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【クーリングシェルター】4月26日から2023年の「熱中症警戒アラート」の運用が開始されています

< 気を付けましょう って言われても何をどうやったらイイのか 実はよく分からないでしょねえ >

熱中症で緊急搬送っていうのがニュースになり始めたのって、そんなに昔のことじゃなくって、21世紀に入ってからぐらいなんでしょうかね。


昔は「日射病」って言ってましたけど、緊急搬送とか、そういうふうじゃなかったでうよね。
木陰で涼んでね~、とか、それぐらいで、死んじゃうような危険性を感じていませんでした。


地球温暖化なんですよねえ。
日本の内陸部で気温が40度を超えましたっていうニュースを初めて聞いたときは、ホント驚きました。


インフルエンザに罹ったりして高熱を発した時の温度ですからね40度って。
そんな高熱が外気の温度だっていうことは、外に出たらウンウン言って寝込んじゃう熱に囲まれちゃう状況なわけで、ちょっとね、無事でいられるような状況じゃないでしょ。


とかいってもですね、どこをどうすれば地球の温暖化がすぐに是正されるってもんでもありませんから、個々人で暑さ対策をするしかない、ってことなんですよね。

 

 

 


「暑熱順化」っていうことが盛んに言われるようになってきています。


本格的に暑くなる前に、積極的に暑さに慣れておきましょうっていうことではあるんですけれどね、やっかいなのは、このごろ、夏になる全然前、2023年の東京なんかでは5月に真夏日を観測したりしていますからね、慣れるっていう準備なんかできゃしない、っていうのが実情なんでありますよ。


20人とか30人っていう大人数が、一度に熱中症で緊急搬送されるっていうニュースもよく聞くようになってきています。
学校の催しごとや、体育の授業中にってことなんでしょうね。


学校だってしっかり対策、準備をしているはずなんでしょうけれど、あ、これは危険な状態になってきましたよ、っとかね、判断できるような「熱中症危険度計測器」みたいなものの開発、設置っていうのを環境省あたりが主導してやっていくべきなのかもしれませんね。


授業のカリキュラムをこなすことで精いっぱいで、熱中症のことは二の次三の次、なのかもしれません。


熱中症危険度計測器」みたいなものが出来たとして、学校での運用は問題ないでしょうけど、「熱中症弱者」っていう表現もある高齢者ですね、屋内でも死亡につながっていることも少なくないそうですからね、なにか具体的で分かりやすい対策が必要なんじゃないでしょうか。


ま、日本政府もですね、何もしていないってわけじゃないんです。


気象庁は2011年から「高温注意情報」っていうのを出していたんですよね。


熱中症っていうのが無視できないレベルで発症しちゃうようになったんで、なんか出来ることはないかっていう工夫ではあったと思います。


30度を超えたら「真夏日」ですよって言い始めたのはもっとかなり前でしょうけれど、だんだん、35度を超えちゃう日が多くなってきて、ん~、それじゃあ「猛暑日」って言うことにしましょう、ってことにした。


ところが地球の温暖化ってだけが原因なのかどうか分かりませんが、40度を超えちゃうような、昭和の頃を振り返って見たら考えられない、異常な気温も出てきちゃったんで、世間では気象庁に先んじるようなかっこうで「酷暑日」なんていう言い方も出てきました。


ま、40度いかなくたって、39度だって異常な気温だと思いますけどね。


熱中症は意識を失って、そのまま死亡につながることもありますから、エアコンをうまく使いましょう、なんてことのベース情報として気象庁から「35度以上になる猛暑日高温注意情報」が出されるようになったんだと思いますけど、熱中症は気温だけが要因じゃないよね、ってことになって、「高温注意情報」に対する注意喚起のバリューが落ちていったんですよね。


35度以上になっちゃう日が、特別じゃなくって、日本の夏のスタンダードになってしまったっていうことも関係しているんでしょう。

 

 

 


で、2020年、気象庁環境省が連携して「熱中症警戒アラート」っていうのを発表することになったんです。
聞いたことあります?


関東甲信を対象地域として実験的にスタートしたんですが、2021年からは日本全国が対象になっています。


熱中症警戒アラート」っていうのは、1954年からアメリカ軍で採用されている「暑さ指数(WBGT)」っていうのを取り入れて、より一層、熱中症に焦点を絞ったアラートなんです。


「暑さ指数(Wet Bulb Globe Temperature)」は人間の身体の熱収支を計測しようっていう指標なんですね。


熱収支? なんやねん!? ってことになるんですが、人の身体とその場の外気との、熱のやりとりのこと。


気温だけじゃなくって、湿度、そして輻射熱っていう日照りとその反射っていう熱環境の3つを測定して計算するみたいです。


日照りの場所では、湿度の値を7割、輻射熱の値を2割、そして気温の値を1割として計算。


屋内、あるいは日照りのない場所であれば、湿度の値を7割、輻射熱の値を3割として計算するんだそうです。


そうして出された「暑さ指数(WBGT)」の値が28を超えたら熱中症厳重注意! になります。
ふううん、です。


あのねえ、厳重注意はイイんだけど、そんなのどうやって計測すんの!?
ってことになりますよね、はい。


環境省は年度ごとに期間を決めて、日本地図の形で「全国の暑さ指数(実況と予測)」を発表してくれています。


2023年の発表期間は4月26日から10月25日ってなっていますね。


「パソコン用 環境省熱中症予防情報サイト」

 

「スマホ用 環境省熱中症予防情報サイト」

 

がありますよ。

パソコン用、スマホ用でURLを別けているあたりが、デジタル後進国ですよねえ。


表示される日本地図の左上に、各地域を選択できるメニューが並んでいますんで、自分の地域の、あるいは最寄りの地域、全国840地点の「暑さ指数(WBGT)」を確認することが出来ます。


しかしねえ、熱中症要因として一番注意しなければいけないのは湿度で、気温はそれほど重要な要素じゃないってことは、「高温注意情報」ってなんだったの? っていうふうにも思えます。


しれっと、じゃないかもですけど「暑さ指数(WBGT)」ってことに変更した。
ま、そういう切り替えは素早くサクッとやっていただく方が重要でしょうけどね。


世の中はどんどんかわっていくのでありますよ、ね。


でもまあ、2023年6月時点で、一応ツッコんでおきますとですね、政府広報オンライン「危険な暑さを事前に知らせるための「熱中症警戒アラート」を全国で運用しています!!」を見ますとですね、ん? って思うところがあります。

 

「暑さ指数が28以上になると熱中症患者の発生率が増えるため厳重な警戒が必要です。外出時は炎天下を避け激しい運動を避けましょう。31以上になると危険な熱さとなります」


って言っているんですけどね、


「アラートは、熱中症の危険性が極めて高くなる日の暑さに「気づく」ために、各都道府県内のどこかの地点で暑さ指数の予測値が33以上になった場合に、前日の17時頃及び当日の5時頃に対象都道府県等に対して発表されます」


