< 普通にイギリスとか英国とか言ってますけど なかなか複雑な御国柄なんですよね >
20世紀生まれの人、21世紀に生まれた人もそうでしょうけど、女王って言えばエリザベス2世でしたよね。
世界にとって、とてつもなく大きな存在だったことは間違いないと思います。
2022年9月8日に96歳でお亡くなりになって、19日に粛々と執り行われたイギリス国葬は日本でも大々的に報道されていました。
ずっと見入っていたっていう人も、けっこういますもんね。
1926年生まれのエリザベス・アレクサンドラ・メアリー女王は、亡くなる直前まで公務をこなしておられたわけで、元気だなあって思っていたんですが、旦那さんのエディンバラ公爵フィリップ王配も2021年に亡くなられたとき、99歳だったそうで、驚きの長生きご夫婦。
にしても「王配」って言うんですね。初めて知りました。殿下って言ってましたけどね。
何かあるごとに世界的な話題を振りまいていたエリザベス2世だったんですが、イギリスの他に14か国の君主だったわけですから、そりゃ取り上げられる時には世界的になるわけですよね。
エリザベス2世の在位期間は70年214日でイギリス史上最長だそうですけど、世界にはもっと長い在位期間の王様、女王様がいるんでしょうかね。
って思ったら、いました、おられました。
イギリスと何かと因縁の深いフランスの太陽王、ルイ14世。
エリザベス2世が即位したのは25歳でしたが、ルイ14世が即位したのは、なんと4歳。
ははあん、そういうのあるんですよねえって感じなんですが、1715年に76歳で亡くなっていて、その在位期間は72年110日。
信頼できる記録に遺っている在位期間として、エリザベス2世は世界で2番目に長いってことになるみたいです。
でもねえ、4歳で即位っていったら、エリザベス女王は21年もハンディになってるじゃんねえ。
ちなみに、エリザベス2世がイギリス史上の在位期間最長記録を塗り替えるまで、ずっと第1位の記録を遺していたのは、エリザベス2世のお祖父さんのお祖母さん、1901年に81歳で亡くなられたヴィクトリア女王。
在位期間63年7か月だったそうです。
けっこう長命な一族なのかもですね。
ヴィクトリア女王って聞いたことありますよ。
ヴィクトリア朝時代の女王様でしょ、って思ったら、ちょっとね、違っていました。
ま、イギリスに限らずヨーロッパの王家の歴史っていうのは、なんだか凄く複雑だなあっていうイメージしかありませんし、もちろん詳しくはないんで、ハズレってことになっても驚きはないですけどね。
そっか、ヴィクトリア朝の女王じゃなかったんだってことで、もちょっと調べてみたらですね、イギリスにヴィクトリア朝っていう王朝はなかったんであります。
ん~、違う国の王朝だったかな。たしか聞いたことあるような気がするんだけどなあ。
そうしたらですね、ヴィクトリア女王の治世期間を特別にヴィクトリア朝っていう言い方をすることが、慣例的にあるんだそうです。
そういう言い方をするぐらいにイギリスの全盛期のような期間の女王なんで、ハノーヴァー朝の女王なんだけれども、6代続いたハノーヴァー朝の王の中で、ヴィクトリア女王は特別だっていう受け止めなんでしょうね。
〇〇朝って、いろいろあったよねえ、って一度も覚えたことはないですけどね。
世界史ってまともに勉強したことなかったです。それはガッコのセンセが悪かったと真剣に、今でも思っています。だって、授業、つまんないんですもん。歴史は面白いのに授業はつまらない。悪いのは生徒じゃなくってセンセの方です! ね。
さて、イギリスの王朝って、そもそもいつから始まったんでしょう。
1066年、フランスに侵入してノルマン公国を成立させていたノルマン人のウィリアム1世が、サクソン人の勢力を駆逐して「ノルマン朝」を成立させたのがイングランドの始まり。
ふううん。意外に古くないです。
「ノルマン朝」は4代続いて、1154年からは「プランタジネット朝」
「プランタジネット朝」は8代続いて、1399年から「ランカスター朝」
「ヨーク朝」は1代だけで、1470年からまた「ランカスター朝」に戻ります。
戻ってきた「ランカスター朝」の王は、前と同じ3代目のヘンリー6世。
でまたわずか1年で1471年から「ヨーク朝」に戻ります。
この戻った「ヨーク朝」の王もまた、前と同じエドワード4世。
まあ、なんとなあくの血縁関係はあるんでしょうけど、けっこう複雑みたいですね。
戻ってきた「ヨーク朝」は3代続きます。
そして1485年からは「テューダ―朝」
