< 人は なんで生きているのか って聞かれたら答えられますか? >
そう聞かれたら、知らんがな、って突き放してしまうことって出来ませんよねえ。
自分の子どもから、そんなデッカイ質問をされちゃったのは、マーちゃんっていうアラフィフのお母さんです。
呑み仲間なんですけど、もう10年以上の顔馴染み。
中学生になった娘さんがいて、「お母さん、あたし、なんで生きてんの?」って聞かれて、ショック!
っていうことなんでありますよ。
そりゃそうでしょうねえ。そんなこと聞かれちゃったらねえ。
娘さんは別に登校拒否とかいうんでもないし、ごく普通に中学生の生活を送っているように見える、ってことであるだけに、その質問がなんとも唐突に出されて、一瞬、息が出来なかったって言っていたマーちゃんなんです。
そんな質問されたら誰でもそうなると思います。
大きいっていうか、重いっていうか、異次元。
その娘さんも時々ですけど、一緒に来て居酒屋のチキン南蛮を食べたり、特別にオムレツを作ってもらって食べたりしていて、顔は知っているんですね。
ちっちゃいころから見知っている子どもです。
「お母さん、あたし、なんで生きてんの?」っていう質問は、ん~、大人になったんだねえ、ってことじゃ済まされない問題ではあります。
悩みがあったり、何かにつまづいたりってことでも無さそうだっていう、マーちゃんの判断なんですが、そうは思いながら、いかに母親だったとしても、見えない、判断できない中学生の生活があるのかもしれませんし、何かしらのSOSってやつなんじゃないかって心配しているわけです。
今の児童、生徒には、コロナ禍の影響、登校禁止、昼食の黙食、リモート授業。いろいろありそうですしね。
そんな中で、子どもの側から「人は、なんで生きているのか」なんて質問されたら、親子関係じゃなくたって心配になりますよね。
そんなことを質問するっていうのは、何か、ただならない出来事があったんじゃないかっていう心配。
そしてもう1つ。
その心配する気持ちの中に、質問された側に、つまりたいていの場合、大人の側に、答えが無いこともあるんじゃないでしょうか。
「何のために生きているのか」
同じ疑問を経験してきた親、大人も居るでしょうし、今まで生きてきた中でそんなこと考えたこともないっていう人も居るでしょう。
そういう質問をする側も、何か苦しいトリガーになる出来事があってそう考える場合もあるでしょうし、純粋な思考的疑問の場合もあるんだと思います。
そんな話をしていますと、マーちゃんは言いました。
「思考的疑問って哲学的、みたいなこと? それはないわよ、あたしの子どもだよ」
ってね、それは、子どもに対して失礼ってもんですよ。
今、生活している環境の中で、どんな本に出合うか、あるいは、なんかそういう質問を同級生に向けてしてくる友達がいるのかもしれないですしね。
高校生、大学生のお兄さん、お姉さんの居る中学生だっているでしょうから、哲学的思考の影響、洗礼を受けている中学生だって居て不思議じゃないです。
でも「人は、なんで生きているのか」なんて聞かれて、冷静に、それはね、とか説明の出来る人もいないんじゃないかって思いますね。
答えられます?