とも言っているんですよね。


31で危険なのに、なんで33以上にならないとアラートを出さないんでしょうか。
ちょとね、理解できませんですよ。


熱中症警戒アラート」なんですから、本来的に考えれば28で何らかのアラートを出さないといけないんじゃないでしょうか。


政府広報オンラインのこのページだけじゃなくって、他の政府発表でもそうなっていますから、単純な数値記載ミスってことじゃなさそうです。どうにもおかしな判断だなあって思います。


その辺の事情はよく分かりませんが、実際に「熱中症警戒アラート」が発出されたのは、全国で、


2020年、122回。


2021年、613回。


2022年、889回。


コロナ禍で外出機会が減っていたにもかかわらず、爆発的に増えていますね。


しかもこれ、「暑さ指数(WBGT)」がホントに33以上の時のアラート発出の数字だとすると、厳重な警戒が必要だっていう28以上でアラートを発出してたとすると、トンデモナイ数になっているのかもです。

 

 

熱中症警戒アラート」の発出基準っていうのが、イマイチ納得いきませんが、環境省は、2023年4月に気候変動適応法を改正させて、「熱中症特別警戒アラート」を新設したんでありますよ。


熱中症特別警戒アラート」の特徴は「クーリングシェルター」の設置です。


自治体ごとに公共、あるいは民間の施設を「クーリングシェルター(指定暑熱避難施設)」として指定させるんですね。


そして「熱中症特別警戒アラート」が発出された時には、その「クーリングシェルター」を開放するよう指令を出すっていうことみたいです。

 

 

 


もうすでに「クーリングシェルター」を実施している自治体もあるんですよ。


神奈川県秦野市
蕎麦を食べに何回か行ったことのある、自然豊かなイイ感じの街です。


2022年の7月1日から9月30日まで、既に実施して実績を作っているのが「クールシェルター 暑くてクマったらここにクール」


「暑さや日差しから身を守るため、「ひと涼みしよう」という声かけの一環として、一部の公共施設や協力店舗を一時的な休憩施設 クールシェルターとして利用していただくことで、熱中症を予防しようとするものです」


ってことだそうで、なんだか「クーリングシェルター」よりも、利用しやすくってお気軽な感じの「クールシェルター」なように感じます。


でもなんで「暑くてクマったら」なんでしょ。


それはですね、たぶんおそらく、このために創出したゆるきゃらが「シロクマペンギン」だからなんでしょねえ。


「ピー夏」は、落花生とダジャレが大好きなシロクマペンギンの男の子。


「サクーラー」は、八重桜の帽子がチャームポイントのシロクマペンギンの女の子。


ピー夏は、寒いダジャレでみんなを涼しくするんだそうですよ。


え? いや、その、ん~。秦野市はがんばっておられるわけでありますよ。


環境省気象庁も、作ったりするんでしょうか、ゆるきゃら。


熱中症特別警戒アラート」「クーリングシェルター」の運用は2024年からの予定だそうです。


暑いのは、とにかく苦手です。

 

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【飛んでイスタンブール】エキゾチックな恋を夢みる乙女は いつだっているでしょねえ

< 異国的っていう感覚の中にあこがれが含まれている時しか言わないのがエキゾチック? >

国際結婚詐欺っていうのが、大流行りはしないものの、ずっと無くならないのはエキゾチックな雰囲気っていうのがいつの時代も魅力的だから、なのかもですねえ。


どんなに少ない情報であったとしても、とにかく何かしらの好印象を持っていなければ具体的な恋愛感情には発展しないでしょうっていう分析も散見しますが、人間同士の好き嫌いって、理由なんかないっていうのがホントのところじゃないでしょうかね。


でもまあ、エキゾチックっていうのに惹かれるのは、男性より圧倒的に女性の方が多い感じでしょうか。
そもそも、女性の方が絵になりそうな気がします。恋する男より、恋する女、ってなもんでしょ。

 

 

 


1978年に発表された、庄野真代の「飛んでイスタンブール」っていう大ヒット曲がありました。
作曲が筒美京平。作詞は、ちあき哲也の歌ですね。


懐かしく思い出す人も少なくないでしょう。ホント一世を風靡した歌でしたからね。


関連性とかまったく知らずに言いますけど、この歌のヒット以降に流行り出した言葉が「飛んでる女」だったんじゃないでしょうか。


いたでしょ、「飛んでる女」


女性がひとりで海外へ旅行するっていうのが定着し始めたのが、たぶんおそらくこの頃でしょねえ。


「飛んでイスタンブール」と「飛んでる女」のどっちが先なのかは、何とも言えませんですね。
「飛んでる女」っていう言葉が言われ始めたのを受けて「飛んでイスタンブール」が作られた可能性も少なくないように思えます。


「飛んでる女」っていうのはもちろん、飛行機で外国へ飛んで行く女、っていう意味じゃなくって「独立独歩」している女っていうニュアンスの方が強かったと記憶します。
ほぼ半世紀前です。働く女性っていうのが珍しくなくなったタイミングだったんでしょかねえ。


「飛んでイスタンブール」は、曲の方が先に出来ていて、庄野真代が歌うことに決まってから歌詞が作られたっていう経緯があるらしいんですね。


ちあき哲也が、なんでイスタンブールっていう地名を選んだのかは本人にしか分からないことでしょうけれど、ニューヨークや、パリ、ロンドンを外したところがオシャレ! エキゾチック! ってな感覚だったのかもですねえ。


実際、異国情緒、とかいった場合に、イスタンブールって、ドンピシャ! な感じがします。


イスタンブール。日本で人気の観光地になったのは「飛んでイスタンブール」が大ヒットしたからでしょねえ。
そういう連関ってホントにあるんだそうですよ。


庄野真代本人が、曲がヒットした後、実際にイスタンブールを訪れてみて、歌詞のイメージと全然違っていてビックリしたっていうエピソードも知られています。


洋の東西をつないでいるバザールの国ですよね。
かつての世界帝国、トルコ最大の都市、イスタンブールです。


「飛んでイスタンブール」は、カッコイイ女っていうのを歌っていたんだと思いますけど、ツッコミどころもあるですねえ。


♪いつか忘れていった


♪こんなジタンのからばこ


♪ひねり捨てるだけで


♪あきらめきれるひと


へへ~ん、どってことないわよ、あんなやつ、っていう女の強がりの心情、なんでしょねえ。この歌詞で言いたいことはね。


ところでですね「飛んでイスタンブール」には、いろいろな解釈を公開しているページがあるんですよ。
そういう点でも珍しいし、みんなの気持ちに響いたヒット曲なんだと思います。


いろいろに解釈できるのが、聞く側にとってイイ歌なんでしょうし、それを狙って作るのがプロってもんなでしょうから、あーだこーだ言われるってことは成功している証し、ですね。

 

 

 


