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【大正時代の美人たち】15年間しかなかった短い時代に強烈に輝いた日本の別嬪さんたち その4

< 明治生まれの美人さんたちが活力あふれる大正時代を生き抜いていくですねえ >

日本一の美人って言われた「万龍」を「桃のつぼみのようだった春本万龍」って「美人伝」で表現した長谷川時雨っていう作家さん。
この人がそもそも美人さんで有名だったらしいんですね。


長谷川時雨、本名、長谷川ヤスは明治12年、1879年、日本橋に生まれて、昭和16年、1941年に亡くなっています。


この人の名前も最近ではほとんど聞くことがないように思いますが、明治から昭和にかけての人気作家、劇作家。女性運動家としても知られています。


明治初期の日本人家族ってなかなかに面白いところがあるんですが、長谷川時雨のお父さんは日本初の免許代言人っていう今の弁護士のような仕事だったらしいです。明治初期の有力者。幕府の役職にでも就いていた人だったんでしょうか。


面白いのは母親の多喜っていう人で、御家人の娘だったそうなんですね。


一応、幕府方の武士階級ではあっても将軍のお目にはかかれないっていう下層階級、御家人
新しい世の中になって、大きな変化にさらされるのか、それとも雇い主が代わるだけのことなのか、薩長勢力とはなにものなのか、もっとも神経質にならざるを得なかったのが御家人だったかもですね。


そんな御家人の家で育った多喜は、女に学問は必要ないっていうのが持論。そう言われて育ってきたんでしょうね。


長谷川ヤスはそんな母親の目を盗んで、読書に耽っていたんだそうです。


女に学問は、とか言いながら家の中に本があるってことで、父親の蔵書だけとは思えず、実は多喜は文化素養に富んだ女性だったのかもしれません。


女に学問はっていう言動は、世間に敵を作らないための方便で、女も賞を持って新しい時代に供えるべきっていうような、ダブルでもトリプルでもスタンダードを持っていたような文明開化人。それが多喜。


女に学問は、っていう表現は夫も含めて世間の男に対するカモフラージュ。
ってまあ、考え過ぎかもですけどね。


何にせよ長谷川ヤスは、17歳の頃から佐佐木信綱の竹柏園に通って古典を学んだっていいますから、佐佐木信綱の下で短歌を学んでいた柳原白蓮たちとも顔見知りだったんでしょうね。
柳原白蓮長谷川時雨の6つ年下です。

 

 

 


古典を学び始めてすぐの明治30年、1897年に父親の命令で成金の鉄問屋、水橋家の次男と結婚させられます。


なんでしょうね、お金に紐づけようとする目的でもあったんでしょうか。
18歳のヤスは凄く嫌がったそうです。


結婚相手のこの次男坊、実家から勘当された状態で、根っからの遊び人。ショーモナイヤツ、だったみたいです。


水橋康子となっていたヤスは製鉄所のあった岩手県の釜石に住むことになったんですが、夫は東京へ遊びに出て行って帰って来ず、独り暮らし状態。
この期間に独学で小説の習作に励んだそうです。


明治37年、1904年に離婚を決意した水橋康子は帰京するんですが、日本の上流クラスで活躍していたはずの父親が、1900年の東京市会疑獄事件に連座して隠居していて、長谷川ヤスは佃島で父親と暮らすことになります。


あれ? 母親はどうしたの? ってことになるんですけど、稼がざるを得なくなった母親の多喜は、箱根塔ノ沢で「玉泉楼新玉」っていう温泉旅館を経営していて、大忙し。かなりの人気を得ていたそうです。


なして温泉旅館? って気もしますけれど、大転身ですね。


夫の顔の広さっていう助けもあってのことなんでしょうけれども、御家人の娘、女に学問はとかいいながら、多喜ってなかなかアッパレな才能だったことは間違いないです。行動の人ですね。


多喜が経営していた人気の宿っていうのが箱根塔ノ沢にあったっていうこと、ここは前回の万龍に絡んで、ちょと気になりますね。


万龍と恒川良一郎が出会った宿も箱根塔ノ沢にあったってことでした。
そこで人気温泉旅館を経営していた多喜。万龍とも顔を合わせていたかもしれないですよね。


ま、箱根塔ノ沢っていえば江戸初期から知られた湯治場ですから、玉泉楼新玉以外にも温泉旅館はたくさんあったでしょうけれどね。


温泉旅館の経営者、長谷川多喜は時代っていう急流に呑み込まれていきます。


文明開化、政府の欧化政策の一環として明治16年、1883年に麹町、薩摩藩邸跡地に建設されたのが外国との社交場、鹿鳴館。有名ですよね。
その2年ほど前、明治14年1881年芝公園に国際交流の舞台とすべく建設されたのが、会員制の高級料亭、紅葉館です。


鹿鳴館に比べて紅葉館っていう名前は、今の世の中では知られていないかもですけどね。
でも実は紅葉館の方が実績は大きそうです。


鹿鳴館は政策の失敗によって、わずか7年でその役割を終えざるを得なかったんですが、紅葉館は対外的な社交場として日本随一の名所であり続けます。


ただ、1909年に創業者の野辺地尚義が亡くなると衰退期を迎えてしまいます。
そうすると紅葉館の経営者は、なんと多喜に運営を任せるんですね。


繁盛していた玉泉楼新玉の噂は日本の経済界にまで聞こえていたっていうことですね。


ところがまた残念なことに、御家人の娘であるだけに攘夷思想が邪魔をして、ってことはないんでしょうけれど、海外のオエライさんたちを歓待する役割の紅葉館の運営に、多喜はつまづいてしまいます。


失敗したっていう言われ方もしていますけれど、「もうヤダ!」ってことだったのもしれないですよね。


なんでそう思うのかっていいますとね、1915年に紅葉館の運営から手を引くとすぐに、多喜は横浜、鶴見に割烹旅館「花香苑新玉」を開いているんですね。


「あたしゃね、自分のやりたようにやっていけば、そりゃなんとだってうまくやれるのさ」


こんな多喜の言葉を勝手ながらに想像しちゃいます。


ちなみに紅葉館は、昭和20年、1945年、敗戦直前の東京大空襲で焼失しちゃうまで存続しています。
その紅葉館の跡地に立っているのが東京タワー。

 

 

そんなような案内板が現在の東京タワーにあったような、なかったような。


さて、娘の長谷川時雨本人。


東京へ戻って来てから3年後、1907年になってやっと離婚が成立します。
この間に新聞懸賞に応募した戯曲が坪内逍遥に認められて入選したり、歌舞伎の脚本募集で当選したり、作家としての地位を築き始めます。


この頃からペンネームとして「長谷川時雨」って名乗っていたみたいです。


新聞雑誌に美人伝、名婦伝を発表するようになると、これが評判を呼んで「美人伝の時雨か、時雨の美人伝か」って言われたそうです。


1911年「日本美人伝」1912年「臙脂伝」を刊行して人気作家のポジションを固めます。


美人伝は長谷川時雨のライフワークともいわれるんですが、書き方が「女の肩を持ち過ぎている」っていう批判の声もあったそうです。
行動の才人、多喜の娘、長谷川時雨はこう返します。


「女が女の肩を持たないでどうしますか!」


美人伝は日本女性の見目麗しさだけを強調するものじゃなくって、女性の地位向上を念頭に置いた内容で、大いに支持されたんですね。


女の生き方として母親の多喜と時雨はかなり大きな反目を抱えていながら、血は水よりも濃し、っていうのが感じられます。気持ちね。


ちなみに長谷川時雨が「日本美人伝」を出した明治44年、1911年は、平塚らいてうが「青鞜」を創刊した年でもあります。

 

 

 


大正4年、1915年に多喜が横浜、鶴見に割烹旅館「花香苑新玉」を出したもんで、長谷川一家は鶴見に引っ越します。


長谷川時雨も執筆の傍ら、旅館業の手伝いもしていたみたいですね。反目していたって言いながら家族です。出来ることは何でもやる。昔の人は、男も女も、そんな感じだったような気もします。
とにかく働く。長谷川時雨36歳の頃ですね。


ちょうどこのころ、12歳年下の文学青年から作品が送られてきて、丁寧な感想を送り返したことから交際に発展します。


この12歳年下の文学青年こそが、のちに日本のバルザックなんて呼ばれるようになる三上於菟吉(おときち)です。
この人の名前も今ではあまり聞きません。


三上於菟吉長谷川時雨のもとへ転がり込むような形での同棲だったそうですが、一家をあげて鶴見に引っ越したばっかりの頃でもあります。鶴見の家で長谷川時雨一家と暮らしていたんでしょうか。どうなんでしょ。


