< 元始 女性は実に太陽であった 真正の人であった 今 女性は月である 他に依って生き 他の光によって輝く 病人のような蒼白い顔の月である >
イギリスで始まった「ブルーストッキングサークル」っていう集まりがフェミニズム運動の原点、らしいですね。
単に「ブルーストッキング」って言えば、知的で文学的な女性っていう意味。
日本では「青鞜(せいとう)」って言って、平塚らいてうが1911年、明治44年に発刊した女性解放運動雑誌の名前として知られています。
青鞜 イコール ブルーストッキング。
上にあげたのが、その発刊の辞の最初の部分です。めっちゃシリアス。気合入ってます。
でもですね「鞜」っていう字は「くつ」っていう意味で、とくに「かわぐつ」のことを言うんだそうで、ストッキングじゃないみたいです。
「青長靴下」っていうんじゃ語呂が悪いとか、そういう理由で「青鞜」でブルーストッキングを表したんでしょうかね。
この辺りのことを考え始めますと、そもそも明治44年の日本にストッキングってあったの? みんなが知ってるものだったの? って疑問に行きつきます。
日本人が下駄や草履の生活から靴を履くようになったのは明治時代以降でしょうけど、明治末年、44年頃にどれだけの日本人が靴を履いていて、ストッキングどころか、靴下っていう物にさえ馴染んでいたかどうか疑問です。
で、また、明治時代ってある意味、翻訳の時代でもあるわけで、海外の言葉をどんどん日本語にしていますよね。外国語の発音を模したカタカナにして済ます場合もありますけど、新しい漢字表記も一気に増えたみたいです。
その時だけ広まって、すぐに別の漢字表記、あるいはカタカナにとって代わられた言葉もたくさんあるんでしょう。
イイとかワルイとかじゃなくって、まだまだ欧米との生活様式差異は大きかった時代でしょうしね。
鞜っていう字をストッキングって読ませたかった、ってことも考えられなくはない、ですかねえ。どうでしょ?
欧米に追いつき追い越せの意識って、今の我々には理解できない必死さみたいなものがあったように思います。
明治の文豪、夏目漱石もたくさん「新語」を作り出しているですよね。作品を読んでいて驚かされることって、けっこうあります。
しかしですね、新語、造語っていう言葉のあてはめ以外にも分からないことがあります。
そもそもイギリスで、青いストッキングが、なんでフェミニズムにつながったんでしょうか。
不思議。なんで青?
15世紀、ヨーロッパ貴族の男性たちが履いていた長い靴下を「ホーズ」っていうんだそうで、それがストッキングのルーツなんだそうですね。
そういえば、ヨーロッパ貴族を描いた昔の絵画を思い浮かべますと、男性はチュニックの下から伸びる脚に靴下っぽいものを穿いてますね。あれがホーズってやつなんでしょね。
かつらを被るのが貴族の当たり前の恰好だった時代。
音楽室に並べてあったバッハとかショパンとかがそうでしたね。白髪のかつらを被ってました。
ま、音楽室のバッハは全身像じゃなかったんで、ホーズを履いているであろう腰下までは描いてありませんでしたけどね。
日本では靴下のことを赤ちゃん言葉で「タンタン」とか言ったりします。
義務教育に入ってからはソックスでしょうか。
ソックスは短い靴下って意味なんだそうです。で、長い靴下をハイソックスって言っているのは日本独自の造語だそうで、長いのはホーズっていうのがホント。
へええ、です。
ちょっとブルーストッキングからズレちゃいますけれど、長い靴下っていうと、日本ではルーズソックスなんていうのもありますですね。
1993年から1998年くらいがブームのピークだったらしいルーズソックスですが、宮城県仙台市の女子高生たちが防寒目的で大きめの靴下をゆるく履いてみたら、靴下のボリュームによって脚が細く見える、ってことからあっというまに全国的に浸透したっていう説があります。
女子高生ネットワーク、恐るべしですね。
ま、いろんな説があるんでしょうけれど、1992年に渋谷の当時のソニープラザ、現在のPLAZAで登山用の肉厚で丈の長いアメリカ製「ブーツソックス」が売り出されると、それをゆるく、ルーズに履くことが人気ファッションになって、あっというまに女子高生のスタンダードファッションになりました。
そこで、日本メーカーがこぞって売り出したのがルーズソックス。
あれって脚を細く見せるオシャレだったんですねえ。
「寒い日は思いっきりミニスカートの中までたくしあげて、さっさと家に帰るんですよお」
っていうのを聞いたこともありますです。
寒い日はそうなりますよねえ。ルーズソックスを股下まで引き上げて履いたらストッキングになるんでしょか。ホーズ?
