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【低徊趣味(ていかいしゅみ)】せかせかした世の中を 余裕をもって生きるということ

< 昭和の頃と比べて平成 令和って 世の中 どんどん忙しくなって来ているのかしらん >

生きにくい世の中だっていうのが、21世紀日本の特徴ですっていうことを耳にしますけど、それは日本だけに特徴的なことなんでしょうか。


地球規模でのコンピュータ社会、ごく最近はAI社会なんていうことも言われ始めていますけれど、道具に追い立てられるようになって来てしまった、現代社会特有の生きづらさなんでしょうかね。


人間的なやさしさ、みたいなものが決定的に減っているのかもです。


「江戸時代の町人なんてさ、身分制度があるとはいうものの、武士階級への出世とかを望まなければ、もっとさあ、かなり大らかに生きていられたんじゃないのかねえ」


なんてことを言う御仁がおられましてね、江戸時代の暮らしなんて知りゃしませんけれども、幕末って言われる前の江戸時代が大らかだったっていうことが、なんとなくホントらしく思えないこともないなあって感じはあります。

 

 

 


まあ、なにも根拠なんてありませんし、歴史的な文献に遺っているのは武士階級の出来事でなければ、百姓一揆のこととかがほとんですもんね。
江戸時代の日本人が大らかだったらイイけどねえ、って言う程度の思い。


仮にですね、江戸時代の暮らしが今よりも大らかなものだったとすれば、せかせかし始めたのは明治時代からってことになります。


不思議に、明治時代に対して、やさしさ、大らかさをイメージできません。


文明開化。西欧に追い付き追い越せ。不機嫌の時代。
ふむふむ。せかせかし始めそうですよね。


ちょんまげからザンギリ頭になって、着物から洋服。形式的には身分制度もだんだんなくなっていって、明治っていうのは日本の世の中の大転換時代。


明治だなどと上からは言うが、治まる明(メイ)と下からは読む。


江戸から東京に変わってからも年月は流れます。
東京に暮らす人たちの生活もいくらかは落ち着いたんじゃないかって考えても良さそうな、明治39年1906年に発表された「草枕」の中で、夏目漱石(1867~1916)はこう言っています。


冒頭部分。


※ ※ ※
やまみちを登りながら、こう考えた。
智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。
住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。
※ ※ ※


有名な部分ですよね。
明治39年の時点で「とかくに人の世は住みにくい」って言っています。


草枕の主人公は孤高の画家ですが、みんなガツガツしちゃってヤアねえ、ってことで、世間から距離をとっている人なんですよね。


もうちょっと余裕をもって生きましょうよ。っていう夏目漱石の、この頃の考え方が素直に出ている小説の冒頭だって言えるんでしょうね。


高等遊民」「ストレイシープ」「則天去私」だとか、新たな言葉を日本の中に浸透させた功績の大きい夏目漱石ですが、草枕は、中長編小説として「吾輩は猫である」「坊ちゃん」に続いて3作目の作品。

 

この当時「漱石一派」って呼ばれた、
正岡子規(1867~1902)
高浜虚子(1874~1959)
寺田寅彦(1878~1935)
鈴木三重吉(1882~1936)
たちは、文壇で「余裕派」「低徊趣味」って称されていたんだそうです。


東大予備門の同窓生だった夏目漱石正岡子規との付き合いも知られていますが、漱石に創作を勧めたって言われている高浜虚子正岡子規の門下生。


ビッグネームの交友関係って、意外に狭いモノだったりするんですね。


ところで、「低徊趣味」っていうのは、何でしょう。耳にしたことあります?


国文学を専攻している人たちにとっては知られた言葉なのかもですけど、知らんかったですねえ。


高浜虚子明治41年、1908年に発表した小説「鶏頭」に、夏目漱石が序を寄せていて、その中で言われた言葉なんだそうです。

 

 

 

 

「低徊趣味」


明治時代って、いわゆる「小説」ってうもののスタイルを確立しつつあるタイミングでしょうからね、いろんな小説の概念があーだこーだ盛り上がっていたんだと思います。


序の中で夏目漱石はこう言っています。


「小説の種類は分け方で色々になる。去ればこそこんにちまで西洋人の作った作物を西洋人が評する場合に、便宜に応じて沢山な名をつけている。傾向小説、理想小説、浪漫派小説、写実派小説、自然派小説などと云うのは、皆在来の述作を材料として、其著るしき特色を認めるに従ってこれを分類したまでである。種類はこれだけで尽きたとは云えぬ」


