< 7世紀の人工物ってことですから1400年ぐらい前ですけど その役割は解ってないんですねえ >
奈良県明日香村の岡っていう地域にある酒船石が「岡の酒船石」
「岡の酒船石」は江戸時代にはすでに見つかっていたらしいですね。
で、もう1つは「出水(でみず)の酒船石」大正時代に発見。
飛鳥川の畔、「岡の酒船石」の北西3キロメートルほどの出水っていう場所で、農家の人が2つ石造物を同時に掘り出したんだそうです。
今は「岡の酒船石」からほぼ真北に1キロメートルほどの、奈良文化財研究所飛鳥資料館、前庭に常設展示されているみたいです。
でもコレ、レプリカだそうですね。
ホンモノの出水の酒船石は、京都市左京区南禅寺下河原町にある重要文化財「碧雲荘(へきうんそう)」の庭園内に置かれているそうです。
野村碧雲荘ですね。野村財閥と明日香村って何か関係があるんでしょうかね。
酒船石ねえ、なんでそういう名前が付いたんでしょ。
酒をいれる船っていう表現が、何を意味しているのか、ちょっと分かりません。
7世紀ごろに作られたものらしいんですけど、その用途がなんなのか、分かってはいないらしいです。
酒船石の字のまんまで、酒を造る道具だっていう説とか、水にまつわる政治的儀式、あるいは宗教的儀式に使われたもの。いやいや、水遊びの道具でしょ。とかいろいろ言われているんですね。
ひところ騒がれた、松本清張が唱えた「ゾロアスター教の炎の儀式の道具」っていう説もあります。
7世紀の日本にペルシア人がいたっていう説は、否定は出来ないってことみたいですけど、他の説と同様に、決定的なものにはなっていないそうです。
古代の石造物の正体をあーだこーだ想像してみるのも楽しいことだと思います。
7世紀の誰が何のために酒船石を作ったのか。作らせたのか。
しかも1カ所じゃなくって、今のところ2カ所で見つかっているだけですけど、この先、別の場所で新たに見つからないとも限らないわけで、古代日本のミステリーは簡単には解けそうにないってことでしょうね。
この酒船石のミステリーもさることながら、7世紀って、そもそも日本最大のミステリー時代かもですよね。
大胆なことを言えば、最古の正史、日本書紀は何かしら不都合な部分を隠している。
岡の酒船石、その300メートルほど南西には「飛鳥京跡」があるんですが、ここに7世紀の皇極天皇の「飛鳥板蓋宮」があったとされています。
この皇極天皇が、酒船石ばかりじゃなくって、明日香のミステリーのキーパーソンになるんじゃないでしょうか。
かなり波乱万丈なように思えますよ、皇極天皇っていう7世紀の女性は。
594年に、皇族、「茅渟王(ちぬのおおきみ)(生没年不詳)」の娘として生まれた皇極天皇は、同じく皇族の「高向王(たかむくのおおきみ)(生没年不詳)」に嫁いで王子をもうけますが、分かっているところでは626年以前に離別しているようなんですね。
単純計算では32歳ごろに別れているっていうことになります。
そして、630年に「舒明天皇(593~641)」に嫁ぐんですね。
36歳ってことになりますから、当時としてはかなりの晩婚ってことになりそうです。
1歳年上の舒明天皇は629年に天皇の座に就いていますから、なんだか慌てたような御成婚にも感じられます。
「聖徳太子(574~622)」の時代の推古天皇は、崩御した時に後継を決めていなかったので、時の大臣「蘇我蝦夷(586~645)」が群臣の意見をまとめて舒明天皇を立てたんだそうです。
フィクサーですね、蘇我蝦夷。
こうしたビッグネームが登場してきますと、皇極天皇、ただ単に、遅い御成婚でしたねえ、なんて言っていられない空気になって来ます。そういう感じがします。もちろん、この時点では天皇じゃありませんけれどね。
政はずっと蘇我氏が牛耳っていた時代です。
推古天皇が崩御した時点で、後継候補は2人に絞られていて、1人が舒明天皇になった、田村皇子。
そしてライバルだったのが、「山背大兄王(やましろのおおえのおう)(出生年不明~643)」
名前の知られた人ですよね。聖徳太子の息子です。
歴史書は、特に何事もなく田村皇子が天皇の座に就いたような記述になっていますが、どうもそのまま信じるわけにはいかないような、キナ臭いものが、ここから始まっているようにも思えます。
この後の出来事を知っている後世代の我々からしますと、どうしてもね、勘ぐっちゃいますよ。
そんな怪しげな空気の中に、御成婚という形で皇極天皇は巻き込まれてしまったのかもしれません。
舒明天皇は皇極天皇との間に、後の「天智天皇(626~672)」「天武天皇(生年不詳~686)」をもうけています。
最初の遣唐使を送ったりして政務に励んでいたようですが、641年に崩御します。
こうした古い記録にはありがちなことですけれど、天智天皇の生年は舒明天皇と皇極天皇が結ばれる4年も前になっているんですよね。天武天皇に関しては生年不詳です。
626年って、皇極天皇が最初の結婚を解消したであろうって言われている年。
どうもね、この辺にも、なんだかいろいろ、ありそうな気もします。
舒明天皇が崩御した時、2人の皇子は、ともに若すぎるっていうこともあったのかもしれませんが、次代の天皇を誰にするかで、意見がまとまらなかった、ってされています。
でも天智天皇って15歳になってますよ。若すぎる、って判断しますかね。よく分かりません。
舒明天皇の死因は明らかじゃないみたいなんですけど、跡継ぎが決まらないって、皇族も蘇我氏も、学習能力ないってことになっちゃいそうです。