そもそも、その質問に対する明確明瞭な答えなんてあるんでしょうかね。
「自分の生存の意義や目的を知ろうとしたって、なんにも教えられはしません」
って言っているのは、アントン・チェーホフ(1860~1904)です。
チェーホフの書く物語の中心は、あくまでも登場人物たちの内面にあって、チェーホフの小説や劇では「何かが起こっても、何も起こらない」っていう評論さえあるような、巧みに考える作家がこう言っているんですからね、簡単に答えられたらノーベル賞ものです。
21世紀の今になっても国民的作家であり続けている夏目漱石(1867~1916)も、こう言っています。
「私はこの世に生れた以上何かしなければならん、といって何をして好いか少しも見当が付かない」
夏目漱石は右手であごを支えている写真が知られていますが、左手であごを支えている写真が有名な太宰治(1909~1948)はこう言っています。
「僕は自分がなぜ生きていなければならないのか、それが全然わからないのです」
み~んな悩んで大きくなった、とはいっても、大きくなっても、考えることを仕事にしている人でも分からないのが「人が生きる意味、目的」ってことになりそうです。
心理学者のフロイト(1856~1939)もこう言っています。
「これまでに何度となく、人生の目的は何かという問いが問われてきたが、まだ満足できる回答を示した人はいない」
こうして並べてみて、少し驚くのは、チェーホフ、漱石、フロイトは、だいたい同時代の人だってことだったりします。
でも人生の意味に疑問を呈して終わるのは、時代的な考え方とかいうことじゃなくって、1937年生まれのアメリカの哲学者トマス・ネーゲルは、
「人生は単に無意味であるだけではなく、不条理であるかもしれないのです」
とまで言っています。
じゃあ、まったく「人は、なんで生きているのか」に対する答えのようなものはないんでしょうか。
答えそのものとは言えないでしょうけれど、そのコアをとらえているんじゃないかっていうのがあります。
西行法師(1118~1190)の歌ですね。
「願わくは 花のしたにて 春死なん そのきさらぎの 望月のころ」
っていう一首が特に知られる西行法師ですが、本当にそのタイミングで命を終えていますからね、死の達人なんていう評価もあります。
その西行法師の歌。
「行方なく 月に心の 澄み澄みて 果てはいかにか ならんとすらん」
「何事に とまる心の ありければ さらにしもまた 世の厭はしき」
今、生きて在る自分を静かに見つめている孤高の目があるように思います。
「自分は、なぜ生きているのか」
そういう問いに対して、目的、目標を持とうとするのではなく、ただ生きていることが、生きている人間としての正しさなんだっていう態度さえ感じさせられます。
北面の武士、佐藤義清(さとうのりきよ)だった過去を持つ西行さんです。
月は本当にキレイナだなあとか、気になることもあるし、ヤなこともある。だけれども生きて在ることの自然さに悩むことはしない。考えない。
イヌやネコ、動物たちは、生きる目的なんて考えないでしょ。
人間も一緒でイイんです。
自分はこの先、どうなっていくんでしょうねえっていう、ある種、自分を見つめる客観的な自分を歌っているように感じます。
平安時代初期の歌人、在原業平(825~880)はこう歌っています。
「つひにゆく 道とはかねて 聞きしかど 昨日今日とは 思はざりしを」
ああ、自分の生も終わってしまうんだなあっていう思いですね。
この歌もまた、生きて在る自分を達観しているような気持から出てきているように感じます。
そして、この歌。
「思ふこと 言はでぞただに やみぬべき 我とひとしき 人しなければ」
西行法師よりも、ひときわ露悪的な感覚があるのかもしれませんが、しっかりと自分の孤独と向き合っている歌のように思えます。
「自分は、なぜ生きているのか」っていう疑問が、現時点での生活共同体の、ある種の同調圧力のようなプレッシャーから出てきているものだとすれば、っていうか多分にそういうところがあるんだろうと思うんですけど、自分は自分で、独りで、孤独で在ってもイイんだっていう腹の据え方を、親として、大人として説明できるところがあるかもしれないですね。
でもね、マーちゃん。そんな質問を、まっすぐに母親にぶつけてくる子どもって、信じてイイと思うですよ。
その母娘関係、悪くないっしょ。
「なんでそんなこと考えてんの」っていう方向じゃなくって、「そうねえ」とか言って、一緒に考えてあげられる「正しい」身内だっていうことは間違いないんでしょうかね。
どっかヨソのオッサンが何か言うんじゃなくって、お母さんが一緒に考えるってことでオッケーだと思うですよ。
たいていの哲学的課題って、答えとか、ないでしょ。
中学とか高校って、その3年間が人生の全てみたいに考えちゃうのが普通だと思うんですけど、そこを通り過ぎてからの方が圧倒的に長い人生ですから、独りの強さを自覚できるのは早い方がイイんでないかい?
ん? イイのイイの、考え始めるのが、お母さんも一緒のタイミングだったとしても、別に、イイじゃん。
強い精神力で、自由に生きる孤独さについてとか、なかなかオサレな母娘の会話じゃ、あ~りませんか。ね。
コロナになんか負けちゃいけませんです。絶対にです。
1人独りで対処するしかないんです。
コロナってやつにはね、油断大敵雨あられ。
生きる目標がないとダメよ、な~んて言っている人がいたら、その人、たぶん金星人ですよ。
生きる目的なんて、あっしには、これっぽっちもありませんです。
ただただ、ぼんやり生きておるでありますよ。
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