ジタンのからばこが見つかったのは女性の部屋、ってことですよね。


忘れていったのが「いつか」ってことですから、そこそこの期間、男性は女性の部屋を訪れていた関係なんでしょうね。


「飛んでイスタンブール」っていうタイトルと合わせて考えますと、この女性のいる部屋が日本にあるのか、あるいは長期滞在していた外国、イスタンブールにあるのか、そういう疑問も出てきます。


ジタンのからばこが出て来た時点で、イスタンブールに結びつくものは何もないですよね。


なのに、直後にイスタンブールへ飛んで行こうっていうんですから、その部屋はトルコ旅行の時の思い出の部屋なのかもしれません。


もっと穿って考えれば、イスタンブールで出会った男性が、日本の女性の部屋にいたことのある、長距離恋愛だった可能性も考えられます。


イスタンブールへ行けば、またあの時のようなエキゾチックな恋に出会えるかも、っていう期待で飛んでいく。
同じ男性に会いたいわけじゃなくって、新たな別の男との出会い。


その思い切り方の心情を表しているのが、


♪ひねり捨てるだけで


♪あきらめきれるひと


あんなヤツは、ポイよ、ってな「カッコイイ女」を自らに演じてさせている「カッコヨサ」
ちょと切ない。


で、ジタンってなんだか知ってます?


世界中が喫煙天国だった頃のフランスを代表するタバコです。


青色の背景の中で、けむりに巻かれるようにして踊っている女性が描かれたパッケージは有名で、その青色はジタンブルーって呼ばれています。濃い青色ですね。


ジタンっていうのは「スペインのジプシー女」っていう意味なんだそうです。


相手の男が吸っているタバコの銘柄がジタンだっていうことにも、なにか浮遊する意味を持たせたかった工夫があるのかもしれないですね。


1978年当時のジタンのパッケージは、他のタバコに比べていくぶん横に広いボックスで、けっこうシッカリしているパッケージなんですよね。
ひねり捨てるって、実際にはけっこう握力っていいますか、指の力が必要だと思います。


片手でクシャっていうひねりつぶし方じゃなくって、両手で思いっきりひねる、っていうスタイルだと、なんかオシャレ感は薄いかなあって、大きなお世話を焼いてしまいます。


それとも、ジタンのからばこをひねりきれない、あきらめきれない、ってことを言っているんでしょうか。


話はいつものごとく横道にズレていきますが、フランスでジタンと人気を2分しているタバコが「ゴロワーズ」ですね。


ゴロワーズのパッケージもブルーですが、ジタンと比べると水色っていうほどの色合いで、ソフトパッケージですね。
薄いブルーの背景に、翼の付いた兜が描かれています。


ひねるならゴロワーズの方が絵になりそうではあります。ソフトパッケージですからね。


ただオシャレなのはゴロワーズよりはジタンの方なんでしょうね。


そして、日本で青いパッケージで知られているのがハイライト。


和田誠さんの素晴らしいデザインで、昭和の中盤ごろには日本を席巻していた銘柄ですね。
で、同じブルーってことだったのか、ゴロワーズはフランスのハイライト、なんて言われていました。


ブルーではあってもジタンはハイライトになぞらえられることはなかったですね。
ブルーカラーのタバコっていうニュアンスもあったのかもです。


「飛んでイスタンブール」の3年前、1975年に発表された歌が、かまやつひろしの「ゴロワーズを吸ったことがあるかい」でした。


天才かまやつひろしの、日本の歌には珍しいタイプのめっちゃカッコイイ曲です。


歌詞のメロディーラインで聴かせるっていうんじゃなくって、バックの演奏のリズム感に乗って語りかけるようなカッコヨサです。


ゴロワーズというタバコを吸ったことがあるかい


♪ほら、ジャンギャバンがシネマの中で吸ってるやつさ


かまやつひろしならではの、スタイリッシュでカッコイイ曲です。

 

 

 


タバコの歌といえば、1972年には2曲の名曲が発表されています。


よしだたくろうの、そのタイトルも「ハイライト」っていう歌。


♪ぼくはハイライトを吸ってます


♪女房は鬼の顔で見ぬふりをしています


鬼の顔になっちゃうのは、早死にしちゃうから、みたいなんですけど、タバコの中でもハイライトのニコチン、タールの量の多さを言いたいのかもしれません。


♪ぼくはトイレの中で吸ってます


♪女房は台所でレタスを切ってます


♪あ~ハイライト


マンションのベランダでタバコをくゆらせる灯りが、あっちにもこっちにもっていう、ホタル族なんていうのが現れるずっと前。トイレ族、だったんでしょうかね。


もう1曲は、西岡恭蔵の「プカプカ(赤い屋根の女の子に)」


この歌は、いろんな人がカバーしている名曲ですね。


♪おれのあん娘はタバコが好きで


♪いつもプカプカプカ


♪からだに悪いからやめなって言っても


♪いつもプカプカプカ


タバコが身体に悪いっていうのは、ずっと昔から言われ続けていることなんですねえ。


♪遠い空から降ってくるっていう


♪しあわせってやつが、あたいに判るまで


♪あたいタバコをやめないわ


♪プカプカ プカプカ プカ


しあわせを待ち望んでいる赤い屋根の女の子が吸っているのは、ハイライトじゃなくって「ピース」なのかもですねえ。


勝手な想像ですが、電子タバコからはこういう名曲って生まれないような気がします。


イスタンブールっていう、遠い外国の街の名前を知ったのは「飛んでイスタンブール」が最初だったのかもしれない、これまた遠い記憶。


その街が、コンスタンチノープルであり、ビザンティオンだっていうことを知ったのは、すっかりオッサンになってからのことでした。


サバサンドは日本で数回食べたことがありますけどねえ。

 

 

ところで、「飛んでる女」はその後、どこへ行っちゃんでしょうね。ずっと聞きませんです。


1990年代には「オヤジギャル」なんて言われ出して、ギャルは飛ばなくなっちゃったんでしょうか。


2010年代からは「おっさん女子」になってますよね。


もはやギャルっていうのは職種になっているような感じもありますけど、自然が一番だと思います。
飛ばなくたってイっすよねえ。


呑み仲間の女性陣は、もれなく「おっさん女子」なのであります。楽しい仲間たち!


それでい~んでないかい!?