オシャレもなかなか大変ですけど、ヨーロッパ貴族男性から日本の女子高生まで、その美意識は違っていてもホーズって連綿と受け継がれている「靴下」「ストッキング」ってことは言えそうです。
ホーズの歴史の中でルーズソックスは例外的な存在になるのかもですけど、ホーズがストッキングになるのは19世紀末。女性のスカート丈が世界的に短くなり始めてからだそうで、男性ファッションの象徴だったホーズが女性のストッキングになっていったみたいです。
この頃はガーターベルトで吊る履き方ですね。カッチョイイってことで、今でも愛好家は少なくないようですけど。
1938年にアメリカでナイロンが発明されて、1952年に日本製の「シームレスストッキング」が売り出されます。
当初はその肌色が「素足に見える」っていう理由で、あんまり人気がなかったんだそうです。
ところが、日本で人気のないシームレスストッキングをアメリカに持って行ってみると、既にアメリカにもシームレスストッキングはあったそうなんですが、履き心地がイイってことで日本製のシームレスストッキングが大流行り。
逆輸入したような形で日本の女性にも受け入れられていったそうなんですね。
この辺りになると、ストッキングはほぼ女性ものになっている感じでしょねえ。
1968年になると「パンティストッキング」が売り出されます。ガーターベルトの手間が要らないってことで一気に世界中を席巻。
調べてみて初めて知りましたけど、パンストの歴史ってそんなに古くないんですね。
強盗がパンストを被るようになったのもそんなに古くない、ってことになりますけど、あれはどういうアイディアなんでしょか。ストッキングの歴史とはなんの関係もないですけどね。
1978年にはフィット感が強くって伝線しにくい「サポーティストッキング」が売り出されて、今はほとんどがサポーティストッキングなんだそうです。
へええ、です。
ストッキングなんて履いたこともないですからね、このサポーティストッキングなんて初耳です。知らんです。
女性陣には当たり前のことなんでしょうけど、世の中、どんどん進化しているんですねえ。
ナイロン素材が浸透してきた頃によく言われたっていうのが「戦後、強くなったのは女と靴下」
これは朝日新聞の記者が愛媛県伊予のミカン山で取材をしていた時、案内してくれていたミカン農家の男性が、
「ここらの農家のカカアどもがほんまに強うなりくさって、戦後強くなったのは女と靴下じゃなあ」
って笑いながら言ったことを記事にしたら、全国に広まって流行語になった、っていうことみたいです。
ここで言っている靴下って、ほぼストッキングのことなんでしょうかね。
こうしてストッキングの歴史を見てきても「青鞜」フェミニズムはどこにも出てきません。
ってことで、フェミニズムの方から調べてみますと、1750年頃、ロンドンの社交界で、特に夫人たちの集いを「知的なもの」に変革しようとしたモンタギュー夫人っていう人がいたみたいです。
モンタギュー夫人が主催していたサロンに講師として招かれていた植物学者、ベンジャミン・スティリングフリートっていう人が履いていたのがブルーストッキング。
それでモンタギュー夫人が主催する知的なサロンのことをブルーストッキングって呼ぶようになりました。
ん? この説明だと、なんだか納得しがたいですよね。
18世紀、この当時のストッキングは男性用で、絹製の黒、あるいは白、っていうのが貴族階級の定番だったそうです。
言ってみれば、黒か白のストッキングが正規の服飾アイテムだったってことでしょうね。ドレスコードみたいな感じ? だったんでしょねえ。
身分制度のあった昔は、身分によって身につけてイイもの、ダメなものがあったり、色の制限もあったそうですからね。
規律に則った身だしなみをすることが社会参画の常識。
絹のストッキング、ホーズをルーズソックスみたいにたるませて履くなんていうのは、もってのほか、だったみたいです。シワ1つあってもいけない。
裕福ではなかったらしいスティリングフリートが履いていた青いストッキングは絹じゃなくって毛織。
余計に目立っていたでしょうね。
でも毛織だとしても色を黒か白にすることは、特に苦労せずに出来そうに思えます。
なんだってワル目立ちするような青を選んだんでしょう。