ずっと内縁関係で、長谷川時雨三上於菟吉を応援し続けます。


その甲斐あって大正10年、1921年辺りから三上於菟吉は売れ始めて、一気に文壇の寵児になります。


ま、ありがちだなあっていうことではあるんですけど、金を手にした三上於菟吉は待合に入り浸って長谷川時雨のもとに帰って来なくなったそうです。


たまに帰って来ると後ろめたさからか、


「ダイヤを買ってあげよう」


って言うと、


「ダイヤなんて要らないけど、女だけの雑誌を出したいのよ」


ホントにこんな会話があったのかどうかハッキリはしませんが、三上於菟吉が資金を出して長谷川時雨は「女人芸術」を発刊します。
昭和3年、1928年のことです。


女性が書いて、女性が編集して、女性がデザインして、女性が出版して、女性の解放を進める商業雑誌。
つまり女性が自由に発表できる場を作ったんですね。


なかなか黒字経営ってわけにはいかなかったみたいですが、昭和7年、1932年の廃刊まで、赤字は三上於菟吉が補填していたみたいです。


でもまあ、意義としてはかなり大きいものがあって、女人芸術には多くの才能ある女性が集まります。


有名どころだけでも、野上弥生子三宅やす子尾崎翠宮本百合子林芙美子、中本たか子、佐多稲子平林たい子円地文子などなど錚々たるメンバーです。


政治的に無色だったとされる長谷川時雨でしたが、女人芸術は次第に左傾化していったそうです。


この時期の日本は満州事変から太平洋戦争へ向かっていましたから、軍部からの圧力によって発禁処分にされたりする中で次第に廃刊に追い込まれていったみたいですね。


八面六臂に活躍していた長谷川時雨なんですが、女人芸術のメンバーから、その所作が「美しい」と評価されていて「時雨さんほどの美人はいなかった」っていう声もあったそうです。


三上於菟吉に対する態度もそうですが、いわゆる「姉御肌」ってやつなんでしょうね。
いつでも、どんな時でも絵になる女性だったんだろうって思います。

 

「泣いても笑っても眉をひそめても、立っても坐っても、電話で印刷屋を叱りつけていても、どんなときでも時雨さんは美しかった」


円地文子もそんなふうに言っています。


1932年にやむなく廃刊した女人芸術でしたが、そこに集まっていた仲間たちに励まされる格好で、昭和8年、1933年、長谷川時雨は「輝ク会」を結成して、月刊機関誌「輝ク」を発刊します。


タブロイド判。二つ折りで4ページの小型新聞。


こじんまりしたようにも感じますが、執筆陣が凄いです。大正、昭和初期の文人が集まっています。


長谷川時雨岡田八千代田村俊子柳原白蓮平塚らいてう、長谷川かな女、深尾須磨子、岡本かの子、鷹野つぎ、高群逸枝、八木あき、坂西志保、板垣直子、中村汀女、大谷藤子、森茉莉林芙美子窪川稲子、平林たい子円地文子田中千代、大石千代子。


男性陣も書いていて、三上於菟吉直木三十五獅子文六葉山嘉樹大佛次郎


柳原白蓮の名前もありますね。


そしてその隣りに田村俊子の名前もあります。
この人も少々お騒がせな美人作家として知られています。
1879年生まれですから長谷川時雨の5つ年下。


飽きっぽい性格だったのか、幸田露伴のもとで小説を修行していたかと思えば、女優に転身。
1911年、長谷川時雨が「日本美人伝」を発行したのと同じ年に、事実婚していた田村松魚の勧めで書いた小説「あきらめ」が評価されて人気作家に。


と、1918年、田村松魚とはあっさり別れて、恋仲となっていた新聞記者を追ってカナダのバンクーバーへ飛びます。


新聞記者との死別によって1936年に帰国するんですが、佐多稲子の夫と不倫したりしてお騒がせは続くんですね。


「輝ク」に書いたのはこの頃ってことになりますね。
長谷川時雨と並んでいる写真があります。
でもまあ、作家としての人気は回復しなかったようです。


で、すぐに、日本との関係がキナ臭くなり始めていた中国、上海に渡って中国語の婦人雑誌を主宰していたそうです。


昭和20年、1945年、日本敗戦の年の春、脳溢血で客死。
なかなかに忙しく、自由奔放。凄い美人さんもいたものです。


この田村俊子が帰国した年、1936年に三上於菟吉が脳血栓で倒れます。


長谷川時雨は看病しながら三上於菟吉の新聞連載小説を代筆したりしています。

 

 

 


1937年に関東軍が中国と戦争を始めると、「輝ク」は戦争応援の新聞となります。


戦争の応援って、なに? って思うんですけど、戦争っていうのはそういう力を持っているってことなんでしょうか。イデオロギーとか関係ないところで日本を応援する。


1941年、長谷川時雨は「輝ク部隊」の「南支方面慰問団」を団長として率いて、台湾、広東、海南島などを1ヶ月かけて慰問に回っています。


この1ヶ月っていう期間も戦況が激化して来て途中で引き返さざるを得なかったからだそうで、もっとやるつもりでいたってことですね。


家にあっては三上於菟吉の看病もあって、疲労の蓄積が原因だって言われていますが、白血球顆粒細胞減少症に罹って慶応病院に入院。


ベッドの中でも執筆意欲は衰えず、樋口一葉のことを書く予定だったみたいです。


「一葉のことを書かなくちゃいけないんだよ。あたしが書かなくて誰が書けるかい」


この言葉を最後にして昭和16年、1941年、長谷川時雨は息を引き取ります。61歳。


三上於菟吉は3年後の1944年、内縁の妻、長谷川時雨の後に続きます。53歳。


令和の現在ではあまり取り上げられることのない2人ですね。
長谷川時雨樋口一葉伝。是非読んでみたかったです。


「輝ク」の執筆陣の中に「平塚らいてう」の名前がありますね。
大正時代の美人さんを取り上げるなら、この「青鞜」の女性は外せない1人ですよねえ。
ってことで、次は「平塚らいてう」であります。

 

 

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【大正時代の美人たち】15年間しかなかった短い時代に強烈に輝いた日本の別嬪さんたち その3

< 酒は正宗 芸者は万龍 唄ははやりの間がいいソング 巨人大鵬玉子焼きの大正バージョンですかね >

前回、前々回と「大正三美人」についてのあーだこーだを見てきました。
九条武子と柳原白蓮に、江木欣々を加えて3人とするか、林きむ子を加えて3人とするか、っていうことでしたんで、大正三美人は4人いますよっていう結論だったんですね。


三大〇〇っていう呼びかたが、他の何事についてでも落ち着きがイイってことで三美人、3っていう数字にこだわったってことなんでしょねえ。
で、今回は、その大正時代の美人さん、3回目なんであります。


大正時代の美人さん事情に詳しいはずもないんでありますが、納得いかない事情があるんでございます。はい。


それっていうのはですね、だいぶ昔のことなんですけど、明治の末頃、あまりに妖艶だっていうんで、当時の小学校をクビ、っていいますか強制退学させられた美人さんがいるっていう話を聞いた記憶があるですねえ。
聞いたっていうか読んだっていうか。


そんな美人さんがホントにいたとすると、大正時代には程イイ年齢になっているはずで、大正時代の美人さんに数えられないっていうのはオッカシイでしょ!
メディアっていうか、男たちの目が離れるはずないですよね。


でもねえ、小学校を退学させられるなんていうことからして、ナンセンスな感じですし、フィクションだったんでしょうか。


ってことで、トッ散らかってしまっている記憶を呼び覚ましながら、その美人さんについて探ってみました。


そしたら案外カンタンに見つかりましたです。


その美人さんの名前は「田向静(たむかいしず)」
明治27年(1894)、東京の日本橋に生まれています。


静が7歳の頃、運送業をしていた父親が病気で働けなくなり、赤坂の芸妓置屋を経営していた、蛭間そめの養女に出されて、蛭間静子(ひるましずこ)となります。
「子」が付いた。。。


このあたりの事情について詳細な記録は遺っていないんでしょうけれど、蛭間そめっていう置屋の女将さん。目の付け所がイイって言うんでしょうか、これは磨けば極上の玉になるってふんでいたんじゃないでしょうかね。
男好きのする女を見つける目を持っていたように思えます。

 

 

 


芸妓置屋で蝶よ花よと育てられながら蛭間静子は赤坂の小学校に通います。
7歳の頃っていいますから、明治34年ごろのことですね。


このころの学校教育は明治19年に発せられた小学校令によって尋常小学校と高等小学校が制定されています。


6歳になると義務教育として4年間の尋常小学校で勉強します。
高等小学校は尋常小学校を卒業してから任意で進学するシステムだったようです。


就学率が上がって義務教育が6年になったのは明治40年から。


その服装が華美で、姿が妖艶であったっていう理由で退学させられるっていうのは、さすがに義務教育途中のことじゃないでしょうから、蛭間静子が尋常小学校を終えて、高等小学校に進学した直後ぐらいの時期だったんでしょうかね。


10歳、11歳の頃。
まだまだ子どもの頃ってことだと思いますけど、妖艶すぎたんですって。


その美しさは教育上よろしくないから、小学校に来んな!


ムチャクチャでござりまんがな!


手塩にかけて可愛がっていたであろう育ての母、蛭間その、置屋の女将にとっては、むしろ名誉の退学処分だったのかもしれません。


あ、そ。
そこまで魅力がありますか、って感じで受け止めて笑っていたのかもです。


商売用のエピソードとして、上手いこと使えそうじゃないですか。


明治40年(1907)、蛭間静子は芸妓見習の半玉「万龍(まんりゅう)」としてお披露目されます。
14歳、15歳頃ですね。


赤坂の「春本」所属。半玉でありながら万龍はたちまち花街で評判をとります。


妖艶すぎて小学校をクビになった万龍でございます。っていうことだったんでしょうかね。


そのあたりの事情がどうだったのか分かりませんが、半玉デビューしてすぐに、芸妓、春本万龍っていう呼ばれ方になっているんですよね。


半玉としての通常の修行とか、すっ飛ばして芸妓さん、だったんでしょうか。


それとも7歳で養女に入ってから、すでに充分な修行は済ませていたっていうことなんでしょうかね。


万龍がデビューする少し前、明治37年、38年にかけて日本はロシアと戦争しています。


日露戦争に従軍する兵士たちの慰問用として「美人絵葉書」っていうのが流行していたそうです。
戦争が終わってからも美人絵葉書のブームは続いていて、万龍はここでも圧倒的な人気。


花柳界で遊んだことはないから万龍を目にしたことはないけれども、美人絵葉書の万龍は知っている、っていう男は実に多かったって言われています。


それをなにより証拠には、明治40年に文芸俱楽部っていう雑誌で行われた「日本百美人人気投票」で、万龍は9万票を集めての第1位!