 

【リライトとブラッシュアップ】散文の書き方を考える その11

< 長めの散文、小説、シナリオを書き上げる 完成させるための最終作業 >

ブログ記事、小説、シナリオ、エッセイ。
散文を書く、書き続けるっていうことについて、いろいろ考えてみる11回目です。

 

小説だとか、散文の形式はなんであれ第一稿を書き上げたあとの話です。
初稿、草稿って呼ぶ人もいるかと思いますが、同じものとして考えます。


小説にしてもシナリオにしても、あるいはエッセイやブログ記事にしても、とりあえず形として最後まで書き上げた。その一番目、だから第一稿。


書き上げた最初のものだから初稿。


書き上げた本人の意識としてまだ完成じゃない意識があって、まだこれからもっと面白くする意欲がある。これは下書きに過ぎない、っていうニュアンスの草稿。


第一稿、初稿が、そのまま発表される可能性があるのに対して、草稿がそのまま発表されることは、通常ではない、っていう区別ができるでしょうか。


下書きですからね、そうなると思われますが、作者が突然死んじゃったりして、完成に向けての作業が継続されなくなっちゃった場合なんかですと、草稿、がそのままで発表されることはあるようです。
フランツ・カフカ(1883~1924)の作品はほとんどが草稿だったみたいですからね。


作品の完成っていうのには、いろいろな形態があって一概に括れるものじゃないっていうのがややこしいところです。


あらすじを書いていようがいまいが、プロットを書いていようが、箱書きを作成していまいが、つまり途中のプロセスがどうであったにせよ、とにかく作品を最後まで書き上げること、これがとても大切なことですね。


そして実は、そこまで来るのが、つまり第一稿を書き上げるまでが最もしんどいところです。


実感している人も多いことでしょう。その出来具合に満足できていないとしても、とにかく最後まで書き上げる。この段階こそが真のスタートですよね、っていうのが今回の話です。

 

 

 


やっと完成させたその小説の初稿、苦吟の末ラストシーンまで書き上げたシナリオの第一稿。きちんと読みなおしましたか? 


最後までいったから完成! っていう考えもあるかと思いますが、読み直してみると、誤字脱字、そして意味の通らない部分が見つかったりするものなんですよね。


書きなれている人は、毎回、必ずそうなっちゃうんだから、自分が最初に書き上げるのは草稿なんだっていう、そういう意識になるのかもしれません。


ベルリン在住の作家、多和田葉子さんは「言語と歩く日記 四月二日」の中でこう言っています。


「毎日、毎日、『雪の練習生』のドイツ語バージョンを読み返して推敲していたが、きょうやっと最終行に行き着いた。でも、あと二度は通して推敲しなければ、行きたいところへ行き着けないという気がする」


繊細に言葉にこだわっているプロの作家さんですら、っていいますかプロだからこその、こういう態度なんでしょうね。


「行きたいところへ行き着けない」


行きたいところ、書きたかったなにものかが、書くことによって明確になっていくってこともあるでしょうからね。推敲は1回だけサラッと、ってわけにはいかないってことでしょう。


こうした内容そのものについての満足感とは別ですが、誤字脱字っていうのも不思議なもので、何回読み直しても、新たに見つかるものなんですよね。
全体が長いと、必然的にそうなります。


書いている間に何度も読み返して、推敲しながら完成させているから、第一稿イコール決定稿、完成稿なのだ! っていう人が意外に多いようにも思いますが、新人賞の応募作品なんかですと、そんなんじゃ大概、通用しないと思われます。


作品を書き上げたときは、それまでの苦しさから一気に解放されて、経験した者にしか分からない大きな満足感に浸れます。至福と言っていいような感覚ですよねえ。


こうした気分、精神状態のまま自分で書き上げた作品に対する客観性を持つっていうことは、まず無理なんじゃないでしょうか。


第一稿が仕上がったら、ある程度の時間、可能であれば数日、その作品から意識的に離れるっていう過程を経たうえで、誤字脱字のチェックも含めて客観的に読み直すっていう作業を必須とすることで、初めて第三者に通用するレベルに引き上げることが可能になるんだと思います。


そのあたりのことを考えてみます。


例えば小説の第一稿を完成させた直後、原稿の最後に「終わり」「完了」って書ける状態になったとき、作者は、つまり我々は、アドレナリンが溢れているようです。
ですよね、満足感で興奮しているですよね。


無茶苦茶に考えたし、がんばったし、最後に到達するまで苦心したんですから。


こういった興奮状態で、まともに第一稿を見直せるでしょうか。


なので、しばらく、つまり冷静に第一稿に向き合える状態になるまで時間を置いて、確認、見直し作業に入りましょう、ということになりますね。


たくさん出ている小説の書き方、シナリオの書き方、ほとんどの本でもこのことに触れていますが、ニュアンス的にさらっと流している感じです。


なんですが、ここが初心者には一番実感しにくい段階なのかもしれません。勝負は第一稿を書き上げてから始まる、と言っても言い過ぎではないと思います。


小説新人賞、シナリオ新人賞の公募に向けてがんばっている人、たくさんいると思います。


書き上げるスケジュールをたてる場合、第一稿の完成を〆切に合わせちゃダメですよね。


一週間なり二週間、可能であれば一ヶ月ほど前に第一稿の完成をスケジュールすることが勝負に勝つ第一段階と考えるのが良いんじゃないでしょうか。少なくとも第一次選考は通過できるためにです。


そんな余裕、持てるわけないっしょ、とかね、憤慨される方もあるかもしれませんが、誤字脱字だらけの原稿が高く評価されることはないです。


言葉に対するこだわり、自分の感性に合った言葉が選択されて、正しく使われているか。原稿の見直しはとても大切な作業です。


ここで考えているのは誤字脱字のチェックだけっていう意味での見直しじゃないです。


リライト、ってやつですね。書き直しっていうことです。


世に出ている作品でリライトを経ていない完成作は無い、と言っていいと思います。第一稿を書き上げる作業と同様に、もっといえばそれ以上に大事な作業だからですね。


自分の書きたかったことは何だったのか。その小説に、そのシナリオに込めた思いは何だったのか。


それがその第一稿で、第三者に伝わるように書かれているか。狙いが完遂されていると判断できるか。
その完成度を判断するのが本当の意味での見直しっていう作業で、見直し作業の結果、自分の思いに沿うように、より的確、効果的になるように書き直す作業。それがリライトです。

 

 

 


リライトで最も必要、重要なものは「読むチカラ」ってことになりますかね。


第一稿に対する見直しは、自作に対して、いかに客観的に、いかに冷静に読んで、その出来の如何を判断出来るかがポイントになるでしょねえ。


つまり、苦心惨憺で書き上げた第一稿が自己判断で「ボツ」になることもある、っていう残酷な作業がリライトなんですね。


そういう客観性が必要。自分で自分にダメ出しをする。ハイレベルに厳しくなければ意味がない。簡単にできることじゃないですね。


特にシナリオの場合、時間の制約、つまり原稿枚数の制約は小説以上に厳格なものです。
あるシーンを書き直した結果、枚数をオーバーしてしまったり、足りなくなってしまったり、かなり決定的な未完成状態に陥ることはごく頻繁に起こり得そうです。


それじゃあダイナシじゃん、と言うなかれ、です。


そもそも、第一稿のタイトルは効果的かどうか、考え直してみましたか。タイトルほど難しいものはないですよねえ。
書き上げてからタイトルを考える場合でも同じでしょう。


そのタイトルが商品として魅力的だって、独りよがりじゃなく判断することも難しいですけどね。
無題、とかやっちゃう人を時折見かけますが、その状態では第一稿以前だと評価されても致し方のないところではないでしょうか。