5代続いた「テューダ―朝」の4代目はメアリー1世で、1553年から1558年の在位。
そして5代目、最後の支配者はエリザベス1世。1558年から1603年の在位です。
2代続けての女王です。
エリザベス1世は16世紀から17世紀にかけての「テューダ―朝」の女王なんですね。
1603年からは「スチュアート朝」
「スチュアート朝」の2代目、チャールズ1世は共和国勢力によって1649年に処刑されていて、ここで一旦、イングランドの王朝は途切れているんですね。クロムウェルの共和制です。
クロムウェルっていう名前は、なんでだか記憶していますね。なんかクラ~イ感じの記憶。
イギリスの共和政は長続きしなくって、1660年には王政復古。「スチュアート朝」が復帰して4代続きます。
1714年からは「ハノーヴァー朝」
6代続いた最後の女王がヴィクトリア女王です。
1837年から1901年の在位期間中のほとんどが産業革命ですからね、イングランドは絶好調の右肩上がりの時代です。
1901年からは「サクス・コバーグ・ゴータ朝」
ん~、なんかこの王朝名は聞いたことないような。。。
2代目のジョージ5世のとき第1次世界大戦が起こって、王朝名を「ウィンザー朝」に改称します。
「ウィンザー朝」は何回も聞いたことありますねえ、って思ったら、それもそのはず「ウィンザー朝」が現在のイングランド王朝なんでした。
5代目がエリザベス2世。そして今のチャールズ3世が6代目ってことになるんですね。
ノルマン朝が始まってから2022年で956年です。
途中で途切れていたりもするみたいですけど、1000年王朝ではありますね。
44人の王のうち、女王は「テューダ―朝」のメアリー1世とエリザベス1世。
「ステュアート朝」のアン。
「ハノーヴァー朝」のヴィクトリア。
そして「ウィンザー朝」のエリザベス2世で、5人です。
「テューダ―朝」のメアリー1世とエリザベス1世に関しては、2008年に公開された映画「ブーリン家の姉妹」を観た方も少なくないんじゃないでしょうか。
舞台となったイギリス王朝は「テューダ―朝」2代目のヘンリー8世。
最初の王妃キャサリン・オブ・アラゴンとの間の子どもがメアリー。
男児しか継承権を認めないような空気の中でヘンリー8世は2番目の王妃として、アン・ブーリンを迎えて、エリザベスが生まれます。
希望の男児を求めてのことなのかヘンリー8世は生涯で6人の王妃を迎えますが、美貌のアン・ブーリンはいろいろと策略のあった人だって言われていて、自分の娘のエリザベスを王座につけようと画策して、まずメアリーを遠ざけて殺そうとしますが、自分自身の子供も女児だったためにヘンリー8世の気持ちを繋ぎとめておけず、結局は処刑されてしまうんですね。
アン・ブーリンの画策、その駆け引き、やりとりが「ブーリン家の姉妹」のキモですんで、まだ観ていない人のために詳細は言いませんです。
結果的にメアリーもエリアベスも庶子とされて王座からは遠ざけられてしまうんですが、女児だとしても正規の継承権を持っているはずだっていう臣下たちもいて、殺される寸前までいってからの1553年、メアリー1世の誕生となるわけです。
メアリー1世にしてみれば、自分の母親を追いやったアン・ブーリンの娘がエリザベスですから、恨みこそすれ親しみは持たなかったってされているんですね。腹違いの妹なんですけどね。
でもまあ、子どももなかったし、頼れる人もなくって、1558年に亡くなるときにはしかたなく、妹のエリザベスに王位を譲るんですね。
女王を引き継いだエリザベス1世は、「処女王」「グッド・クイーン・ベス」って呼ばれてイングランドの内政的黄金期を築きます。
とても優れた女王だったそうで、ヴィクトリア女王と同じく、エリザベス1世の統治期間は、特別にエリザベス朝って呼ばれて賞賛されているんですね。
「ステュアート朝」のアン女王は、スペイン継承戦争、北米でもフランスに勝利を収め、イギリス革命の混乱を沈め、スコットランドを併合。大ブリテン王国を成立させた大王なんですね。1702年から1714年の在位です。
エリザベス2世とイギリスの女王は偉大な女王ばっかりなんですね。
「テューダ―朝」のメアリー1世は、今に名を伝えるカクテル「ブラッディ・メアリー」のメアリーです。
カトリックとプロテスタントっていう宗教的な諍いもあって、多くの人を処刑したんでそういうあだ名が付けられたんでしょうけれど、カクテル自体はけっこう人気がありますよね。
「血まみれのメアリー」
このメアリー1世が自分の肖像画に好んで署名していたっていう言葉が「真実は時の娘」