日本一の美人って言われる由縁ですね。


江戸小唄では「酒は正宗 芸者は万龍 唄ははやりのマガイイソング」なんて歌われている別格の芸妓さんです。

 

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「なんて間がいいんでしょう」っていう言葉が大流行りしていたんだそうで、その流行りに乗っかった唄。


こんなふうに小唄の歌詞にもなって、大正初年に18歳だった万龍が大正三美人の筆頭にあげられていてもよさそうに思えます。


万龍はさまざまな企業のポスターにも登場していて、知らない人はいないっていう大スター。


ちなみにサントリー赤玉ポートワイン。あの有名な日本初のヌードポスターのモデルさんは、松島栄美子。
万龍より2つ年上の歌劇女優さんです。


ヌードって言ってもまあ、今となっては、ふううん、ヌードねえってな露出ですけどね。
万龍の人気とはジャンルが違いますかね。


当時の人気作家、長谷川時雨も「美人伝」の中で万龍を取り上げていて、


「桃のつぼみのようだった春本万龍」


「あの二重まぶたは、薄霞に包まれた夕星の光のようなやわらかいやさしさ宿していた。ほおは撫でてやりたいようなこんもりとしたふくらみを持っていた。なによりも尊かったのは、彼女の顔には、すこしの媚びもなかったことである」


って言ってますねえ。

 

 

 


も1つ。


谷崎潤一郎も「青春物語」の中の「大貫晶川、恒川陽一郎、並びに萬龍夫人のこと」で取り上げています。

 

縁は異なもの味なものっていうようなことが谷崎潤一郎と万龍にはあるんでした。


谷崎潤一郎は谷崎翁なんて呼ばれることもある文壇の大御所ですけれど、当然のごとく青春時代があるわけですね。
そんな青春時代を振り返ってみようっていうのが「青春物語」


明治の終わりごろ、東京府立一中に通っていた谷崎潤一郎と親密だった人に恒川陽一郎っていう人と、大貫雪之助っていう人がいて、3人でしょっちゅうツルんで歩いていて文学談義をかわしていたんだそうです。


大貫雪之助は、短歌を得意としていて、第2次新思潮の創刊に携わっていた文学青年だったんですが、東大を卒業した年に急死。
悲しい夭折ですね。この人は岡本太郎の母、岡本かの子のお兄さんなんです。


なんかね、有名人繋がりって、ひょんなところから、いろいろ出て来るですよねえ。


そしてもう1人の恒川陽一郎なんですが、この人は、なんと万龍のダンナさんになった人です。


作家として活躍していた恒川陽一郎ですが、谷崎潤一郎はその文学性をあんまり評価していないみたいなんですよね。


「彼の才能は余りに繊弱で、巧緻に過ぎ、鏡花先生の悪い所にばかりカブレてゐた。だから明星派の歌人として、都会人らしい、気の利いた、技巧を凝らした和歌を詠んだけれども、小説を書かせると、通人振つた、小待合式の、イヤ味な薄ツぺらなものが出来た」


ってな感じで痛烈です。
泉鏡花の悪いところばかり、って、なんだか文学論争になりそうな雰囲気を感じちゃったりしますけどね。


で、だんだん疎遠になっていたらしいんですが、恒川陽一郎からの相談事っていう形で谷崎潤一郎が一肌脱ぐようなことに発展したみたいです。


「ありていに云ふと、私は恒川自身の口から彼女との結婚問題を聞かされる迄、二人がそんな関係になつてゐようとは少しも知らなかつたのであつた。但し、箱根の出水の時にたまたま塔之沢の旅館に泊り合はせてゐた此の二人が同じ場所に避難をし、彼が一杯の葡萄酒をすゝめて彼女の脳貧血を救つたと云ふ劇的な事件がその前にあつて、新聞紙上を騒がしたことはあるけれども、それとて私は、新聞で知つてゐたゞけで、直接には聞いてゐなかつた。それ程彼と私とは疎遠になつてゐた。だから私は、二人の恋愛の発端とも云ふべき箱根の出来事に就いても、その後の発展に就いても、何も語る資格はないのである」


資格はないって言いながらこうして語っているわけなんですが、東京大学の学生と日本一の名妓が出会うっていうことからしてメディアに取り上げられて話題になっていたんですね。


明治43年(1910)、箱根は大洪水に襲われて、宿の人たちも大慌てで逃げ惑う中、万龍は脳貧血を起こして逃げ遅れていたんだそうです。
そこへ恒川陽一郎が居合わせて、万龍を助けたっていうことみたいですね。


葡萄酒で脳貧血が治まるのかどうか、分かりませんけれども、なんでしょう、2人とも避暑かなんかで箱根に居たんでしょうかね。


恋愛関係になったのは翌年、偶然東京で再会してからのことだってされていますけれど、偶然? 意図された偶然ってことのような気がしますですねえ。


「恒川が彼の結婚問題を私に打ち明けるやうになつたのは、彼女を落籍させるための金策に困つて、その相談を私の所へ持ち込んで来たからであつた。恐らくそんな事情でもなければ、彼がわざ/\その時分の私を訪ねることはなかつたであらうが、いくら疎遠になつたと云つても、そこは矢張旧友の情誼を信頼してゐてくれたのであらう」


っていうことなので、谷崎潤一郎金策のために、付き合いのあった偕楽園の主人に相談を持ち掛けるんですね。


その笹沼っていう偕楽園主人は取り合わなかったようで、


「それで私はその不結果の報告をもたらして、青山北町にあつた恒川の家を久振に訪ねた。それが、明治年代のことであつたか、大正の初め頃であつたか、その辺の記憶が明瞭を欠くのだが、今も不思議に覚えてゐるのは、その時私は細かい十の字がすりの対の大島の袷(これは友人の借り着であつた)に、お召の夏袴を穿いてゐた。だから季節は晩春か初秋、―――多分晩春であつたと思ふ。兎に角、もう恒川の家に納まつてゐると云ふ一代の麗人に初見参をすべく、好奇心に胸を躍らせながら、精々めかし込んで出かけたらうことはお察しを願ひたい」


今は旧友と共に暮らしている、当代随一の名妓に合うんですから、さすがの谷崎潤一郎もコチコチだったのかもしれませんね。


恒川家はいわゆる名家で、世間体を気にして万龍との結婚には大反対だったそうですけれども、もう事実婚みたいなことになっていたんでしょうね。

 

 

 


いざ会ってみると、


「萬龍夫人も、噂に聞いたやうな威張つたところは微塵もなく、初めから打ち解けた態度であつた。そして、お白粉気のない顔に銘仙づくめの衣類を着て、すつかりしろうと作りだつた」


「私はその時、名妓と云はれる人の飾り気のない生地の姿に接したのであるが、彼女の顔立ちは写真から受ける感じと少しも違つてゐなかつた。だが唯一つ、写真で分らなかつたのはその眼の美しさであつた。大きく、冴えて、ぱつちりとして、研き抜かれたやうな光りがあつて、真に明眸とはあんなまなざしを云ふのであらう。藝者には往々お白粉焼けのした、疲れた地肌の人を見受けるが、彼女の皮膚はたるみなく張り切つて、澄んでゐた。欠点を云へば上背の足りないことだけれども、小柄で、程よく肥えてゐるのが、娘々して、あどけなくさへ見えるのであつた。彼女は所謂「意気な女」、―――すつきりした、藝者らしい姿の人ではなかつたけれども、くろうと臭い病的な感じがなく、瀟洒と云ふよりは豊艶であつた」


「しかし私は、半日程話してゐる間に、彼女が実にしつかりした、腹もあり分別もある、聡明な婦人であることを看取した。彼女の頭は恐ろしく鋭敏に働いて、ほんの一寸した片言隻語の間にも冴えた閃めきを見せるのであつた。思ふに彼女があれ程の評判を取つたのは、その美貌の故であらうけれども、或は一層多くその聡明に負ふところがあつたかも知れない」


そして、


「ところで私は、止せばいゝのに一杯飲んだ勢ひで、恒川の事件を岡本夫婦にしやべつてしまつたのであつた。と云ふのは、岡本夫人かの子女史は大貫の妹でもあり、気心もよく分つてゐたから、此処で話すのは構はないと云ふ心持があつたのだらう。一平君もかの子夫人も、勿論面白がつて聞いた」