青い色に意図がありそうです。
それに、モンタギュー夫人のサロンに毛織のブルーストッキングを履いた男性が出入りしているからといって、その名前を知的な女性の集まりの代名詞にしたっていうのも、ちょっとね、不可解です。
それなのに、平塚らいてうがモンタギュー夫人の意識を尊んで、日本にストッキング文化なんてなかった時代に「青鞜」っていう名前を雑誌に付けたのには、サロンの講師として出入りしていたスティリングフリートが青いストッキングを履いていたからっていう以外に理由がありそうです。
そもそも「青鞜」って、平塚らいてうの造語なんじゃないでしょうか。
もちろん、モンタギュー夫人も誇りに思って名付けたはずのブルーストッキングの意味。
女性の人権を守ろうっていう運動に、大賛成だったんでしょうね、スティリングフリートっていう植物学者は。
だからこそモンタギュー夫人のサロンに講師役として招かれていたんでしょう。
史実がどういうものだったのかハッキリしませんが、ベンジャミン・スティリングフリートは女性解放っていう考え方と共に、当時の貴族社会が重んじていた形式尊重意識に反感のある人だったのかもしれません。
身分制度、古い生活意識は変革されるべきだっていう考え方。
ストッキングは絹製で、白か黒か、っていうのが常識だった当時のサロンは男性の集まり。
そんなイギリス社会の常識に対して、女性にもってことで、女性の知的サロンの存在を確立しようとしたのがモンタギュー夫人。
その意識に呼応して、絹ではなく庶民的な毛織の、白や黒ではない青色のストッキングでサロンに参加するスティリングフリート。
これまでの常識を覆していこうっていう強い意思表示。それが毛織のブルーストッキングだったんじゃないでしょうか。
変革の旗印。それがブルーストッキング。
イギリスではこれ以降、モンタギュー夫人のブルーストッキングサークルは脈々と受け継がれていったみたいです。
夏目漱石(1867~1916)は、1900年から1902年の間イギリスに留学しているんですが、モンタギュー夫人についてこんなことを言っています。
「女に少々学聞が出来て、幾分かむずかしい談話に口を挟むようになったのは18世紀の中頃以後の事である。その「青靴下」という字はこの時代から始まったのである。この「青靴下」の隊長はモンタギュ夫人であって、当時の婦人の馬鹿で無学なのを憾慨するの余り率先して精神的修養を奨励したのである。なるべく男子に愚弄せられないようにと奮発した」
え? 馬鹿で無学? こんな文章を夏目漱石が書くの? って感じもしますけど「青靴下」って表現していますね。
こんなことも言っています。
「倶来部というのは別段独立した建物がある訳ではない。上の珈琲店とかまたは料理店へ時を期して会員が聚るだけの話であるが、その数は非常なもので、毎夜沢山の会合があったものと思われる。調べて見ると倶楽部というのは当時流行物で、何でもかんでも倶楽部組織にしたように見える」
当時のイギリスに文学的な盛り上がりがあったってことなんでしょうね。
18世紀。産業革命が始まっています。さらにイギリスでは議会政治が定着して、本格的資本主義経済が成立しています。植民地経済ですね。
イギリス上流階級に何よりも必要とされたのは、教養っていう時代だったのかもです。
夏目漱石っていえばロンドンでノイローゼになったっていうエピソードが知られています。
ホントなんでしょうか。
1900年、熊本第五高等学校、現在の熊本大学で英語教師を務めていた夏目漱石は、明治政府の文部省からイギリス留学の命令を受けます。
当時、経済であれ軍事であれ、随一の強大国だったイギリスとの軍事同盟を望んでいた日本政府は、英語を自由に使いこなせる日本人をたくさん育てたかったんでしょうね。
夏目漱石が受けた命令は「英語教育法研究」だったそうです。
英文学を研究したかった夏目漱石ですが、英語教育法を勉強、研究することには強い違和感を持っていたみたいですね。
イギリスにいるのに、文学とはほとんど接点がない。
なんだかなあ、ってことで神経衰弱になってしまいます。胃が痛い。
日本からのさまざまな友人知人たちも、それぞれの役目を持って入れ代わり立ち代わりロンドンを訪れます。