ま、いろいろ言われている小説の種類があるけれども、それで全てを言い当てることはできないっていうんですね。


小説の種類。
個人的には、小説に対してジャンルやカテゴリーを当てはめて云々することに意義を感じないんですけど、何によらず、分類っていうのが好きな人種はいつの時代にもいるんですよね。


時代の趨勢に合わせて世の中の流行り、小説の種類が推移していったっていうことじゃなくって、同時並列的に小説の種類が存在していた明治時代。


夏目漱石は、そういう時代の人ですから、巷で言われている「小説の種類」に入りきらないって判断されそうな、つまり評価が低くなされる可能性が大きい、友人、高浜虚子の「鶏頭」に序を寄せて、一席ぶったってことなんだろうと思います。


「虚子の作物を一括して、これは何派に属するものだとありふれた範囲内に押し込めるのは余の好まぬ所である」


小説の種類なんて、もっといっぱいあるでしょ、って言うわけです。
例えば、っていうことで序は続きます。


「虚子の作物を読むにつけて、余はふとこんな考えが浮んだ。天下の小説を二種に区別して、其の区別にかんれんして虚子の作物に説き及ぼしたらどうだろう」


「いわゆる二種の小説とは、余裕のある小説と、余裕のない小説である」


ここなんでしょうね。余裕派っていう呼ばれる由来っていうのは。


夏目漱石の分析するところによれば、世の中で評価されているのはもっぱら余裕のない小説ばかりだけれども、余裕のある小説が小説じゃないっていうことは出来ない。


「描く価値もあるし、読む価値もある」


っていう論陣を張っているのが、この序です。


「かように小説を二つに分けて見た所で虚子の小説はどっちに属するかと云うとまず前者即ち余裕のある方面に属すると思う。その余裕のある所が、ある一派の人から見て気に入らぬ所であろうと思われる」


だから説明しましょうって、夏目漱石はいくぶんリキミますね。知らんけど。


「文章に低徊趣味と云う一種の趣味がある。是は便宜の為め余の製造した言語であるから他人には解り様がなかろうがまず一と口に云うと一事に即し一物に倒して、独特もしくは連想の興味を起して、左から眺めたり右から眺めたりして容易に去り難いと云う風な趣味を指すのである」


ま、明治の文人の言葉としては、特にリキンデはいないんでしょうけれどね。


「所が此趣味は名前のあらわす如く出来るだけ長く一つ所に佇立する趣味であるから一方から云えば容易に進行せぬ趣味である。換言すれば余裕がある人でなければ出来ない趣味である」


せかせかしているヤツには分からないのが「低徊趣味」だって言ってます。


「いくら詩的になっても地面の上を馳けてあるいて、銭の勘定を忘れるひまがない」


草枕の主人公に言わしめた夏目漱石の定義した「低徊趣味」に合致しているのが、高浜虚子の「鶏頭」だっていうことですね。


「いわゆる禅味と云うものを解釈した人があるかないか知らないが、禅坊主の趣味だから禅味と云うのだろう。そうして禅坊主の悟りと云うものが彼等の云う通りのものであったなら余の解釈に間違はなかろうと思う。して見ると禅味と云う事は暗に余裕のある文学と云う意味に一致する。そうしてその余裕は生死以上に第一義を置くから出てくる」

 

 

 


ああ、なんとなあく分かるような気がして来ますね。


21世紀現在、「低徊趣味」っていう言葉、その概念が一般に浸透しているとは思えませんが、コロナ禍で失ったはずの時間を取り返そうとする感じで、ガツガツ動きまわり始めている、一定数の人たちを感じる、きょうこのごろ。


「低徊趣味」っていうのをじっくりと考えてみると、あるべきようは、プリンシプル、っていう言葉が示すナニモノカと同列な、ナニカを得られるかもしれないです。


何かをやり始めると、つい、せかせかセカセカしちゃう傾向、あるよなあっていう反省。


余裕って、何に対してでも、大事なことのように思います。


「銭の勘定を忘れるひまがない」んじゃなくって、数えるほどの銭を持たない者の酔人戯言でした。