なんかね、谷崎潤一郎ってこんな軽いイメージでしたっけ? って思っちゃうですね。


先述しましたけれど、漫画家の岡本一平、作家の岡本かの子夫婦ですね。芸術家の岡本太郎は夫婦のひとりっ子。


「恒川の方は、その後金の問題も巧く解決がついたと見えて、首尾よく思ひを遂げたことは世間周知の通りである」


だったんですが、


「そして大正五年(?)の秋であつたか、或る日突然恒川の訃報を受け取つたのである。お通夜の晩に、私は彼の柩の前で久方振に萬龍夫人と言葉を交した。彼女は悲しみに窶れてゐたけれども、昔の色香は少しも衰へてゐなかつた」


谷崎潤一郎は「萬龍」って表記していますね。


大正2年(1913)まだ学生だった恒川陽一郎は25歳、万龍19歳で結婚。恒川静になったんですが、大正5年(1916)に恒川が病死。わずか4年ほどの結婚生活だったんですね。
まだ23歳の万龍未亡人。

 

 

 

芸妓に戻るのかどうかがまた、新聞紙上を賑わします。


万龍は大正6年(1917)に恒川の友人で顔馴染みでもあった建築家の岡田信一郎と再婚します。岡田静。


岡田信一郎っていう人はそもそも病弱だったそうで、万龍は看護をしたり設計事務所の手伝いに専念します。


谷崎潤一郎が評価しているように、万龍っていう人はマルチに働ける才能を持っていたんでしょうね。


ただ、万龍の夫運はあまりよろしくなかったみたいで、昭和7年(1932)結婚生活15年で岡田信一郎が病死してしまいます。
岡田静、38歳。


「子」は付いてないですね。ま、おそらく万龍本人としてはずっと静のままだったんでしょうけどね。


遠州流の茶道を教えながらひっそりとした暮らしぶりで、数多くの弟子たちに見守られながら昭和47年(1972)78歳で息を引き取っています。


気風の良さを感じさせる江戸弁だったっていう話もありますし、ある種のカッコヨサを感じさせる美人さんだったんでしょうね。


令和の今となっては万龍の名前を知っている人さえ少ないでしょうけれど、大正時代の美人さんって他にもたくさんいるですよね。


大正三美人、どころじゃないんです。
ので、大正時代の美人たち、まだ続きますです。

 

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【大正時代の美人たち】15年間しかなかった短い時代に強烈に輝いた日本の別嬪さんたち その2

< 大正時代って歴とした身分制度の真っただ中ですからね 華族の令嬢っていうのがおられたですよね >

大正三美人っていうのは、九条武子、柳原白蓮、江木欣々の3人。
はたまた九条武子、柳原白蓮、林きむ子の3人。


ってことで、なぜだか大正四美人にはしないで、大正三美人は4人いるっていうことになっている話をさせて頂いた前回からの続きですが、4人のうち言及出来ていなかったのが柳原白蓮(びゃくれん)です。


九条武子は西本願寺の次女。


江木欣々(きんきん)は初代愛媛県知事、関新平の妾腹の子。


林きむ子は狂言浄瑠璃師と初代女義太夫の子。


だったんですが、柳原白蓮っていう人は他の3人とは違って生まれが「華族」なんですね。


明治時代になって武士階級が消えて、士農工商ではなくなったとはいうものの、身分制度そのものは残ります。


「明治(めいじ)だなどと上からは言うが、治明(おさまるめい)と下からは読む」


っていう落書があったそうですから、多くの庶民たちは、ま、なにがどう変わるのか判然としない日々を暮らしていたみたいですね。


維新だと言って囃し立てる人たちがいるかと思えば、御瓦解と表現して新たな秩序に不安を感じていた人数も少なくはなかったでしょう。


明治2年から昭和22年まで、日本には「華族制度」っていう身分制度があったんですね。
きのうまでの公卿さんたち、お殿様たちが華族としての特権階級を維持していたわけです。


ちょっと脇道にそれますが、公卿さんたち、お殿様たちにもそれぞれ階級があったわけですので、同じ華族って言ってもちゃんと区別しようっていう動きがあったみたいで、明治17年に「華族令」っていうのが施行されます。


俗にいう「公侯伯子男(こうこうはくしだん)」っていうのがそれで、公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵の順に偉いんですよっていう5階級。
この5爵の名前は古代中国の官制から持ってきたみたいです。


もちろんこの公侯伯子男とは別に皇族っていうのがあるわけですけれどもね。


太平洋戦争敗戦後の1947年、昭和22年になって法の下の平等が謳われて、華族制度がようやく廃止されたっていう歴史です。


華族その他の貴族の制度は、これを認めない」


人間の平等は当たり前のこととはいえ、かなり無理矢理終わらせている感じですね。


今回注目している大正時代は華族制度のピーク、みたいな空気感があったかもしれません。


雑誌とかに華族の子女や、夫人のグラビア写真が掲載されたり、記事としてその生活ぶりが取り上げられたりして、アイドル的な存在でもあったそうです。

 

 

 


菊池寛の「真珠夫人」、映画「麗人」のモデルになった人で、最近ではNHKドラマ「花子とアン」に葉山蓮子として登場した女性。
その人こそが柳原白蓮です。


明治18年(1885)生まれで、昭和42年(1967)没。
27歳から41歳までの人生を大正時代に過ごしています。


柳原前光伯爵の妾腹の子で、名前は燁子(あきこ)。


生まれた時から波乱万丈で、生後7日目に実母の元から柳原伯爵家に正式な次女として引き取られます。


華族の娘としてしつけられながら明治27年、1894年、北小路随光子爵家の養女として柳原伯爵家を出されます。


北小路子爵の家にはこれもまた妾腹の資武(すけたけ)っていう男がいます。1878年生まれの資武は燁子の7つ年かさ。


美貌の燁子にすっかりご執心の資武は1900年って言いますから、燁子15歳の時に結婚します。っていうか結婚させる目的があって養女にしたみたいですけどね。


資武っていう男はなかなかに問題のある人だったみたいで、結婚前に燁子に迫って拒絶されると「妾の子をもらったやるんだ、生意気言うな!」って感じだったらしいです。


出生の事実を知った燁子はショックだったでしょうね。でもね、お前さんだってそうじゃないか! わざわざ言う必要ないだろ! ヤなヤツ! って思ったでしょねえ。


でもまあ結婚させられて翌年には息子をもうけています。


京都に引っ越しして親子3人の暮らしが始まるんですが、明治時代のこととはいえ新しい女中に手を出すなどしている資武を燁子はちっとも尊敬できないわけですね。


バーローッ!


息子を北小路の家に残すっていう条件で、1906年に離婚します。この年、明治39年、燁子は20歳で実家、柳原伯爵家に戻ります。
息子に対する気持ちは残っていたでしょうけれども、ふんっ、あんたなんか大キライなのよ!


当時の結婚事情なんて令和の今からは想像もできないことばっかりなんでしょうけれども、ハッキリと自分の気持ちを言える女っていうのも、ちゃんと居たんですね。オットコマエ~! です。


望むも望まないもなく、身分制度の中の、お家の事情で結婚させられた燁子ですが、いざ柳原伯爵家に戻ってみると出戻りっていうことで、本宅には住まわせてもらえず、「母」の隠居所にほぼ幽閉生活を強いられたそうです。


しっかり自分を持っていた燁子なんですけど、時代っていうのは抗いがたいものがあるんですね。
読書三昧で暮らしたそうです。


隠居所の生活の最中にも勝手に進められた縁談で結納が決まったことを知ると、燁子は隠居所を飛び出してかつての乳母を頼ろうとしますが、すでにその乳母も亡くなっていて万事休す。

 

 

 


途方に暮れているところを柳原伯爵家の姉に世話されて、兄夫婦に預けられます。


1908年、兄嫁の計らいで東洋英和女学校編入。23歳になっていた燁子は年下の学友たちと仲良く勉学に励んで幸せな学校生活を送って、1910年に無事卒業しています。
この頃から佐佐木信綱から短歌を教わっていたみたいですね。


25歳になった燁子は肩身の狭い思いで生活していたらしいんですが、華族同士の結婚で破綻しているとは言っても、ここまで柳原燁子っていう女性が特に目立った存在っていうわけじゃなかったと思われます。


東洋英和女学校を卒業した年に見合いとは知らされずに燁子は1人の男と出会うことになります。


男の名は伊藤伝右衛門
炭鉱夫からのたたき上げ、一代で巨万の富を築いた炭鉱王って呼ばれていた50歳。


当人同士の意志とは関係なく結婚の話が進んで、1911年、燁子も伊藤伝右衛門も共に2回目の結婚に踏み切ります。


大富豪の炭鉱王とはいえ、親子ほども離れている年齢、教養の差、そしてなにより身分の差があります。
華族の令嬢が売り物に出た」とか、はやされたそうです。


この辺りの事情は詳細に調べようもないところなんですが、どうもね、新聞メディアがはしゃぎ過ぎなんじゃないかっていう気もします。


伊藤伝右衛門の住居は大邸宅であるとはいえ、これまでの華族の生活とはまるで違っていて、燁子は苦労したっていうことになるんですけど、それってたぶん伊藤伝右衛門の方も同じだったんじゃないでしょうか。


