< 明治生まれの美人さんたちが活力あふれる大正時代を生き抜いていくですねえ >
日本一の美人って言われた「万龍」を「桃のつぼみのようだった春本万龍」って「美人伝」で表現した長谷川時雨っていう作家さん。
この人がそもそも美人さんで有名だったらしいんですね。
長谷川時雨、本名、長谷川ヤスは明治12年、1879年、日本橋に生まれて、昭和16年、1941年に亡くなっています。
この人の名前も最近ではほとんど聞くことがないように思いますが、明治から昭和にかけての人気作家、劇作家。女性運動家としても知られています。
明治初期の日本人家族ってなかなかに面白いところがあるんですが、長谷川時雨のお父さんは日本初の免許代言人っていう今の弁護士のような仕事だったらしいです。明治初期の有力者。幕府の役職にでも就いていた人だったんでしょうか。
面白いのは母親の多喜っていう人で、御家人の娘だったそうなんですね。
一応、幕府方の武士階級ではあっても将軍のお目にはかかれないっていう下層階級、御家人。
新しい世の中になって、大きな変化にさらされるのか、それとも雇い主が代わるだけのことなのか、薩長勢力とはなにものなのか、もっとも神経質にならざるを得なかったのが御家人だったかもですね。
そんな御家人の家で育った多喜は、女に学問は必要ないっていうのが持論。そう言われて育ってきたんでしょうね。
長谷川ヤスはそんな母親の目を盗んで、読書に耽っていたんだそうです。
女に学問は、とか言いながら家の中に本があるってことで、父親の蔵書だけとは思えず、実は多喜は文化素養に富んだ女性だったのかもしれません。
女に学問はっていう言動は、世間に敵を作らないための方便で、女も賞を持って新しい時代に供えるべきっていうような、ダブルでもトリプルでもスタンダードを持っていたような文明開化人。それが多喜。
女に学問は、っていう表現は夫も含めて世間の男に対するカモフラージュ。
ってまあ、考え過ぎかもですけどね。
何にせよ長谷川ヤスは、17歳の頃から佐佐木信綱の竹柏園に通って古典を学んだっていいますから、佐佐木信綱の下で短歌を学んでいた柳原白蓮たちとも顔見知りだったんでしょうね。
柳原白蓮は長谷川時雨の6つ年下です。
古典を学び始めてすぐの明治30年、1897年に父親の命令で成金の鉄問屋、水橋家の次男と結婚させられます。
なんでしょうね、お金に紐づけようとする目的でもあったんでしょうか。
18歳のヤスは凄く嫌がったそうです。
結婚相手のこの次男坊、実家から勘当された状態で、根っからの遊び人。ショーモナイヤツ、だったみたいです。
水橋康子となっていたヤスは製鉄所のあった岩手県の釜石に住むことになったんですが、夫は東京へ遊びに出て行って帰って来ず、独り暮らし状態。
この期間に独学で小説の習作に励んだそうです。
明治37年、1904年に離婚を決意した水橋康子は帰京するんですが、日本の上流クラスで活躍していたはずの父親が、1900年の東京市会疑獄事件に連座して隠居していて、長谷川ヤスは佃島で父親と暮らすことになります。
あれ? 母親はどうしたの? ってことになるんですけど、稼がざるを得なくなった母親の多喜は、箱根塔ノ沢で「玉泉楼新玉」っていう温泉旅館を経営していて、大忙し。かなりの人気を得ていたそうです。
なして温泉旅館? って気もしますけれど、大転身ですね。
夫の顔の広さっていう助けもあってのことなんでしょうけれども、御家人の娘、女に学問はとかいいながら、多喜ってなかなかアッパレな才能だったことは間違いないです。行動の人ですね。
多喜が経営していた人気の宿っていうのが箱根塔ノ沢にあったっていうこと、ここは前回の万龍に絡んで、ちょと気になりますね。
万龍と恒川良一郎が出会った宿も箱根塔ノ沢にあったってことでした。
そこで人気温泉旅館を経営していた多喜。万龍とも顔を合わせていたかもしれないですよね。
ま、箱根塔ノ沢っていえば江戸初期から知られた湯治場ですから、玉泉楼新玉以外にも温泉旅館はたくさんあったでしょうけれどね。
温泉旅館の経営者、長谷川多喜は時代っていう急流に呑み込まれていきます。
文明開化、政府の欧化政策の一環として明治16年、1883年に麹町、薩摩藩邸跡地に建設されたのが外国との社交場、鹿鳴館。有名ですよね。
その2年ほど前、明治14年、1881年、芝公園に国際交流の舞台とすべく建設されたのが、会員制の高級料亭、紅葉館です。
鹿鳴館に比べて紅葉館っていう名前は、今の世の中では知られていないかもですけどね。
でも実は紅葉館の方が実績は大きそうです。