シナリオの構成として判断した場合に、シーンの順番は効果的に並んでいるでしょうか。


意味のない、あるいは意味の分からないシーンが紛れ込んだままになっていませんか。
提供したナゾに解決はつけていますか。主人公に課した枷は本当に効果的ですか。


リライトは書き手としてではなく、読者として、その作品の最初の客として、ドライに、客観的に、書かれている内容を判断して書き直す作業です。


最初からこなせる人なんていないでしょうね。
難しい、創作を完遂するうえでの最重要スキルなんだと思います。


書き手から客観的読者に、自分の意識を変えることは、当然ながら簡単なことじゃないですもんね。


書き上げるまではむしろ独善的であった方が進捗を望めるのかもしれません。
客観性なんか足手まとい、っていう意識も間違いとは言えません。


でも、書き直し、リライトの段階に至っては、客観的になれるかどうかがその作業の真価を問うことになるでしょねえ。
読むチカラの重要性がここにあります。


読むチカラを付けるためには、本を読むことです。いろんな本を読むことに勝る方法はないと思います。


リライトの時にはその読むチカラに、より一層の客観性が求められます。


苦労して書き上げた第一稿ですが、思い切って、バサバサと削るくらいの覚悟が重要。


書き上げた小説を、完成させたシナリオを、評価するのは書き手ではなく読み手ですからね。主観じゃなくって客観っていうことです。


自分の作品を他人として読むっていうことです。


テニオハや誤字脱字にのみ執着してリライトしました、っていうんじゃスキルはちっともアップしていかないですし、作品の魅力も上がりません。


書き手にとってほとんど希望の持ちようがないようなことばっかり並べていますが、思い切って削って、書き直してみると、きっと好いことがあります。
嬉しく思えることが出てきます。そうです。思わず口角が上がってしまうほど、小説が、シナリオが良くなります。面白く変わります。これこそがリライトの効果です。


一回でもそういう経験をすると、リライトのコツが実感できますよね。確実なスキルアップです。


創作に限ったことじゃないと思いますが、スキルっていうのは誰かから授けられるものじゃなくって、自分でつかみ取っていくもの、なんでしょねえ。


少しでも納得いかない部分に、思い切ったリライトのメスを入れる勇気。そこが勝負です。
そして、脳ミソにアセをかくほど考えて、悩んで、さらにさらに考えて、書き直すんです。本当の意味でのリライトを実行するんです。


小説が、シナリオが、エッセイが、ブログ記事が、どんどん良くなる、はずっ!


改悪してしまうんじゃはないか、とか逡巡しないことです。


結果としてレベルダウンしてしまったと感じたら、リライトの方法が、書き直しのアイディアがズレていたのかもしれません。


もう一度考えてリライトすればいいだけのことです。創作のスキルアップを意識しての頑張りどころでしょねえ。


さらに、リライトが一回で済むってことは稀だっていうことも言えると思います。


いくつか作品を書き上げた経験のある人は実感していることだと思いますが、少なくとも数回、多いときには十回以上にも及ぶのがリライトの実際です。


ここで、作品を空中分解させないことが重要になります。


数回繰り返すリライトをうまく着地させるコツは、リライトする箇所、書き直すボリュームが回数ごとに少なくなっているかどうかをチェックすることです。


機械的にリライト個所を少なくするっていうんじゃ意味がありません。
要は初期段階のリライトを実行する際に、作品全体に意識を行き渡らせているかどうかが大切です。
そこがリライトスキルの最重要ポイントです。


書き始める前に、何を面白いと思ったのか、その面白さが効果的に伝わっているかを客観的に判断できていれば、どこを書き直すべきなのか、明確に自己判断できるはずです。


その自己判断ができるっていうことが、書き上げるスキルを持っていることと同義になります。


創作のスキルを身に付けましょう。とにかく最初は、枚数が不足してしまうとしても、思い切ってザックリ削ってみることです。


削った状態で読み返してみてください。改悪状態になっていますか。それとも違和感なく読み進められましたか。
そもそも違和感のある部分を削って、改悪状態になったのならその箇所をリライト個所に選んだことが間違っていたのかもしれません。


それだけ重要な部分だったんです。以前より効果的になるようにリライトしましょう。


リライトは、トライ・アンド・エラーです。


今はパソコンを使って書いている人が多いと思います。


原稿用紙をまるめて捨てたり、消しゴムですっかり消して書き直すっていう作業じゃなくって、アンドゥー機能も使えますし、そもそもリライト前のファイルをバックアップしておけば手間なく元に戻れる環境なんですから、本当に思い切ってリライトできますよね。

 

 

削ってみても違和感がなかった。ことによったら読みやすくなったとしたら、その部分はそもそも要らなかったんでしょう。


なんで、その部分を書き入れたのか。自分自身による自己評価です。創作スキルそのものです。


これもまた経験してみないと実感できない最重要ポイントです。
自分の中の客観性っていうのは、確立できたって判断すること自体が主観から発しているわけですから、極言すれば思い込みに過ぎないものかもしれません。


ただ、創作の本質はそういう概念の中にあるものだとも言えるだろうっていうことがやっかいなところです。


才能があるとかないとか言われるのは、この部分なのかもしれません。


なんにしても思い切ってやってみることしかないでしょねえ。


失敗することがあったとしても、スキル自体は必ずアップしていくでしょ。たぶん。


こうして数回の、苦しいリライト作業を経て完成した、小説、シナリオは第何稿になっているでしょうか。意外に数を重ねていることに驚くかもしれませんね。


その回数の分だけ創作スキルはアップしているはずです。やり遂げたんですから、自信を持ってイイんじゃないでしょうか。


リンダ・シガー著「ハリウッド・リライティング・バイブル」はとても優れたシナリオライティングの一冊ですが、この本で言われている最大のポイントは、ただ一言「ライティング・イズ・リライティング」ということなんですよね。


書き始めるにあたって腹をくくれる言葉ではないでしょうか。ハリウッド女史、恐るべしです。


そして、リライトを経て完成した小説。ラストシーンまで書き終えたシナリオ。この段階に達して初めて実施できるのが、ブラッシュアップです。


まだあんの? って感じましたか? でも、あるんですねえ。

 

 

 


ブラッシュアップでは、テニオハ、誤字脱字の最終チェックを行うのは当然のこととして、句読点のチェック。句点が適切か、読点の方が効果的ではないか、っていう演出判断。


意図しないダブルミーニングになっている言葉を使っている箇所が無いか。別の言い回しの方がカッコよくないか。そして、タイトルは今のままでいいか。枚数を整える工夫として何か別の言い回しがあるのではないか。


作品に磨きをかけるのがブラッシュアップです。枚数を整えるための技術さえも、気持ち良く身につく作業だって言えるんじゃないでしょうか。
このブラッシュアップにもそれなりの時間を要します。