学問がないとか評されているんですけど、人間としての能力、アタマの良さがなければ一代で巨万の富は築けないと思います。


ただ生活習慣がまるで違うでしょうからね、華族の妻っていう名誉が欲しかったにしても、燁子をどう扱ってイイものやら戸惑ってもいたでしょうね。


厳然とした身分制度がありながら恋愛感情なしに身分の差を跳び越える。
柳原家のほうの事情っていうのもあったんでしょうね。


「筑紫の女王」と呼ばれて世間からは羨ましがられた燁子でしたが、伊藤伝右衛門の愛は感じられず全く馴染みのない土地で孤立無援の苦しい日々を暮らしていたみたいです。


続けていた短歌を詠むことが支えになっていたのかもしれません。
竹柏会っていう同人会に入っていて短歌の機関誌に盛んに作品を発表しています。


この竹柏会には前回触れた4人いる大正三美人のうちの1人、九条武子も同人として参加しているんですね。
同人が一堂に会することはそうそうないんでしょうけれど、なんとも華やかな同人会ですよね。


「筑紫の女王」燁子は機関誌「心の花」に詠みます。


「年経ては 吾も名もなき 墓とならむ 筑紫のはての 松の木のかげに」


師の佐佐木信綱はその赤裸々さを心配したのか、燁子に雅号を使うように勧めたそうです。
燁子は信仰していた日蓮にちなんで「白蓮」を雅号にしました。

 

 

っていうヘーワな説もありますが、伊藤伝右衛門との生活は泥の中で生きているようなものだけれど、自分は白い蓮のように決して濁らないっていう意味だっていう説もあります。


ある意味では有名になり過ぎた別嬪さん、柳原白蓮ですから後付でいろいろ尾ひれがついて回るのも致し方のないことなんでしょうね。


大正4年、1915年、柳原白蓮は処女歌集「踏絵」を自費出版します。


出版費用は当然のことながら伊藤伝右衛門の払いなんだろうと思います。華族の妻にやりたいようにやらせてやろうっていう気持ちがあったんでしょうね。


「踏絵もて ためさるる日の 来しごとも 歌反故いだき 立てる火の前」


柳原白蓮が嫌ったのは伊藤伝右衛門ではなく、筑紫でもなく、融通の利かない大正っていう時代だったのかもしれません。


自費出版とはいえ歌集「踏絵」は豪華本で、挿絵は竹久夢二、序文は佐佐木信綱です。


「白蓮は藤原氏の娘なり「王政ふたたびかへりて十八」の秋、ひむがしの都に生れ、今は遠く筑紫の果てにあり」


なんだか大時代、オオゴト過ぎる感じもします。でもまあ、そういう時代なんですね。


1917年、福岡鉱務署長、野田勇に絡んだ筑豊疑獄事件が起こります。
野田夫人の友人だった柳原白蓮は贈賄側の証人として出廷します。


筑紫の女王が公の場に姿を現したことで、ちょっとしたパニック。新聞が「筑紫の女王燁子」っていう連載記事を載せて大きな反響を呼んだそうです。


こうなると筑紫の女王っていう名前が一般に知れ渡り、7年前の不釣り合いな結婚の当人だということ、白蓮っていう名前で歌集を出していることが世間に知れ渡って、なにせ評判の美人さんですからね、「踏絵」はおおいに売れたそうです。


1919年、柳原白蓮は戯曲「指鬘外道(しまんげどう)」を雑誌「解放」に発表します。
戯曲まで書いちゃうんですから、多才ですね。


「指鬘外道」は評判をとって、一冊の本にすることになります。


柳原白蓮の「指鬘外道」は「アングリマーラ」っていう仏教経典にならったもので、師の妻に誘惑された弟子が、拒絶したことを逆恨みされて、師の妻の策略によって100人の人間を殺して、その指で首輪を作るっていう薄気味の悪い猟奇的な内容。最後には釈迦に救われる罪人救済物語だそうです。


そういう物語が評判を呼ぶっていうのも理解できかねるところがありますけれど、そういう物語を書く動機が柳原白蓮にあったっていうことが、筑紫の女王の心の闇を表しているんでしょうかね。


出版するにあたって「解放」の主筆、編集者だった宮崎龍介と出会うことになります。


1920年柳原白蓮34歳、宮崎龍介27歳。
急激な恋愛感情ではなく、手紙のやりとりを通して徐々に盛り上がった恋愛だったみたいです。


1921年宮崎龍介柳原白蓮との関係を、ブルジョア夫人との恋愛遊戯として非難され「解放」の編集を解任されます。
このことは柳原白蓮の恋心の火を大きくしたみたいなんですね。


さらには、同じ年、雑誌の対談で同人仲間の九条武子と初めての対談をしているようなんですが、2人とも秘めた恋人がいるってうことですっかり意気投合したっていう話もあります。


柳原白蓮はもちろんのこと、九条武子の方も噂にはなっていたようですので、ちっとも「秘めた」恋人じゃなかったのかもですけど、前回九条武子の恋人について触れたとき、そんな説が、って言いましたけれど、なんかこの柳原白蓮との対談でウラがとれたってことになるんでしょうか。


大正三美人、恐るべし!


柳原白蓮はどうやらこの年、宮崎龍介の子を妊娠したようで、伊藤伝右衛門の家を出る覚悟を決めます。


大正10年。身分制度、男尊女卑の世の中で「姦通罪」が存在していた時代です。


伝統的に姦通の罪は両者死罪なんていう厳しい時代が続いたみたいですが、大正年間の刑法第183条では「夫のある女子が姦通したときは2年以下の懲役に処す。その女子と相姦した者も同じ刑に処する」だったんですね。


1947年の改定によって刑事罰としての姦通罪は廃止されていますけどね。


罪を逃れるための工夫だったのか、新聞社によって仕組まれたイベントだったのか、柳原白蓮伊藤伝右衛門家からの脱走が、世に言う「白蓮事件」です。


この白蓮事件によって柳原白蓮の名前を耳にしている人も少なくないでしょうね。


柳原白蓮はただ単純に駆け落ちをしたんじゃなくって、伊藤伝右衛門に対する絶縁状を新聞に公開したんですね。
これが白蓮事件のコアでしょう。


突然駆け落ちした妻から絶縁状を公開された伊藤伝右衛門が反論文を新聞に連載するなどしたため、一大スキャンダルになったんですね。


※ ※ ※ ※
私は今あなたの妻として最後の手紙を差し上げます。


この手紙を差し上げるということは、あなたにとっては突然のことであるかもしれませんが。私にとっては当然の結果に外ならないのでございます。


あなたと私との結婚当初から今日迄を回顧して、私は今最善の理性と勇気との命ずる所に従ってこの道を取るに至ったのでございます。


ご承知の通り結婚当初からあなたと私との間には、全く愛と理解とを欠いていました。
(後略)
十月 二十一日
伊藤伝右衛門
※ ※ ※ ※


まったく取り乱している様子もなくって、理路整然とした絶縁状です。
ただですね、詠んだタイミングはいつなのか分かりませんが、歌ではこんなのを遺しています。


「女とは いとしがられて 憎まれて 妬まれてこそ かひもあるらし」


「いくたりの 浮れ男の 胆を取る 魔女ともならむ 美しさあれ」


「ゆくにあらず 帰るにあらず 居るにあらで 生けるかこの身 死せるかこの身」


絶縁状の新聞紙上公開に対して伊藤伝右衛門は、新聞記者のインタビューに応えるっていう形で反論したっていうことなんですけど、伊藤伝右衛門自身に自分の想いを新聞に発表して、反論したいっていう気持ちがあったのかどうか、ちょっと分かりませんね。


ここでも新聞がはしゃぎすぎているような印象を受けます。


※ ※ ※ ※
お前が送った絶縁状は俺の手元に届いていないが新聞で見る限り、随分なことを書いたものだ。


妻が夫へ絶縁状を叩きつけるということも前代未聞だが、それが本人に届く前に新聞に掲載されるとは……こんなことがあるのか。


新聞の絶縁状を見た時は、かなり憤慨したが平静を取り戻した今、伊藤家を見回してみるとお前という、いわば異分子がいなくなったことで実に円満に皆が過ごせていることに気付く。


俺自身も心が休まる感覚を感じている。
俺の一生の中で最も苦しかった10年はもう終わった。


これからは、生まれ変わったつもりで全てを立て直そう。
(後略)
※ ※ ※ ※


インタビュー結果を新聞記者がまとめたものでしょうから、伊藤伝右衛門自らの言葉ではないんでしょうけれど、こちらも実に冷静です。


反論文とされる記事の最初に、柳原白蓮の絶縁状が届く前に、新聞紙上に掲載されたっていう文言があります。


柳原白蓮宮崎龍介の2人に姦通罪を適用させる方向に記事を書かないことを条件に、絶縁状の文章を新聞記者に公開した、そういうバーターがあったっていう説がありますけど、そうなんでしょうね。


プライベートなままの絶縁状が伊藤伝右衛門のもとに届けば、白蓮事件も全く違った方向に向かったかもしれません。

 

 

 


白蓮事件から2年。1923年、大正12年、東京は関東大震災に揺さぶられます。


この災害をきっかけに柳原白蓮は生まれていた息子とともに宮崎燁子となっています。


弁護士になっていた宮崎龍介結核に倒れて働けなくなると、一家の生活は柳原白蓮が稼ぎ出すしかありません。


柳原白蓮はこれまでの人生で経験したことのない貧困生活を経験することになります。
歌集、小説、講演活動、やれることはなんでもやって筆1本で家計を支えて、1925年には長女を授かっています。


「幾億の 生命の末に 生れたる二つの心 そと並びけり」


その後、吉原遊郭から脱走した花魁をかくまって、自由廃業の手助けをしたり、没落華族子弟の進学に協力したり、なかなかの社会活動に精を出しているんですね。
北小路家に置いてきた息子の世話もみています。