鹿鳴館は政策の失敗によって、わずか7年でその役割を終えざるを得なかったんですが、紅葉館は対外的な社交場として日本随一の名所であり続けます。
ただ、1909年に創業者の野辺地尚義が亡くなると衰退期を迎えてしまいます。
そうすると紅葉館の経営者は、なんと多喜に運営を任せるんですね。
繁盛していた玉泉楼新玉の噂は日本の経済界にまで聞こえていたっていうことですね。
ところがまた残念なことに、御家人の娘であるだけに攘夷思想が邪魔をして、ってことはないんでしょうけれど、海外のオエライさんたちを歓待する役割の紅葉館の運営に、多喜はつまづいてしまいます。
失敗したっていう言われ方もしていますけれど、「もうヤダ!」ってことだったのもしれないですよね。
なんでそう思うのかっていいますとね、1915年に紅葉館の運営から手を引くとすぐに、多喜は横浜、鶴見に割烹旅館「花香苑新玉」を開いているんですね。
「あたしゃね、自分のやりたようにやっていけば、そりゃなんとだってうまくやれるのさ」
こんな多喜の言葉を勝手ながらに想像しちゃいます。
ちなみに紅葉館は、昭和20年、1945年、敗戦直前の東京大空襲で焼失しちゃうまで存続しています。
その紅葉館の跡地に立っているのが東京タワー。
そんなような案内板が現在の東京タワーにあったような、なかったような。
さて、娘の長谷川時雨本人。
東京へ戻って来てから3年後、1907年になってやっと離婚が成立します。
この間に新聞懸賞に応募した戯曲が坪内逍遥に認められて入選したり、歌舞伎の脚本募集で当選したり、作家としての地位を築き始めます。
この頃からペンネームとして「長谷川時雨」って名乗っていたみたいです。
新聞雑誌に美人伝、名婦伝を発表するようになると、これが評判を呼んで「美人伝の時雨か、時雨の美人伝か」って言われたそうです。
1911年「日本美人伝」1912年「臙脂伝」を刊行して人気作家のポジションを固めます。
美人伝は長谷川時雨のライフワークともいわれるんですが、書き方が「女の肩を持ち過ぎている」っていう批判の声もあったそうです。
行動の才人、多喜の娘、長谷川時雨はこう返します。
「女が女の肩を持たないでどうしますか!」
美人伝は日本女性の見目麗しさだけを強調するものじゃなくって、女性の地位向上を念頭に置いた内容で、大いに支持されたんですね。
女の生き方として母親の多喜と時雨はかなり大きな反目を抱えていながら、血は水よりも濃し、っていうのが感じられます。気持ちね。
ちなみに長谷川時雨が「日本美人伝」を出した明治44年、1911年は、平塚らいてうが「青鞜」を創刊した年でもあります。
大正4年、1915年に多喜が横浜、鶴見に割烹旅館「花香苑新玉」を出したもんで、長谷川一家は鶴見に引っ越します。
長谷川時雨も執筆の傍ら、旅館業の手伝いもしていたみたいですね。反目していたって言いながら家族です。出来ることは何でもやる。昔の人は、男も女も、そんな感じだったような気もします。
とにかく働く。長谷川時雨36歳の頃ですね。
ちょうどこのころ、12歳年下の文学青年から作品が送られてきて、丁寧な感想を送り返したことから交際に発展します。
この12歳年下の文学青年こそが、のちに日本のバルザックなんて呼ばれるようになる三上於菟吉(おときち)です。
この人の名前も今ではあまり聞きません。
三上於菟吉が長谷川時雨のもとへ転がり込むような形での同棲だったそうですが、一家をあげて鶴見に引っ越したばっかりの頃でもあります。鶴見の家で長谷川時雨一家と暮らしていたんでしょうか。どうなんでしょ。
その甲斐あって大正10年、1921年辺りから三上於菟吉は売れ始めて、一気に文壇の寵児になります。
ま、ありがちだなあっていうことではあるんですけど、金を手にした三上於菟吉は待合に入り浸って長谷川時雨のもとに帰って来なくなったそうです。
たまに帰って来ると後ろめたさからか、
「ダイヤを買ってあげよう」
って言うと、
「ダイヤなんて要らないけど、女だけの雑誌を出したいのよ」
ホントにこんな会話があったのかどうかハッキリはしませんが、三上於菟吉が資金を出して長谷川時雨は「女人芸術」を発刊します。
昭和3年、1928年のことです。
女性が書いて、女性が編集して、女性がデザインして、女性が出版して、女性の解放を進める商業雑誌。
つまり女性が自由に発表できる場を作ったんですね。
なかなか黒字経営ってわけにはいかなかったみたいですが、昭和7年、1932年の廃刊まで、赤字は三上於菟吉が補填していたみたいです。
でもまあ、意義としてはかなり大きいものがあって、女人芸術には多くの才能ある女性が集まります。