っていうわけで完成までにかかる時間は、創作に慣れるまではかなりの長さになります。しかもこの間、ずっと孤独な作業になります。


繰り返しになりますが、これから小説新人賞、シナリオ新人賞に応募する予定の方、スケジュールをたてるにあたって、〆切ぎりぎりに第一稿の完成、っていうのは避けたほうが賢明だと思います。


思い切って削って、リライトできるスキルを身に付けましょう。
楽しんでブラッシュアップできるボキャブラリーを自分のものにしましょう。


何よりも重要なことは、タイトルを含めて、満足できる小説を、自慢できるシナリオを、たとえ一作であっても、完成させる経験を持つことです。


脳ミソにアセをかいて、とにかくがんばりましょう。創作スキルに磨きをかけてアップさせましょう。


アイディア。第一稿。リライト。ブラッシュアップです。


プロになるとか、そういうんじゃなくとも、自分が満足できる散文を書き遺すために、です。

 

< いろいろ考えるです >


【考えてから書くか、書きながら考えるか】散文の書き方を考える その1
【神サマの集まり過ぎ?】散文の書き方を考える その2
【オノマトペの実力】散文の書き方を考える その3
【熟字訓と、その周辺】散文の書き方を考える その4
【書くために不可欠な読むチカラ】散文の書き方を考える その5
【マクガフィンって?】散文の書き方を考える その6
【ヨーコさんの秘密】散文の書き方を考える その7
【ビート・ザ・スナフキン!】散文の書き方を考える その8
【フィクションを読む】散文の書き方を考える その9
【タイトル、この悩ましくも決定的なもの】散文の書き方を考える その10

【ベルリンという街】多和田葉子「百年の散歩」から見えてくるドイツ連邦共和国の首都

< いや ことに多和田葉子の作品から類推するのは間違った印象につながるんじゃないでしょか >

小説ですからね、ドキュメントじゃないですもんね。でもまあ、それでもイイんだと思うですよ。


ドイツに行ったことはありませんし、行く予定もありません。


多和田葉子っていう作家さんは、ベルリン在住らしいんですけど、日本語の作品とドイツ語の作品をいろいろと発表されていて、講演やら朗読会やらで世界各国を飛び回って活躍しているスーパーレディってイメージがあります。


人気の作家さんですから、みなさんもご存じかと思います。


1992年の「かかとを失くして」1993年の「犬婿入り」を読んで、なんか、飛んじゃってる感覚の人だなあっていう、ヘンテコさ加減が心地イイなあって思って以来、好きな作家の1人です。


まあね、小説家は作品を書くにあたって、自分の中のヘンテコな部分を強調しながら構想を練るっていう部分もありそうに思えますし、そこに、いわゆる作家アタマってもんがあるんじゃないでしょうか。知らんけど。

 

 

 


2001年に発表された「容疑者の夜行列車」っていう作品があります。


これね、このタイトル、おそらくなんですけど、こういうことだろうって思うんですね。


容疑者 ⇒ 夜汽車 ⇒ 夜行列車


こういう言葉遊びっていいますか、気付く人だけ気付けば、それでイイです。みたいな文章を書く作家さんですね。多和田葉子


2か国語で小説を書いて、言葉、単語に対する感覚が、どうにも細かくこだわらざるを得ないところがあるんでしょうね。


自分の感覚を表現するのは書き言葉がメインだから、その言葉の見た目や成立も気になるし、書き表された言葉の音の響きも気になって、音的に似ているだけで、意味的に全く関連のない言葉を並べてみるのも面白い。
みたいな感覚があって、その自分の感覚を信じて書き進めていく。っていう作家さんなんだろうと思いますね。


ドイツっていう外国に住んで、自分自身が外国人になって生活している。


もちろん、語学的には何不自由なく生活できるんでしょうけれど、ドイツ語話者としてなんとなく感じているアウェー感。浮遊感。


失くしてしまったかかとは、絶対に元に戻ることはないっていう確信に、いつの間にかアイデンティティを見出している自分、っていうのを感じているのかもしれませんね。


2013年に発表された「言葉と歩く日記」っていう新書は、講演旅行やらなんやらで、言葉通りに世界を飛び回りながら、日記形式で、言葉に対するコダワリっていうのを、ショーモナイだじゃれ抜きで、真剣に、って言いますか、多和田葉子っていう作家の文体はいつも真剣さを感じるものではありますが、素直に言葉に対する自分の感受性に向き合っている。


客観的になろうとしている態度が読み取れて、「らしくない」かもしれませんけれど、面白いです。
「言葉と歩く日記」を未読の多和田葉子ファンの方には、お薦めの一冊です。岩波新書


さて「百年の散歩」なんですが、ベルリン在住の主人公が「あの人」を待ちながら、ベルリンの街の中をあちこち散策するっていう10の短編集っていう体裁をとっている一冊です。


いくつかの短編を読み進んでいくうちに、主人公にとっての「あの人」の存在は浮遊し始めて、「あの人」っていう存在は、主人公が街をあてもなく散策するためにでっち上げられた架空の存在、空想の恋人で、店に入ったり、公園のベンチで待っている相手になっている「あの人」のことに注目してみますと、サミュエル・ベケットの「ゴドーを待ちながら」を思い浮かべたりなんかします。


でもまあ、ベケットアイルランドの人ですからベルリンには関連ないよなあ、とか、そんなふうな、短編の内容とは直接関係のないような空想を、常に読者に強いてくるような短編集なんですねえ。


各短編のタイトルが「カント通り」だとか「レネー・シンテニス広場」「マヤコフスキーリング」ってなっています。


ドイツの歴史に詳しくはありませんので、そういう名前の場所がホントにあるのかな? ってちょっと疑っているところがもあります。


いや、疑う理由なんて、ホントはありませんし、チマチマと調べれば存在するのかどうかは判ると思いますけど、全部が多和田葉子の創作なんですよっていう結論も、なかなか味わい深いなあって言う気もするんですね。


そういう本を読む楽しさをもたらしてくれる作家さんです。


実は地図も付いていて、ベルリンの街にその位置も記してありますんで、ホントに在るんだろうとは思います。

 

 

 


1つ目の「カント通り」っていう短編。
「わたしは、黒い奇異茶店で、喫茶店でその人を待っていた。カント通りにある店だった」
って始まっています。


いきなり「奇異茶店」です。


多和田葉子っていう作家さんが、実際にはどういう方法で書いているのか分かりませんが、キータッチの微妙なズレだとかのせいで、こういうアンポンタンな変換結果が返って来ることってありますよね。


それを面白がってそのままにしたものなのか、喫茶店って書く前にすでにアタマの中の言葉遊びで奇異茶店っていう言葉が浮かんでいたものなのか、どうなんでしょ。
発音する音の近さっていうことと、この場合は「奇異」っていう語感が気にいっているってことなんでしょうね。多和田葉子さん自身がね。