女性の地位向上を目指した活動に励みながら気持ち的には充実していた時期だったのかもしれません。


そんな生活の中、宮崎との間に出来た息子が学徒動員で太平洋戦争に駆り出されて、戦死してしまいます。


「英霊の 生きてかへるが ありといふ 子の骨壺よ 振れば音する」


戦後は徐々に視力を失いつつあったものの、夫、龍介と娘夫婦に見守られて穏やかな晩年を過ごしたそうです。
81年の人生。柳原白蓮自身はどういう気持ちで振り返っていたでしょうか。


何かの雑誌で、柳原白蓮、晩年の写真を見たことがあります。白髪頭に丸メガネをかけたカッコイイおばあさん。
1967年、昭和42年、心臓の衰弱によって永眠。


「誰か似る 鳴けようたへと あやさるる 緋房の籠の 美しき鳥」


実は4人いるっていう大正三美人をザっと追ってみたんですけど、女性に参政権のなかった大正時代を鮮やかに駆け抜けた美人さんたちって、もっともっと、たくさんいるですよね。


「美人伝」を書いた長谷川時雨っていう人こそ美人だったらしいですし。


ってことで、次回は大正三美人として取り上げられた4人以外の大正美人を。

 

 

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【大正時代の美人たち】15年間しかなかった短い時代に強烈に輝いた日本の別嬪さんたち その1

< 文明開化の中で育った明治生まれの女たちは みなさんそれぞれ なかなかに男前です! >

いつもの小さな焼酎バーのカウンター。めずらしく女性客が1人もいなくてオヤジ5人でした。


ま、女性客がいようがいまいが、居酒屋トークのネタにさして変わりはないんですけど、マスターがまずこんなことで話題を振って来ました。


「エーイチとシバサブローは何枚か入って来たんだけど、ウメちゃんはまだ見ないんでよね。どう? もうお目にかかった?」


2024年7月3日に新紙幣の流通が始まりましたからね、それから3週間ばかり経ったころです。


「おれはあれだ、シバサブローだけだな。エーイチもウメちゃんもまだ会ってない」


「おれもウメちゃんは見てないな」


1万円札、5千円札、千円札が同じボリュームで同じ時期に出回るものなのか分かりませんが、ウメちゃんに会ったことのあるオヤジはその場に1人もいなかったんであります。


だからなに? ってことなんですけどね、女性客がいないタイミングだったもんで、話の内容が妙な方向にズレていきます。


「ウメちゃんってさ、美人だったからお札の顔になったの?」


「んなことないでしょ、美人かどうかでお札に選んでんの? それ、ハラスメントになるよ。なにハラか分かんないけど」


「ウメちゃんって、津田塾大学を始めた人なんだよね」


「そうそう、ネットに載ってた。今の5千円札の樋口一葉っていう人は作家さんだよね」


「どっちも明治の人なのかな?」


「ん~。そうなんじゃないかなあ」


樋口一葉の方が美人な気がする」


「あのね、なんでお札の顔が美人かどうかにこだわってんの?」


「いや、こだわってるわけじゃないんだけどさ。こないだ話したじゃん、世界三大美人に小野小町が入ってるのって日本だからじゃないのって。あれ以来、なんだか美人の定義? みたいなのって時代と地域によって違うんだろうなあって思ってるんだよね」


「世界三大美人ってさあ、美人にダイを付けてまとめちゃうのって、どうなんだろね」


「三大なんとかっていっぱいあるから、その流れでダイって言っちゃってんだろうね。美人に大も小もないだろうにさ」


「明和三美人っていう浮世絵があるね。あれはダイが付いてない」


「明和っていつ?」


「さあねえ。江戸時代だろうけど」


「美人なの? その明和の三人」


「浮世絵だよ。みんな同じ顔にしか見えない。昔の人っていうか江戸時代の人たちって、あれで区別出来てたのか、不思議なんだけどね」


「いや、そもそも美人っていうのってね……」

 

 

 


と、ドアベルがカラカラ~ンって鳴って、


「2人で~す。空いてますかあ~?」


と、女性の声。


で、美人談義は中途で終わったんでありますが、前回に繰り広げられたという世界三大美人の話題の時は加わっておりませんでしたので、今回はその辺から調べてみました。


でもなんで女性の前では美人談義をしないのか。よく分かりませんけど、ま、普通、しないですね。
政治と宗教の話、そして女性の美醜の話。しないです。


全くしないってわけじゃなくって、盛んに大声張り上げてそういう話題をしている人も、たまには、いますけどね。


さて、こういうブログなんかではあんまり気遣いなくできる、だろうところの、美人の話です。


確かにですね、世界三大美人って普通に言ってますけど、美人っていうカテゴリに「大」が付くのって妙なことではありますよね。
世界三美人でイイんじゃないかと。。。


小野小町については、日本で言われる世界三美人だからであって、諸外国だとそうは言わない。
だいいち小野小町を知ってるわけがないですね。


日本でいう世界三美人は、小野小町クレオパトラ7世、楊貴妃の3人ってことになってます。


そんでもってヨーロッパでは当然のことながら小野小町じゃなくって、地上で最も美しい絶世の美女、ギリシャ神話のヘレネだそうです。


うんにゃ、違いまっせっていう説もあって、そもそも世界三大っていうカテゴライズからして日本固有のものでしかありませんよ。諸外国で三大美人とか、そんなキケンなことは言わない。


そういう意味では日本のオヤジたち、アホでしょ!
ははあ~んなるほど、そういうものかもですねえ。っとあっさり納得。


美人とされる人達の時代がそもそも比較対象として無理がありそうですし、ヘレネって神話ですもんね。


世界三大、なんていうことを並べて喜んでいるのは日本独特のこと、なのかもです。


その日本の中で「三美人」なんてのを言い出したのは、どうやら江戸時代の出版屋みたいですね。当時のグラビアアイドルってことなんでしょねえ。商売です。


江戸時代の明和期(1764~1772)、将軍は徳川家治。この明和の三美人っていうのが、鍵屋お仙、本柳屋お藤、蔦屋およし、なんだそうです。


この明和の三美人には明確な順位があるそうで、ダントツの1位は鍵屋お仙。


江戸は谷中の笠森稲荷。その門前にあった水茶屋「鍵屋」の看板娘。笠森お仙っていう名前でも知られていたみたいです。


誕生没年も割合ハッキリしていて、笠森お仙は生まれが1751年で、死没が1827年
76歳でお隠れになったようですが、いくつまで看板娘を務めていたんでしょう。


水茶屋っていうのは今でいう喫茶店みたいなもので、アルコールを提供するような店じゃなかったらしいんですが、看板娘を置くことが定番になっていて、その看板娘に会うために、っていうか一目見るために男どもが集まったんだそうです。


ま、昔から商売っていうのはそういうもんなんですねえ。

 

左側の人が 笠森お仙 でしょねえ


で、第2位が浅草の楊枝屋「柳屋」で働く柳屋お藤。


楊枝屋ですか? って思っちゃいますけど、黒文字とかそういう高級なヤツなんでしょう。


江戸時代の柳屋では楊枝の他に、お歯黒に使う「五倍子(ごばいし・ふし)」、酒に浮かべると花や鳥の姿にふくらむっていう「酒中花」とかも扱っていたらしいです。


そういえばお歯黒って今ではすっかり忘れられていて、江戸の時代劇なんかでもさっぱり出てきませんね。怖いですしね。なくってイイですけど。


お歯黒も含めて、江戸時代っていろいろな細工物、不思議な品物を商っているんですよねえ。


そんでもって第3位が、やっぱり浅草の二十軒茶屋「蔦屋」の看板娘「蔦屋およし」


二十軒茶屋っていうのは、浅草寺、雷門を入って真っ直ぐ、仲見世を抜けてすぐから当時の仁王門、現在の宝蔵門辺りまで二十軒の茶屋が並んでいたのをそう呼んだらしいです。


その二十軒並んだ中の蔦屋の看板娘が明和三美人の第3位、およし。


これが三美人の始まりかどうかはわかりませんが、記録に遺っている確かなところでの最古が明和の三美人だとして、三人とも看板娘。商品を売らんがためのサービスニッコリ、だったんでしょねえ。


まあ、ニッコリしないところがミリキです、なんてこともあったのかもですけど。

 

 

 


江戸時代の年号、明和を過ぎて安永、天明ときて、次が寛政(1789~1801)です。将軍は徳川家斉
寛政の三美人っていうのも知られています。


安永、天明期に美人はいなかったのかっていうと、まさかそんなことはないんでしょうけれど、難波屋おきた、高島屋おひさ、富本豊雛(とみもととよひな)が寛政の三美人。


寛政の三美人には順位付けみたいなものはなさそうです。


難波屋おきたは浅草寺地域にあった茶屋の看板娘ってことなんですけど、二十軒茶じゃなくって浅草地域のっていうふうに記録されているみたいですから、違う店なんでしょうね。でも茶屋です。


