安時代初期ってされていますけれど、舞台となっている時期は、政治の周辺がなかなかに複雑になっている、奈良時代の末期の始まり頃ってことが言えそうです。
乙巳の変を起こした張本人、中大兄皇子が第38代天智天皇の座に就いたのは668年。そしてわずか4年で672年に崩御しています。
天智天皇の太子が第39代の弘文天皇の座に就きますが、天智天皇の弟が反乱を起こして天皇の座を奪い取ります。壬申の乱ですね。
弘文天皇の在位期間は半年もなかったのかもしれません。
反乱した側が勝利を収めているのは、古代日本では壬申の乱だけだそうですね。
天武天皇が第40代の天皇の座に就きます。在位期間673年~686年。
第41代の持統天皇は天智天皇の娘で天武天皇の皇后です。
天智天皇と天武天皇は両親を同じくする兄弟ですからね、けっこう複雑な婚姻関係、天皇の移り代わりです。
持統天皇の在位は690年~697年。
そして第42代の文武天皇の在位は697年~707年。
文武天皇は持統天皇の崩御によって、15歳で即位しているんですね。
天武天皇崩御の時、皇族の中に天皇を引き継げる男子が文武天皇しかいなくって、その時3歳でしかなかったから中継ぎっていうことで持統天皇が起ったっていうのが一般的な解釈みたいですけど、日本の最高権力を巡る、日本独特の駆け引きっていうのが、この頃にあったような気配も感じます。
竹取物語の帝のモデル、っていう以外には特に取り上げられることの少ない文武天皇ですが、わずか24、25歳で崩御した若者です。まさか月の人ではなかったにしても、添い遂げたい女性がいて、けっこう上流階級を騒がせるようなスキャンダルっぽい出来事がなかったとは言い切れませんよね。
実際の文武天皇の夫人は、「藤原宮子(ふじわらみやこ)(生年不詳~754)」っていう、藤原不比等の長女なんです。
「藤原不比等(ふじわらふひと)(659~720)」っていう名前は聞いたことのある人も多いと思います。
あの乙巳の変の中臣鎌足の次男とされている大政治家ですね。
古代日本政治の権謀術数という点に関して、この人の右に出る人は、父親の鎌足も含めて、誰もいないでしょう。
ドラマや小説で、あんまり取り上げられることのない人ですが、とんでもなく重要なことを成し遂げている人だと思います。
フィクサー的な感じの人で、歴史的人物としての人気は、低い、みたいですね。
文武天皇の即位ついても、その擁立に大きな役割を果たしたのが藤原不比等です。
全く根拠なく言いますけど、文武天皇を擁立するにあたって、最初から娘の藤原宮子を夫人とすることを条件にしていたのかもしれません。
それにしても夫人であって、皇后じゃないんですよね。
これはなぜかと言えば、当時の風習として、天皇はもちろん、皇后も皇族でなければ認められなかったからなんですね。
で、藤原宮子は、当時第一の公卿、藤原不比等の娘であるとはいえ、皇族ではないんですよね。
不比等の狙いとして天皇の一族になるっていうことがあって、もちろん、自分の娘を皇后にって推しただろうと思いますが、激しい反対にあったんでしょう。
藤原宮子は終生、天皇夫人っていうポジション。皇后じゃないんです。
文武天皇が若くして崩御してしまって、その藤原宮子夫人との皇子はまだ6歳ということで、すぐに第43代の元明天皇が即位するんですが、元明天皇は天智天皇の娘で、文武天皇の母親なんですね。
この辺の動きにも、なんとなくフィクサーの働きかけが感じられなくもない、気がしないでもない、ような。。。
皇后という位を経ずに天皇となったのは元明天皇が初めてだそうです。
元明天皇の在位は707年~715年。
和同開珎の鋳造、大宝律令の整備運用、藤原不比等が絶対的な権力を握っていった政権ですね。
そしてここにもまた藤原不比等の策略と、それに対する皇族の抵抗があったような気もするんですが、元明天皇が退位した時点で、皇子は15歳になっていて、父親の文武天皇が即位した年齢に達していたにもかかわらず、幼少だからっていう理由で、第44代は元正天皇となります。
元正天皇は元明天皇の娘で、結婚の経験のない人。皇后でも皇太子妃でもないんですね。
独身で即位した初めての女性天皇。文武天皇の3つ年上のお姉さんです。
けっこうややこしいけれども、近しい一族間での皇位継承。
元正天皇の在位は715年~724年。
24歳になった皇子は、第45代、聖武天皇として即位します。在位は724年~749年。
ここでまた勘ぐってしまうことなんですけどね、聖武天皇の皇后は、光明皇后。
光明皇后は藤原不比等の娘で、聖武天皇の母親、藤原宮子の妹なんですね。
姉は皇后としては認められなかったのに、妹は正規の皇后です。