とくに決まった! っていう感じじゃない言葉遊びだと思うんですけれど、ま、こんな感じで進んでいくのが多和田葉子の作品ではありますけどね。


カントっていえば、通りの名前として名前が残されるっていうんであれば、哲学者の「イマヌエル・カント」でしょか。
でもカントは、ドイツっていっても「プロイセン」時代の人で、今現在ではロシアのカリーニングラードになっている街の生まれで、そこからほとんど動くことはなかったって言いますからね、違うカントなのかもしれません。


いやまあ、カントが学生時代だとかに、大都市のベルリンを歩いていたって不思議はないんですけどね。
それにカント通りのある地域は旧東ベルリンだとすれば、ロシアの有名人ってことで通りに名前を遺してあるとしても不思議じゃないですもんね。


ベルリンていう街は、かなり古くから栄えていて、21世紀の今も世界に冠たるドイツの大都市です。


多和田葉子の「百年の散歩」を読み進めていくと、通りや広場に名前を遺しているベルリンにゆかりの人たちに対する言及もあって、百年っていう時の長さを散歩している「わたし」と「あの人」あるいは「その人」の時代的現在地みたいなものが感じられてきます。


ところで、21世紀初頭の現在、充分に大人である人たちにとってベルリンといえば、なんといっても「ベルリンの壁」っていうことになるんじゃないでしょうか。


大昔から重要な街だったベルリンは地政学的に稀有なポジションを経験しています。


戦後処理っていっても、結局は戦勝国同士の自国への利益誘導が渦巻くことになるんですね。

 

 

 


ベルリンの壁っていって、イメージしていたのは街の真ん中に一直線に壁が作られていて、東ドイツ側と西ドイツ側に分けられていたんだなあって、かなりボンヤリしたものでした。
東西の行き来が、遠回りしなきゃいけないんで不便だね。ぐらいなアンポンタンなイメージ。


ドイツの地理をまったく知らない中でのベルリンとベルリンの壁


大人になってから改めて知るのは、ベルリンっていう街自体は東ドイツにあったっていうこと。


東ドイツの首都は東ベルリンでしたが、西ドイツの首都はボンに置かれていました。
つまり西ドイツ側の西ベルリンっていう区画は、飛び地なんですよね。


東ドイツの中にベルリンがあって、そのベルリンの中に西ドイツ側の西ベルリンがある。


なのでベルリンの壁っていうのは、西ベルリンをグルっと囲んでいたんですね。


当時のソビエトは、なんで壁で囲い込むようなことをしたのかといえば、東ドイツの人たちが西ベルリンに入ることによって西ドイツに亡命しちゃうのを防ぐ、ってことだったみたいなんです。


西ベルリンの人たちにとっては、限られたアウトバーンや空路で西ドイツへ行き来出来ていたそうなんで、ベルリンの壁の有効性っていうのは、東ドイツの人たちにとっての西側諸国への入り口を閉ざすことにあったってことですね。


西ベルリンっていう飛び地を設けることも、そこを壁で囲ってしまうっていうことも、なんとも人間の愚かしさを象徴しているようにしか感じられませんけどね。


ベルリンが第2次世界大戦の敗戦によって分割されたのは1945年のヤルタ会談
イギリス、フランス、アメリカ、ソヴィエト連邦で4つに分割統治。

 

 

ベルリンの壁が作られたのは1961年。


1989年の暮れにブランデンブルク門が解放されて、1990年、ベルリンの壁は取り壊されましたね。


ドイツも統一されてベルリンが統一ドイツの首都になったわけです。
百年ぐらいの散歩じゃ歩き切れないベルリンの歴史ですね。


で、今、ちょろっと調べてみたら「カリーブルスト」って、ぶっといフランクフルトを焼いたのにケチャップとカレー粉をふりかけたやつって、神宮外苑のオクトーバーフェスで食べたことありましたけど、あれって、ベルリン発祥なんですね。

 

料理ってほどでもないような。。。 

ふううん。ベルリンを歩く予定はありませんけれど、カリーブルストは旨かったです。また食べたいです。

 

【自転車安全利用五則】ヘルメット着用ね 「努力」するのが「義務」になったですよねえ

< たしかにヘルメットをかぶってるチャリライダーは増えて来ているかもです >

カーナビなんて「カ」の字もなかった頃の話なんですが、首都圏の道路はどこもかしこも渋滞ばっかりで、ドライバーたちはあっちを周り、こっちを探って裏道を探すことに懸命でした。


神奈川方面から都内に向かう時に、直線的に都内に入り込む太い幹線道路は全部、にっちもさっちも、さっぱり動かないんで、ちょっと大周りしてでもってことで、必然的に内陸方面に活路を求めて細い道に入り込むことになります。海側に道路はありませんからね。


裏道を探して入り込んだ先で、大規模な再開発工事なんかをやってようもんなら、通行規制があったりなんかして、さらにわけの分からないところへ誘導されちゃったりするんですよね。

 

 

 


神奈川県川崎市のだいぶ内陸方面の街に溝の口っていうところがあります。


東急田園都市線とJR南武線が乗り入れている駅前が、再開発の工事中だった頃ですから、もうかなりの昔。昭和の終わりごろか平成の始めころですが、かなり恐ろしい目に遭ったことは今でも忘れられません。


土地勘のないところですんで、どっちの方向に何があるのかさっぱりわからない駅前。
波板トタン張りの一杯飲み屋の赤ちょうちんが揺れて、ノスタルジックな昭和の夕暮れです。


道は細いんで徐行で進んでいくんですが、まさに言葉通りにあらゆる方向からあらゆる方向に、無灯火のチャリライダーが、ある人はチャーって飛ばして、ある人はふらふらとゆっくり、信号なんか無視して通って行くんですね。


まるで、車に乗っている自分だけが透明にでもなったかのように、無法地帯のチャリライダーたちが走り抜けていく、って感じでした。

チャリ同士でもぶつかりそうでしたよ。


再開発のちょっと前まで車なんて通る道じゃなかったのかもしれません。
そこに暮らす人からすれば、車、邪魔なんだよ! 入って来んな! ぐらいの感覚かもしれません。


今はもう街並みも整ったでしょうから、無法地帯のチャリライダーたちも姿を消しているだろうと思うんですけど、ぶつかったとしても被害を被る側じゃない車に乗っている方がビビリマクリ、っていうそれはそれは恐ろしい経験でしたですねえ。


思い起こしてみればですね、あの頃から首都圏の自転車っていうのは、駅前駐輪の問題も含めて交通問題になっていたんですよねえ。


チャリライダーの困ったちゃんたちは、免許がないからっていう無法運転ぶりをいろんな方面に発揮していましたし、今でもあんまり変わらないのかもです。


ツヅッチっていうイラストレーターさんがいて、もうとっくに50を超えてイイ年したオッサンなんですけど、根っからのチャリライダーで、仕事先にも買い物にも、すぐそこまででもチャリです。