高島屋おひさっていうのは両国の水茶屋の看板娘で、煎餅屋高島屋の長女。


高島屋さんの多角経営なんでしょうね、本店の煎餅屋っていうのがどこにあったのかは不明。でもまあ、近くでやってたんでしょうね。


親の目の届かない所に娘を働きに行かせたりしないでしょ。ましてや三美人にピックアップアされるような別嬪さんです。


富本豊雛っていう人は、浄瑠璃、富本派の名取で浅草の芸者さん。


看板娘じゃない美人さんが初めて登場しているのが寛政の三美人。


でもまあ、なんにしても直接、自分の商売のために自分の美貌を役立てようとしたところと、それを版画に仕立てて売り出した版元の思惑が一致しての「三美人」なんですねえ。


明和期が8年間。寛政期が12年間。
そういうスパンだからこそ〇〇の三美人っていう言い方が成立するんでしょうね。


明和三美人のトップ、笠森お仙は明和期を13歳から21歳までで暮らしています。めっちゃ若いです。


寛政は1801年に享和になりますが、それから63年、1864年、元治元年に津田梅子、ウメちゃんが誕生しています。なんとウメちゃんとか気安く呼んでおりましたが江戸時代の生まれだったんですねえ。


ウメちゃんの先代の5千円札、樋口一葉は1872年、明治5年の生まれだそうですからウメちゃんの8つ下。


1929年、昭和4年に没する津田梅子に対して樋口一葉は1896年、明治29年に24歳で亡くなっています。


1894年12月から1896年2月までが「奇跡の14か月」って呼ばれる11もの名作を書いた期間ですね。


樋口一葉が亡くなってから16年、日本は大正時代に入ります。
1912年7月30日から1926年12月25日までの14年半が大正時代。


昭和っていう長い時代を経験している、あるいは知っている世代からしますと、大正時代っていかにも短いですね。


この短い大正時代って、日本女性がなんだかカッチョイイんです。


大正三美人っていう取り上げられ方もしていて、それは、九条武子、柳原白蓮、江木欣々の3人。


いやいや、それは違いますよ。大正三美人っていえば、九条武子、柳原白蓮、林きむ子の3人です。


意見が分かれているみたいなんです。


なんかね、だったら大正四美人でイイじゃんっていうふうにも思いますけど、ヨンビジン、シビジンじゃ語呂的に良くないですかね。


どっちにも入っている九条武子、柳原白蓮(びゃくれん)っていう2人の美貌は相当なレベルなんでしょうね。


九条武子は明治20年(1887)生まれで、昭和3年(1928)没。


西本願寺の次女として生まれて、1909年、22歳の時に九条良致男爵と結婚しています。
大正時代は25歳から39歳ですね。
美貌、絶頂期でしょかねえ。才色兼備の歌人として有名だったそうです。


西本願寺仏教婦人会連合本部に所属していた九条武子は、1910年、明治43年に京都高等女学校の創立に尽力した教育者でもあったそうです。現在の京都女子大学


津田梅子が津田塾大学の前身である「女子英学塾」を開校したのが1900年、明治33年のことですから、明治時代の終わりにかけて日本の女子教育熱っていうのが盛り上がっていたんでしょうね。


九条武子のこだわりは建学の精神にあって、津田梅子の女子英学塾にみるようにキリスト教の精神に倣うのではなく、仏教精神によって立つことが肝心。そこにこだわった。


「家政及び国漢文、歴史、外国語等教科を設くる所以、教育設備の、女子に薄くせざるの意を拡充し、勉めて常識の発達、趣味の養成、徳性の涵養を図り、女子の職分を尽くさしめて、国体の精華を発揮せんと欲するに在り」


ってことなんですねえ。1910年、この時、九条武子、23歳。
なんか凄いなあって思います。


海外遊学とかで夫と離れた生活をしていた時期もあったそうですが、聖女として一生を過ごしたとされています。


いや、実は幼馴染の恋人がいたっていう説もあるにはあるんですけどね。
その辺りをツッコむのは大きなお世話ってもんでしょねえ。


江木欣々(きんきん)、本名、江木栄子は明治10年(1877)生まれで、昭和5年(1930年)没。


初代愛媛県知事、関新平の妾腹の子で、養女に出されて後、新橋で半玉、芸者さんの見習いをしていたそうです。


16歳の時、九州の有吉立愛男爵に落籍されて正妻になったものの、1年後に男爵が死去。


花柳界に戻って神田明神下、あるいは新橋の芸者になると、その美貌で大人気。


弁護士たちの宴会に呼ばれた席で、昔の顔馴染みでもあった江木衷(えぎまこと)と出会ってすぐ結婚。


欣々は文芸、音曲、なんでも器用にこなして社交界の人気者になって、避暑地軽井沢での乗馬姿は土地の名物として知られたほどだったっていいます。
姿も美しかったんでしょうねえ。


夫婦仲も良かったんでしょうけれども、大正14年、1925年に江木衷が死去すると、5年後、首を吊って自死してしまったんですね。53歳。


大正時代は35歳から49歳。
女式柔術、十剣大神流の免許皆伝でもあったそうです。


柔術? って思いますけど、明治時代に女子柔道のブームっていうのがあったそうですからね、その流れなんでしょうね。

 

 

 


林きむ子、本名、林きん。明治17年(1884)生まれで、昭和42年(1967)没。


82歳というこの時代にあっては長生きした方だと思いますが、大正時代は28歳から42歳。


狂言浄瑠璃の祖といわれる男を父に、初代女義太夫を母に、柳橋に生まれているんですね。


7歳で新橋の料亭「浜の家」の養女になると、9歳で藤間流、11歳で西川流の日本舞踊を身につけて、三味線、生け花、茶道、ありとあらゆる芸事をものしたっていう才女。上流階級の集まる料亭での人気は知らぬ者のないほどだったみたいです。


17歳の時、代議士でクリスチャンの日向輝武と結婚。


1905年には赤坂から田端に、購入した3000坪の「田端御殿」に引っ越しして、何不自由ない暮らしぶりだったようです。


ところが1914年、第2次大隈内閣の時、閣僚と衆議院議員の間の贈収賄疑獄「大浦事件」に巻き込まれる形で日向輝武が逮捕、収監され、1918年、獄中で精神錯乱になってしまってそのまま没したそうです。


林きむ子30歳の時のことですが、「田端御殿」を売却したきむ子は芸者に戻ることはなく、実業家として化粧水「オーロラ」を開発して、本郷に「瓢々堂」っていう化粧品店を開店しています。


きむ子の美貌こそが最大の宣伝効果を上げたんでしょうね。かなりの評判だったそうです。


その「オーロラ」の研究開発を手伝っていたのが薬剤師、林柳波。
1892年生まれの林柳波はきむ子より9つ年下。


大正8年、1919年、日向輝武の死から1年も経たないうちに、6人の子どもを抱えたまま、きむ子は林柳波との結婚に踏み切ります。


美人で御殿暮らしをしていたのに、旦那さんをあんな形で亡くしてしまってお気の毒に、っていう世間の同情は、この結婚によって一気に悪感情にかわってしまって、当時のスキャンダルになったそうです。


でもまあ、大正時代を力強く華々しく生きる女、林きむ子本人にしてみれば、

 

「へんっ、なに言ってやがんだい!」

 

くらいな感じだったかもですねえ。


地に足のついた人だったように思えます。


大正13年1924年には西川流の名を返上して児童舞踊や創作舞踊を中心とした林流を創始して、多くの作品を発表しています。
八面六臂。


1966年に勲五等瑞宝章受章を受賞しています。


しかしまあ、大正時代を強く生き抜いた美人たちは、実になんともパワフルですね。


フェミニズムとかそっちの方向に力強いんじゃなくって、世間と闘う個人としての姿勢がカッコイイ!


調べてみるまでは聞いたことのない女性たちでしたけれど、大正三美人のうち残る1人、柳原白蓮っていう名前、これはなぜだか知っています。っていうか聞いたことありますねえ。


ナニモノだったんでしょう。


っていうわけで、話は柳原白蓮に移っていくんですが、長くなりましたので、次回へ回させていただきます。


次回もまたよろしくお頼み申しますう。

 

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【身体をめぐる水】水を飲んでも太る体質を宣言している人もいますけど それはねえ

< 水循環基本法っていうので 8月1日は水の日 そこから1週間は水の週間 なんであります >

内閣官房水循環政策本部事務局によって2014年から制定されている「水循環基本法」

 

知ってました? 水の日っていうのがあるなんて個人的には聞いたことなかったです。
法定化されてはいなかったものの、水の日自体は1977年からあったんだそうです。8月1日。


2021年からはポケットモンスターの「シャワーズ」っていうキャラクターが「水の日応援大使」を務めているんだそうですよ。

 

 

シャワーズの全身のひれが震えると、数時間後に雨がふる前兆」だそうで、ふううん、です。
ポケモン、知らんですう。


生活環境の中で「健全な水循環の重要性」について、みんなに関心を持ってもらって、ちゃんと理解してもらいたいっていう気持ちから制定されたのが「水の日」なんだそうで、制度としてまともな感じがしますけどね。


子どもの頃から、水に関心を持って、水を大事に思って欲しい、ってことで、シャワーズなんでしょうね。
シャワーズっていうキャラクター、令和現在の人口のバランスとして知っている人の方が多いんでしょうかね。

 

 

 


ま、日本国内ばっかりじゃなくって地球環境の水循環を正しく守っていくことは、とっても重要なことだと思います。
近い将来に、地球規模での飲料水不足が予想されてもいますしね。