漱石の神経衰弱の様子を見た友人たちが文部省に掛け合おうかっていう話が、文部省に「夏目、発狂」の噂として伝わったみたいなんですね。
で、慌てた文部省から1902年師走に帰国命令が出されて、夏目漱石は日本に帰って来ることになります。
ちなみにこの1902年1月には日英同盟が調印されています。
帰国した夏目漱石は東京大学の英語教師を務めたりしていますが、1905年ごろから小説「吾輩は猫である」を書き始めて、1907年には職業作家になっていくんですね。
人気作家である夏目漱石の家にはいろんな人たちが集まって来て「漱石山房」なんて言われ始めます。
漱石山房の四天王って呼ばれる作家たちがいます。
文芸評論家の小宮豊隆、児童文学者の鈴木三重吉、哲学者の安倍能成、そして作家の森田草平(そうへい)です。
森田草平は1907年に開校した、女子学生が文学を学ぶための「閨秀文学講座」で講師を務めているんですね。
「閨秀文学講座」の主宰は与謝野鉄幹。与謝野晶子のダンナ。
与謝野晶子も講師として参加していたようです。
「閨秀」なんて言葉は古い書籍以外では見かけない言葉ですよね。学問、芸術にすぐれた女性っていう意味。
森田草平っていう人は、漱石の弟子として名前を知ってはいますが、その作品を全く知りません。
後述する心中未遂事件のことを書いた「煤煙」っていう小説が長く読まれているみたいですけどね。
イプセン、ドストエフスキー、ゴーゴリ等の作品を翻訳してもいるようですので、外国語に巧みな作家だったのかもしれないです。漱石門下ですからねえ。
元紀州藩士で教育熱心な明治政府の官僚、会計検査院の娘が「閨秀文学講座」に通っていて、初めて書いた小説を発表したところ森田草平が褒めちぎったそうです。
1908年に22歳になるその娘、明(はる)に、いくつかの私生活の不祥事を指摘されていた森田草平が急速に接近します。
金沢の第四高等学校時代に女学生との同棲がばれて、退学処分になったり、その女性と結婚してから借家の家主の娘と不倫関係になったり、漱石門下生としてかなり特殊な存在だったみたいですね、森田草平っていう人は。
イタリアの作家ガブリエーレ・ダンヌンツィオの、芸術至上主義の小説ともいうべき「死の勝利」に感化された2人は、文学的よろめきだったのか、栃木県塩原で心中未遂事件を起こすんですね。
この時、森田草平27歳、平塚明22歳。
明が自宅に遺書を残していたことから栃木県警の捜索が入って、雪深い山の中でさまよっているところを救助されています。
2人で死を求めて歩くうちに森田草平はすっかり疲れてしまって、用意していた短刀を投げ捨てて、心中自体は未遂に終わっていたっていうのが、この「塩原事件」の実情だそうです。
でもまあ、現場となった尾頭峠付近はかなり雪が深かったみたいですから、自殺の意志がなくたって遭難する可能性もあったでしょうからね、とんだ人騒がせな事件を起こしちゃったもんです。
連れ戻されてからの森田草平を、夏目漱石は2週間ほど自宅に隠して騒ぎ立てるメディアから守っていたそうです。
一方の平塚明は、別荘があったのか、東京の喧騒を離れて長野県で過ごしています。
結果的には2人ともヘーワな心中未遂事件だったわけですね。ただ、ニュースになって恥ずかしいだけ。
夏目漱石は平塚家に対して森田草平と明の結婚話を申し出たりしているらしいんですね。
これってホントなのかなって思いますねえ。森田草平って妻子ある身なんですよ。
一緒に死のうとは思ったけれど、結婚なんて頭の片隅にもなかった明はその話を聞いてあきれ返ったそうです。
夏目漱石って。。。って思っちゃいますねえ。
だいぶ文豪のイメージが変わっちゃいました。
そんなこともありながら、明は長野県の山々と向き合いながら事件の鎮静化を待ったようですが、「閨秀文学講座」の開校にも参加していた、女性の文学振興に活躍していた、作家の生田長江(ちょうこう)の勧めを受けて、日本で初めての女性による女性のための文芸誌を発刊することを決意します。
その時、長野の高山の厳しい環境に暮らす雷鳥にあやかって「平塚らいてう」っていうペンネームを考え出したんだそうです。
そして明治44年、1911年。母親が用意しておいた明の結婚資金を切り崩して予算を付けてくれて「青鞜」が発刊されるんですね。