「真実というものは、今は隠されているかもしれないが、時間の経過によって明らかになる」っていう意味だそうですが、一旦庶子の身分に落とされて、殺されそうになりながら女王の座について、ブラッディ・メアリーって言われるようなことを成し遂げてきた、おそらくは孤独な女王の、信念の言葉として、とても重みがありますよね。
いろいろ言われるけれども、そうしなければならなかった、平和のための、発展のための理由があるのです。それについていちいちは言いません。時がたてば、真実が、あなた方にも分かるようになるでしょう。ってことなんでしょうかね。「真実は時の娘」
メアリー1世は 1516年から1558年の人ですが、直後の時代のフランシス・ベーコン(1561~1626)も「真理は時の娘であり、権威の娘ではない」っていう言葉を遺していますね。
「真実は時の娘」イギリスで、なんだか権威めいて響く言葉なのかもしれません。
レオナルド・ダ・ヴィンチがたくさん遺しているメモにも書かれている言葉なんだそうです。
でも、元々は2世紀のローマ、アウルス・ゲッリウスが書いた本「アッティカ夜話」に出てくる、ソポクレスの言葉として「何も隠そうとしてはならない。時はすべてを聞く者にしてすべてを白日に晒すから」っていうのが、どうやら原点みたいですから、すごく昔から言われているんですね。
ソポクレスですからね。紀元前5世紀ごろ。
そんな昔から「真実は時の娘」なんですねえ。しかもイギリス発祥の言葉じゃないみたいです。
1951年に出された小説「時の娘」っていうのがあります。
イギリスの作家「ジョセフィン・テイ」の長編推理小説ですね。
この小説でアラン・グラント警部が解決するのは、ヨーク朝最後の王、リチャード3世(1452~1485)の悪評。
ランカスター朝とヨーク朝と、王権があっちへ行ったりこっちへ来たりしていた直後の王ですね。
ずっと争いが国内外で続いていたのかもしれません。
リチャード3世が戦死してヨーク朝からテューダ―朝へ変わったんですが、評判は良くないんです。
マキャベリ的な王として、策略をめぐらして先王から王位を簒奪、先王の2人の息子、つまり自分の甥たちをロンドン塔に幽閉したうえで殺害。
醜悪な容貌で、せむしだっていうイギリス王朝最低の悪王とされているんですね。
最低最悪のイギリス王、リチャード3世。
この悪評はシェークスピアの「リチャード3世」で決定的になっているらしいんですが、「時の娘」っていう小説は、そんな悪王じゃないよっていう長編推理小説なんです。
歴史を作るのは勝者。ヨーク朝を終わらせたチューダー朝の策略によって、リチャード3世は、その言動ばかりでなく容貌までもゆがめられたっていう話なんですね。
このリチャード3世の行状を巡っては、「リカーディアン」っていうリチャード3世ファンっていうのがイギリスには一定数いるみたいで、評価は真っ二つの王なんですね。
イギリス国内での薔薇戦争によって戦死したリチャード3世なんですが、2012年、記録された埋葬場所の跡地、レスター市中心部の駐車場の地下から実際に遺骨が発見されたんですよね。
けっこう大きなニュースになりました。
リチャード3世の遺骨は、頭蓋骨に戦闘で受けた複数の傷、そして脊柱には強い脊椎側彎症が確認されて、ゆがめられたとされているその容貌について、背むしだった可能性が高いっていう分析結果がだされたんですね。
シェークスピアの「リチャード3世」では、戦闘で最期を迎えた時にリチャード3世はこう言います。
「馬だ、馬だ。馬をくれたらイギリス王国をくれてやる」
足を引きずっていたっていうリチャード3世。目的のためには手段を択ばずにイギリス王国を手に入れたリチャード3世が、最後の瞬間には馬一頭とイギリス王国を交換してまで生き延びようとしたっていうことを言い表した、シェークスピアの台本です。
1951年に出された小説「時の娘」
2012年、駐車場の地下から発見されたリチャード3世の遺骨。
「真実は時の娘」
娘は今、どういう表情をしているんでしょうか。傑作だと思いますよ「時の娘」
足が不自由で背むしであっても自ら戦闘の最前線にいたリチャード3世。
身体が不自由であったからといって、悪辣な王だったということにはならないと思いますけどね。
さらに考えれば、戦闘に明け暮れたリチャード3世の背骨の傷だって、戦闘で受けたものかも知れませんもんね。
小説「時の娘」が、リチャード3世の悪評を晴らそうとする、そのスタートは、リチャード3世の肖像画を見て、信頼出来る表情をしているから、っていうことなんであります。
「真実は時の娘」なんだそうありますよ。ふむむって考えさせられます。