それをマクロな水問題としてとらえると、ミクロな水問題っていうのが人間の身体の中の水循環。


こっちもね、なんだか緊急問題のような気がしますよ。人間の身体の中の、水。その役割。


梅雨が明けないうちから40度を記録する地域が出てきたり、これまで高温になるっていう認識がない地域が最高気温を記録したりしている2024年の日本です。


最近の温暖化のニュースなんかでは「地表温度」なんてことをよく言ってます。
それとアスファルトの照り返し、とかいう言い方もしています。


メディアのリポーターさんたちがそうした言葉を遠慮がちに言っているのは、オカミである気象庁の発表している気温とはまるで違うからですね。


東京ですと北の丸公園の百葉箱の中の温度が東京の気温ってことになるみたいですが、北の丸公園って林みたいな環境がけっこうな面積で広がっているですよ。その中の木陰の百葉箱の中の気温。


どう考えたって、太陽光を反射しているオフィスビルに囲まれた、カンカン照りのアスファルトの交差点と同じはずがないです。


しかも交差点を通り過ぎていく車は車内を冷やすために熱変換した熱い排気を撒き散らしているわけですし。


体温超えなんて今さらながらに言ってますけど、街なかの気温はとっくにそうなっていたんじゃないでしょうかね。


都市計画、熱中症対策としては完全に失敗しているってことになるんじゃないでしょうか。
そもそも気温を考慮した計画そのものがあったのかどうか、怪しいですけど。


人類にとって実害がでていることが問題です。そです、熱中症


令和に入ってからの東京で、熱中症で救急搬送された人の数は27,969人だそうです。


メディアでは盛んに熱中症注意の呼びかけをやってますよね。
クーリングシェルターの運用も各自治体のホームページで案内されています。


みなさんも自分の地域のクーリングシェルター運用情報ページを毎年、逐次確認しておくのがイイと思います。


外出の際の緊急避難場所を知っておいて、自分のことだけじゃなくって、知り合いのジサマバサマとか、親御さんとかにね、教えてあげるとイイんじゃないでしょうか。


ドラッグストアとかコンビニとかも緊急退避場所として認識しておいた方がイイと思いますです。


熱中症の予防には各個人の暑さの自覚と小まめな水の補給。これしかないみたいです。


「暑熱順化」っていう言葉も少しずつ浸透してきていると思いますが、どういう生活行動の実践が暑熱順化っていえるのか、誰にでも理解できる規準って、実はナイっていうのが実情なのかもしれないって思うんですよね。


アナウンスしている人によって内容がけっこう違ってますもん。
身体が暑さに慣れるのを待つだけ、みたいなことを言っている人さえいます。

 

 

 


なんで具体的にその方法を示せないのかっていうと、身体の中の水の循環、その仕組みがしっかりと解明されているわけじゃないからあ~。みたいですよ。


もちろん昔から研究している人はいるんでしょうけどね。


地球温暖化によって、身体の中の水循環を精確に理解することが生命を護る重要なファクターだっていうことになって、その環境的要求に体内の水循環の仕組みの研究が追いついてないのが現状。


身体の中をめぐる水。


人の身体の重さの60%から65%は水だっていうのは誰でも一度は聞いたことがあると思います。
人は半分以上が水。だから水は大事なんだよお、ってことを言われますね。


でもこれ、ちょっと調べてみますとね、60%から65%が水だっていうのは成人の個体、オトナの場合なんですって。


お腹の中にいる胎児の段階では体重の90%が水。


で、新生児としてこの世に誕生してくると75%。


だんだん育ってきて子ども時代は70%。


オトナになって壮年ぐらいまでは60%から65%。


老年になってくると50%から55%。


要は年齢を経るにしたがってだんだん身体の中の水は減って行くんですね。まさに、だんだん枯れていくって感じです。
ふむ。なんか悲しい。。。人はだれしもだんだん枯れていくんですねえ。


でも体重の半分以上は、水。


で、男と女では男の方が身体の中の水分量が多い。つまり男の方が水っぽい!


さらにですね、意外なことにはデ~ブよりヤセッポの方が水っぽいんだそうですよ。


ま、体形がどうであろうと水分量にそんなに大差はないんでしょうけどね。


なんにしても、一般の成人として、体重が70キロなら42リットル、50キロなら30リットルぐらいの水が体の中をめぐっているってことなんですね。


42リットルってなかなかの量ですよね。2、3泊ぐらいのキャンプ用リュックの大きさぐらい。


この意外に大量で、大切な身体の中の水の循環って、21世紀現在、完全には解明されていないんだそうです。


だいたいのところはつかんでいるんだけれど、ハッキリとはしていない。


AIがどうの、シンギュラリティがどうのって言っているコンピュータ社会なんですけど、人類、体内の水の循環、理解できていない。そういう段階みたいです。


ちょっと前まで、口から飲んだ水は大腸で吸収されて体液になります、って物の本では説明されていたみたいなんですけど、今解っていることとしては、水は大腸でも吸収されているけれど、ほとんどは小腸で吸収されるってこと。


はい、研究は進んでいて、徐々に解明されて来ている。っていう理解でイイんじゃないでしょうか。


ま、生きている人の身体の中の様子って、そんなに簡単に調べられませんもんね。


身体の中に摂りこまれた水っていうのは「細胞内液」と「細胞外液」に分けられるんだそうです。


「細胞内液」と「細胞外液」の合計が、摂りこんだ水の100%になるわけじゃないみたいですけど、ザクッとそういう区分けが出来る。


ね、キッチリとは解明されていないってこういうことなんでしょうね。


バランスとしては細胞内液が3分の2、細胞外液が3分の1。


身体の中を循環している血液は細胞外液に区分されますね。その他にリンパ液、細胞間液が細胞外液。


血液は身体中の隅々まで各種の栄養分、ホルモン、酸素を送り届けて、老廃物、過剰物質を運び出して腎臓に送り届ける。


運んでいる物をどこでどう交換しているんでしょう。


腎臓の機能で廃棄するべき水が尿として分別されて、まだ活躍できる水は身体に戻される。
ザックリとこういう流れだっていうのは聞いたことがあります。


身体の外に出される水は尿だけじゃなくって、汗、便、呼気、涙、平均して1日に2.5リットルぐらいの水が身体の外に排出されるんだそうです。


運動していっぱい汗をかくと尿の量は減る。ちっとも汗をかく生活じゃなければ尿の量は増える。


そういうコントロールを腎臓がしているんだそうです。身体の中に必要な水量を管理しているってことですね。


身体の中の水がどういう状態なのかを腎臓に伝えるてくれるのは誰なんでしょ?


腸は第2の脳、とか言いますけど、内蔵全体にも脳の役割りがあるのかもですよねえ。
そういうネットワーク脳がなければ生命活動が成り立たない、ように思いますねえ。知らんけど。

 

 

 


身体中をめぐって来た血液を渡されると、腎臓は血液から血球を取り除いて液体成分だけにする。


その中から純粋な水、糖だとか、その個人の身体が必要としてる成分だけを血液に戻して、いらなくなったものを尿として送り出す。


凄いことをやってくれている臓器なんですね、腎臓って。


で、必要な水をまた血管に戻すって、どうやってやってんの?


っていうあたりも、よく分からなかったんだそうなんです。ずっとね。


細胞の水の出入りを研究していると、特に水の透過性が高い細胞の存在が確認された。
1992年になってアメリカのピーター・アグレ医学博士が水分子のみを選択的に通過させるタンパク質、最初の「アクアポリン」を発見。


アグレ博士はこの発見によって2003年にノーベル化学賞を受賞しています。


最初の発見から研究はどんどん進められていて、2024年時点で13種類のアクアポリンが発見されていて、さらにもっとあるかもしれないってされています。
そういう段階。


身体の中に均一に存在しているわけじゃなさそうなんですけど、どこにでもあるのがアクアポリン。


1秒間に20億個の水分子を出入りさせているんだそうです。自動的にね。
人間の身体って、やっぱり不思議ですよねえ。


身体の中をめぐっている生命の水。その循環の仕組みを解明する端緒についたっていう段階みたいです。


研究者が頭を悩ませているようなタンパク質の働きだとかを、素人に分かるように説明してくれる人が、ま、近いうちに出てきてくれることを期待します。


ところで、居酒屋トークレベルの話で、特に女性からですけど、よく聞くのが、


「あたしねえ、水を飲んだだけでも太っちゃう体質なのよねえ」


っていうお決まりのセリフです。


これってホントにあるような、ないような感じなんですけど、アクアポリンの研究が進んでいくと、キッカリした説明がなされる、でしょねえ。


俗にいう「水太り」っていうのは、水を飲んで太るっていうことじゃなくって、細胞レベルの代謝が悪くって、水の排出がうまくいっていない状態のことをいうんだそうです。


「水中毒」っていうのも聞きますけど、1日に10リットル以上もの水を飲んでしまう「多飲症」にでもならない限り、中毒とは言わないみたいです。


暑い時期に尿が少ないなあって思ったら水を補給する。今は補水液とかもありますよね。


身体の中の水の流れをコントロールしているアクアポリン。
近いうちに詳細情報が発表されることを期待しておりますです。


その時はまた、いろいろ探ってみようと思います。


熱中症はホント、気を付けてお過ごしくださいねえ。気温もそうですけど、湿度ね。水も飲んでね。
身体に摂り入れる水の種類にも気を遣いたいところです。


でも、なんだって、だんだん減っていくんでしょう。水。

 

 

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