有名どころだけでも、野上弥生子、三宅やす子、尾崎翠、宮本百合子、林芙美子、中本たか子、佐多稲子、平林たい子、円地文子などなど錚々たるメンバーです。
政治的に無色だったとされる長谷川時雨でしたが、女人芸術は次第に左傾化していったそうです。
この時期の日本は満州事変から太平洋戦争へ向かっていましたから、軍部からの圧力によって発禁処分にされたりする中で次第に廃刊に追い込まれていったみたいですね。
八面六臂に活躍していた長谷川時雨なんですが、女人芸術のメンバーから、その所作が「美しい」と評価されていて「時雨さんほどの美人はいなかった」っていう声もあったそうです。
三上於菟吉に対する態度もそうですが、いわゆる「姉御肌」ってやつなんでしょうね。
いつでも、どんな時でも絵になる女性だったんだろうって思います。
「泣いても笑っても眉をひそめても、立っても坐っても、電話で印刷屋を叱りつけていても、どんなときでも時雨さんは美しかった」
円地文子もそんなふうに言っています。
1932年にやむなく廃刊した女人芸術でしたが、そこに集まっていた仲間たちに励まされる格好で、昭和8年、1933年、長谷川時雨は「輝ク会」を結成して、月刊機関誌「輝ク」を発刊します。
タブロイド判。二つ折りで4ページの小型新聞。
こじんまりしたようにも感じますが、執筆陣が凄いです。大正、昭和初期の文人が集まっています。
長谷川時雨、岡田八千代、田村俊子、柳原白蓮、平塚らいてう、長谷川かな女、深尾須磨子、岡本かの子、鷹野つぎ、高群逸枝、八木あき、坂西志保、板垣直子、中村汀女、大谷藤子、森茉莉、林芙美子、窪川稲子、平林たい子、円地文子、田中千代、大石千代子。
男性陣も書いていて、三上於菟吉、直木三十五、獅子文六、葉山嘉樹、大佛次郎。
柳原白蓮の名前もありますね。
そしてその隣りに田村俊子の名前もあります。
この人も少々お騒がせな美人作家として知られています。
1879年生まれですから長谷川時雨の5つ年下。
飽きっぽい性格だったのか、幸田露伴のもとで小説を修行していたかと思えば、女優に転身。
1911年、長谷川時雨が「日本美人伝」を発行したのと同じ年に、事実婚していた田村松魚の勧めで書いた小説「あきらめ」が評価されて人気作家に。
と、1918年、田村松魚とはあっさり別れて、恋仲となっていた新聞記者を追ってカナダのバンクーバーへ飛びます。
新聞記者との死別によって1936年に帰国するんですが、佐多稲子の夫と不倫したりしてお騒がせは続くんですね。
「輝ク」に書いたのはこの頃ってことになりますね。
長谷川時雨と並んでいる写真があります。
でもまあ、作家としての人気は回復しなかったようです。
で、すぐに、日本との関係がキナ臭くなり始めていた中国、上海に渡って中国語の婦人雑誌を主宰していたそうです。
昭和20年、1945年、日本敗戦の年の春、脳溢血で客死。
なかなかに忙しく、自由奔放。凄い美人さんもいたものです。
この田村俊子が帰国した年、1936年に三上於菟吉が脳血栓で倒れます。
長谷川時雨は看病しながら三上於菟吉の新聞連載小説を代筆したりしています。
1937年に関東軍が中国と戦争を始めると、「輝ク」は戦争応援の新聞となります。
戦争の応援って、なに? って思うんですけど、戦争っていうのはそういう力を持っているってことなんでしょうか。イデオロギーとか関係ないところで日本を応援する。
1941年、長谷川時雨は「輝ク部隊」の「南支方面慰問団」を団長として率いて、台湾、広東、海南島などを1ヶ月かけて慰問に回っています。
この1ヶ月っていう期間も戦況が激化して来て途中で引き返さざるを得なかったからだそうで、もっとやるつもりでいたってことですね。
家にあっては三上於菟吉の看病もあって、疲労の蓄積が原因だって言われていますが、白血球顆粒細胞減少症に罹って慶応病院に入院。
ベッドの中でも執筆意欲は衰えず、樋口一葉のことを書く予定だったみたいです。
「一葉のことを書かなくちゃいけないんだよ。あたしが書かなくて誰が書けるかい」
この言葉を最後にして昭和16年、1941年、長谷川時雨は息を引き取ります。61歳。
三上於菟吉は3年後の1944年、内縁の妻、長谷川時雨の後に続きます。53歳。
令和の現在ではあまり取り上げられることのない2人ですね。
長谷川時雨の樋口一葉伝。是非読んでみたかったです。
「輝ク」の執筆陣の中に「平塚らいてう」の名前がありますね。
大正時代の美人さんを取り上げるなら、この「青鞜」の女性は外せない1人ですよねえ。
ってことで、次は「平塚らいてう」であります。
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