藤原不比等の根回し、政治的圧力、っていうことを、どうしても考えてしまいますけれども、光明皇后の人となりっていうのが周りの反対を押し切ったのかもしれません。
なんかね、すごい女性だったみたいな気がします。
光明皇后、在世中は光明子(こうみょうし)って名乗っていたっていう人なんですが、藤原氏を中心とした権力闘争の中で、かなり重要な役割を果たして、夫である聖武天皇を補佐するっていうよりは、一歩踏み込んでコントロールしていたっていう説もあるぐらいの美丈夫みたいです。
絶対的な後ろ盾だったはずの父、藤原不比等を720年に亡くしていますからね、死後の威光っていうこともあるかもしれませんが、光明子自身の政治的指導力っていうのが、父親譲りだったんじゃないでしょうか。
聖武天皇っていえば、741年に国分寺の建立を詔して、743年に奈良の大仏造立の詔を発出したことで知られているわけですが、仏教への帰依っていう点では、光明子の方に深遠さがあるようなんですね。
そもそもの発案は、光明子側にあったのかもしれませんよ。
729年から749年までの「天平」年間の日本は、天然痘が多発して、政権の中枢を担っていた藤原一族も代表的な4兄弟を失くしてしまうなどしたため、その供養と疫病の退散を祈願するための国分寺、奈良の大仏だったってされていますね。
このうちの最初に詔された国分寺っていうのは、国分僧寺、国分尼寺がセットになったものをいうわけで、お坊さんだけじゃなくって、尼さんも全国に遣わしたっていうのが特徴になると思います。
建物の規模としては男を立てているとしても、ちゃんと女のポジションを確保しているんですね。
国分僧寺の正式名称は「金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)」
国分尼寺は「法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)」
日本全国に68の国分寺が建立されたんですけど、当時の日本に東北地方、北海道は入っていないんですね。
そういう時代。
国分寺は仏教による国家鎮護のお寺なわけですが、全国に建立するにあたって、聖武天皇と光明子の間には仏教の受け止め方に違いがあったって言われています。
聖武天皇は釈迦仏を信奉していて、それで東大寺には毘盧遮那仏を祀ったんですが、光明子は十一面観音、薬師如来を信奉していたらしんですね。
聖武天皇のお釈迦様信仰には、反藤原グループの策略があったんじゃないかっていう説もあります。
聖武天皇の詔には「国分寺には釈迦仏を祀るように」っていう記述があるそうなんですけど、今現在、国分寺を引き継いでいるお寺の本尊は、ほとんどが薬師如来なんだそうですよ。
詔っていう形式と、実際の指示、っていうことだったんでしょうかね。
どうもね、藤原一族が天皇家に入り込もうとして、女子の扱いを重点的に考えたっていうこともあるんでしょうけど、この時代の女性の政治的活躍って、かなり高い能力と、国民の支持を集めていたんじゃないかっていうふうにも思えてきます。
聖武天皇は749年に娘に譲位して、第46代孝謙天皇が即位します。
在位は749年~758年。
758年に母親の光明子が病に倒れてしまって、その看病にあたるためっていう理由で、孝謙天皇は、天智天皇系の、第47代淳仁天皇(じゅんにんてんのう)に譲位して、自分は上皇になります。
ここでまた問題が起こるんですが、これもまた有名な、孝謙上皇による弓削道鏡の重用ですね。
それに異を唱える淳仁天皇側と軋轢が強くなって、ついには争乱にまで発展します。
764年、藤原仲麻呂の乱で淳仁天皇側は破れて、天皇を廃されて流刑になってしまいます。
古代はホント、ダイレクトにいろいろあるんですねえ。
孝謙上皇は重祚して、第48代称徳天皇となります。重祚の理由がなかなかにエグイわけです。
在位は764年~770年。
称徳天皇は独身で、子どももいなかったことから、崩御の際、臣下が相談のうえで、第49代光仁天皇が即位します。
光仁天皇の在位は770年~781年。
781年に譲位を受けた皇子が即位して、第50代桓武天皇になります。
桓武天皇は、これまでのしがらみの地を避けたかったのか、784年、当時ほぼ未開の地だった山城の国に長岡京を造営して奈良を出ます。
この時が奈良時代の終わり。
794年に長岡京から平安京へ遷都して、平安時代が始まったんでありますよ。
インバウンドはイイんだけど、観光客が多過ぎて地元の人の移動に差しさわりが出ているっていう人気の山城国、京都文化の始まる前に、なかなかな歴史があったんでした。
そうだ、京都行こう! っていうのが、日本人観光客から海外からの旅行者に主流が移っている21世紀の京都事情を、桓武天皇はどう眺めているでしょうね。