で、夜。呑み屋さんに行くのもチャリなんです。


その呑み屋さんにはトイレドアの脇の壁に貼り紙があって「未成年の方、おクルマ、自転車でお越しのお客様にはアルコールの提供を控えさせていただいております」って書いてあります。


わざわざ「自転車」って書いてあるのは、つい最近の傾向なんじゃないでしょうか。
自転車は車両ですから、飲酒運転になりますよね。常識です。


書いてはあっても、その店に通っているチャリライダーは、案外たくさんいるんですよね。
そういう実態。


店側としても、飲酒運転の適用をチャリにまで厳粛にあてはめるっていうのは、かなりしづらいでしょうしね。


でもまあ、チャリで来ていることは内緒にしといてねえ。お互い様にしておきましょねえ。
すぐそこに駐輪スペースがあることはみんな知ってますからね、暗黙の了解ってやつでしょねえ。


ま、酔っ払いチャリライダーは、だいたい店のご近所の人なんです。


歩いても来れるし帰れるんですけど、チャリなんですね。なにせチャリライダーですからね。習慣です。呑み屋さんにもチャリでっていうのは、悪い習慣ってことですけれどね。


ツヅッチはですね、半年に1回ぐらい、いや、もっとかもしれませんが、顔にアオタンを作ったり、顔面半分をズルっとすりむいたりする、人騒がせな酔っ払いチャリライダーなんで、店側にも、呑み仲間にも注意されてはいるんです。

 

 

 


定量を超えるとカウンター席でストップモーションになっています。


「……」


「ツヅッチ、今、あっちの世界に行ってたでしょ。もう帰った方がイイんじゃないの」


「いや、オレ、ずっとここにいたよ」


「そこにいるのは分かってんの! もうアッパーでしょ。また転んじゃうから、チャリ置いて、歩いて帰った方がイイんじゃないの」


とにかく何回もそういう目にあってますからね、ツヅッチ。ん~ってしばらく考えたあとで、最近は素直に帰るようになってますけどねえ。


歩いて帰る分には、たとえ転んだとしても、アオタンってことにはならないと思うんですけど、チャリが足になっているんでしょうね。


「全然、大丈夫」


で、何日かすると、アオタンで現れます。


酔っぱらいのチャリライダーは別問題として、チャリなしには通常生活が送れませんよ、っていう人も少なくないんだろうって思います。


かなり見ますもんね、老若男女のチャリライダー。
買い物。幼稚園、保育園への子どもの送迎。補助モータ付きのママチャリは、街のスタンダードになってますよね。


そんな日本の現状の中で、2023年4月1日から道路交通法が改正されました。


「自転車利用者のヘルメット着用が努力義務化」されたんですよね。


周りのチャリライダーたちからは、めんどくさいよ、自分はヘルメットなんてかぶらない、って声が圧倒的だったんですけど、施工から2ヵ月が経とうとする2023年晩春。


みなさんの周りではどうでしょうか。


まだ半数には至っていない感じのヘルメット着用チャリライダーたちではありますが、以前に比べればけっこう増えて来ているように見受けられます。


道路交通法っていうのは国土交通省道路局の管轄で、窓口は警察庁なんですね。


「自転車利用者のヘルメット着用が努力義務化」の情報は、


警察庁「頭部の保護が重要です~自転車用ヘルメットと頭部保護帽~」

 

警視庁「自転車用ヘルメットの着用」

 

に載っております。


「自転車安全利用五則」っていうのが骨子みたいです。


「1 車道が原則、左側を通行 歩道は例外、歩行者を優先」


「2 交差点では信号と一時停止を守って、安全確認」


「3 夜間はライトを点灯」


「4 飲酒運転は禁止」


「5 ヘルメットを着用」


自転車は車両扱いですから、車道を走るのが原則ですよ、っていうことではありますけどね。
たいていの道路事情では、車道なんて怖くて走れませんよね。狭いんです。


自転車専用道が併設されている道路でだって、歩道を走っているチャリライダーはたくさんいるっていうのは、なかなか解せないんですけど、ま、これまでの習慣ってことなのかもしれません。


これまでずっと歩道を走って来たんですから、気持ち的になかなか切り替えられないっていうのも無理もないかもですけど、車両なんですよっていう感覚にしていってもらわないといけませんです。


信号とかを守らないチャリライダーも多いんですよね、これまたね。


ヒドイのになりますと、「ああ~、どいてドイテ~! ブレーキ効かないの」って突っ込んでくるおばちゃんチャリライダーもいたりしますけど、迷惑なだけじゃなくって、ちっちゃい子どもは避けられないでしょ! あんた自身も危ないでしょ! 

ったくもう、転んでしまえ!


っていうようなこともあるですよねえ。


たぶんおそらく、ああいうおばちゃんつありライダーは車の免許とかも持っていなくて、交通法規とかぜ~んぜん知らないんじゃないかって思いますよ。


そうなってくると、自転車も免許制にすればイイとか、そういう意見も出て来るですよ。
むちゃくちゃするヤツが出てくるから、法的な締め付けが出てくるっていうのは、どんなジャンルでもそですもんね。


チャリライダーのヘルメット着用努力義務っていうのは、チャリライダーが被害者になった時に、生命を守るための法律ってことになるんでしょうけれど、チャリライダーが加害者になるっていう事故も少なくないですよね。


高齢者を弾き飛ばしておいて、そのまま走り去って行くチャリライダーを目撃したことって、1回や2回じゃないですよ。おいおい、って思います。

 

 

単独事故で、自分の顔にアオタン作っちゃうのは、ばあか! で済むかもしれませんけれど、人と衝突しちゃったら、それは明らかな交通事故なわけで、そういう意識をチャリライダーに持ってもらうっていうのもヘルメット着用と同じくらいに大事なように思えます。


チャリによる人身事故、死亡事故もあるそうですからね。


ツヅッチは、擦り傷を作るたびに、10年1日、同じことを言っております。


「いやあ、なんでだかね、道路がね、こう、ずあああって向かって来るんだよね。あとね、コンクリートの壁あるでしょ、あれもね、急にこっちに曲がって来てね、ずあああって、やられちゃうんだよね」


ぶああかっ! 転んでしまえ! ってツヅッチはもう転んでるんですけどね。

 

 

 


チャリライダーのみなさん、ヘルメット着用、どうしますか?


バイクのヘルメット着用も、たしか最初は努力目標で、何年かして義務、法律になったような記憶です。


折りたたみできるような、軽いノリのチャリ用ヘルメットとかも、これから登場してくるかもですけどね。


気軽な乗り物のままチャリが利用できるかどうかは、日本全国、チャリライダーたちの交通意識にかかっている感じですよね。


チャリライダーの皆様、自分自身も歩行者にも、ご安全に!


溝の口駅前、今、どうなんでしょかねえ?