どうもね、蘇我一族の支配をめぐって、権力欲がいろいろと渦巻いていたんじゃないでしょうかね。
で、中継ぎっていう形で、642年、皇極天皇が即位するんですね。
皇極天皇も蘇我系の天皇ってことになります。
この時の「日本書紀」の記述に、興味深い箇所があります。
「天皇は古の道に従って政を行った」
古の道に従うっていうのは、どういうことを言っているんでしょうか。
皇極天皇が即位したばかりの642年、都は日照り続きで干ばつになっていたので、蘇我蝦夷が僧たちに読経させて雨乞いをした。
雨は次の日に少し降ったんだそうです。でもそれだけで、また日照りの日々になった。
そこで今度は皇極天皇が川辺で「四方を」拝して雨乞いをした。
雷雨が5日間続いたんだそうです。
卑弥呼の「鬼道」伝説とは違うんでしょうけれども、皇極天皇の「古の道に従う」っていうのは、こういうことを言うのかもですよね。
仏教や神道っていうのが、まだ完全には定着していない時代の日本、ってことになるでしょうか。
蘇我蝦夷、蘇我入鹿(生年不詳~645)が国政をとって、皇極天皇が神事を司る。
雨をもたらしてくれた皇極天皇は民衆からたいへんに崇められたそうです。
舒明天皇は飛鳥岡本宮を皇居にしていましたが、643年に皇極天皇は、推古天皇が皇居にしていた小墾田宮(おはりだのみや)に移っています。
どこにあったのか場所が特定されていない宮ですね。
そして半年もしないうちに、新しく造営した「飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)」に移ります。
こっちの宮の場所も精確には特定できていないみたいです。
即位してから、なんだか忙しく、いろんな方面で活躍している感じの皇極天皇ですが、このタイミングで雨、水を司る天皇として「酒船石」を、飛鳥板蓋宮の「四方に」配置したっていうことは考えられないでしょうか。
もちろん「酒船石」っていう名前は後代の学者センセが付けたものでしょうから、飛鳥時代になんて呼ばれていたのかは確定できないでしょうけれどね。
今のところ2カ所で発見されている「酒船石」ですけれど、あと2カ所、新たに発見されないとも限らない。
んじゃないのかなあ~って、思います。
ただですね、皇極天皇の安定は長く続かなかったんですよね。
飛鳥板蓋宮に移ってから半年が過ぎた643年暮れに、蘇我入鹿が山背大兄王一族を攻めて殺害する事件が起きます。
この時の国政は蘇我蝦夷じゃなくって、息子の蘇我入鹿が握っていたそうなんですけど、この聖徳太子の一族を殲滅するっていう蛮行の目的はなんだったのか、諸説あってハッキリしていないみたいですよね。
蘇我氏一族の中での勢力争いっていう説が主流。
でもなんか、しっくりこない気がします。
蘇我入鹿の蛮行から半年余りの645年夏、飛鳥板蓋宮、皇極天皇の目の前で蘇我入鹿が殺害されます。
後の天智天皇、中大兄皇子と中臣鎌足による「乙巳の変(いっしのへん)」ですね。
翌日には蘇我蝦夷も自害して果てます。
蘇我一族の時代が終わるんですね。
乙巳の変によって大化の改新が始まって、日本っていう国号、大化っていう初めての元号、天皇っていう称号が正式に決まって、政治の在り方が一気に新しくなった、ってされています。
こんなのって、前もって周到に準備していないと出来ませんよね。
皇極天皇は、弟の「孝徳天皇(596~654)」に譲位して退くんですよね。
天皇の譲位は、この時の皇極天皇が最初だってされています。
皇極天皇が退いて、政治の中枢は蘇我氏から藤原氏へ移っていくことになります。
難波宮を皇居にした孝徳天皇の崩御についても、怪しげな言い伝えがありますね。
皇太子となった中大兄皇子は、653年に「倭京(やまとのみやこ)」を造営して、そこに遷都するように孝徳天皇に求めたそうです。
孝徳天皇が断ると、中大兄皇子は皇極天皇らの一族、多くの臣下を連れて倭京に移ってしまうんですね。
なんなんでしょう、これ。反逆ですよね。
そして翌年に孝徳天皇が崩御しています。
654年、皇極天皇は飛鳥板蓋宮で重祚して斉明天皇となるんですよね。62歳の時です。
政治の実権は中大兄皇子、中臣鎌足がとっていたそうですが、斉明天皇は大規模な工事を次々に行って、雨乞いの時とは正反対の、怨嗟の声を浴びることになってしまっています。
香久山から、石上山、現在の天理市辺りらしいですが、全長12キロメートルほどの側溝を掘らせて、水路、石を運んだらしいんですね。
その時の石垣なんじゃないかっていうのが、1999年に「岡の酒船石」近くで見つかっています。
酒船石を作ったのも、もしかすると、この時なのかもしれません。
石と水、皇極天皇、斉明天皇にはこの2つのイメージが強く感じられますね。
661年、68歳で崩御されています。
天智天皇になった中大兄皇子から藤原姓を賜ることになる中臣鎌足、藤原鎌足は、蘇我氏の功績、まあ、功罪ともにあるんでしょうけれど、記録としてかなり歪曲、削除して後世に伝えているんじゃないでしょうかね。
日本書紀が成ったのは720年ってされています。
天智天皇は668年に天皇に就いていますが、661年に斉明天皇がなくなってからの天皇不在期間っていうのも、ナゾです。
現代の暮らしからはなかなか想像できない古代日本。
だからこその面白さっていうのがあるんでしょうけれどね。
「酒船石」あと2カ所で発見されるんじゃないでしょかねえ。どうでしょ。