覚悟の在りどころが、ちょとばかし違っていそうです。
「元始、女性は太陽であった 青鞜発刊に際して」っていう有名な平塚らいてうの発刊の辞とともに、与謝野晶子がよせた「そぞろごと」も知られています。
※ ※ ※ ※ ※
山の動く日来る。
かく云へども人われを信ぜじ。
山はしばらく眠りしのみ。
その昔に於て
山は皆火に燃えて動きしものを。
されど、そは信ぜずともよし。
人よ、ああ、唯これを信ぜよ。
すべて眠りし女(をなご)今ぞ目覺めて動くなる
(後略)
※ ※ ※ ※ ※
賛助員として、長谷川時雨、与謝野晶子、森鴎外夫人森しげ子、歌人の小金井喜美子、小山内薫の妹岡田八千代、国木田独歩夫人国木田治子等の名前がありますね。凄い雑誌です。

編集長として活躍していた平塚らいてうでしたが、1912年、26歳の時に、茅ケ崎で5歳下の美術学校生、奥村博史と出会って恋仲になります。
「新しい女」の雑誌として出発した青鞜でしたが、コンテンツがあまりに奔放だったからなのか「ふしだらな女」っていう評価にだんだん変化していったみたいです。
何回かその内容によって発禁処分も受けています。
平塚らいてうは当時の結婚制度に対する反発から、1914年、奥村と事実婚の同居生活に踏み切ります。
画家となった奥村は、すぐに絵が売れるはずもなく、2人の生活は平塚らいてうの収入に頼るしかない中、同居生活と青鞜編集の両立が難しくなっていきます。
奥村博史は責任を感じたんでしょうね、後にらいてうによって公表される有名な別れの決意を告げます。
※ ※ ※ ※ ※
静かな水鳥たちが仲良く遊んでいるところへ
一羽のツバメが飛んできて平和を乱してしまった。
若いツバメは池の平和のために飛び去っていく
※ ※ ※ ※ ※
とくに巧いとも思えない決別宣言なんですが、この中の「若いツバメ」っていう言葉が大流行りしたんですね。
まあ最近は聞かない表現ですけれども、女性より年下の恋人のことを「若いツバメ」って言うのでありますよ。
こんなところにも平塚らいてうの足跡が見られるっていうの、面白いです。
青鞜の仕事が上手くこなせなくなってきた平塚らいてうは、編集長の座を降りることにします。
で、大正4年、1915年、青鞜の編集長の座を継いだのが、これまた超有名な「伊藤野枝」です。
この時、20歳。平塚らいてうは29歳です。
大正時代、実にいろいろあるですねえ。
「原始、女性は実に太陽であつた」っていう平塚らいてうに対して、伊藤野枝は「吹けよ、荒れよ、風よ、嵐よ」ってなことを言っています。激しい人なんですね。
青鞜の編集を引き継いでから1年ほど経ったころ、伊藤野枝は大杉栄と出会って、夫と子供から離れて行動を共にするようになります。でもって青鞜の編集作業も放っておくようになってしまいます。
伊藤野枝、自由過ぎ。
大正5年、1916年、青鞜は無期休刊となってしまいます。
大正12年、1923年の関東大震災の混乱の中、甘粕事件によって伊藤野枝は大杉栄、大杉の甥と共に惨殺されて自由奔放な一生を閉じます。
28年の人生でした。
青鞜がなくなってしまってからの平塚らいてうは、大正8年、1919年に市川房枝、奥むめおらとともに「新婦人協会」っていう婦人団体を結成します。
婦人の社会的、政治的権利を獲得しようっていう団体。
ここで、ほほうって思うのが市川房江っていう名前ですね。
大正8年、平塚らいてう33歳。市川房江26歳。
市川房江さんの活躍はテレビで見た記憶があります。そんなに遠い人じゃないですね。
日本で婦人参政権が認められたのは戦後、昭和20年、1945年ですから、長い戦いだったんですね。
平塚らいてうの具体的な行動としては、日本の結婚制度、家制度を受け付けないで、平塚家から分家して戸主となり、奥村との間の2人の子供を私生児として自らの戸籍に入れています。
2024年現在「夫婦別性」が結婚制度のっ問題として取り上げられていますけれど、ずっと昔から主に女性側の戦いとして続いているんですねえ。
平塚らいてうは、婦人運動として反戦、平和運動にも精を出しています。
「再軍備反対婦人委員会」「世界平和アピール七人委員会」「新日本婦人の会」「ベトナム話し合いの会」いろいろやってますねえ。
「女たちはみな一人ひとり天才である」って宣言した孤高の行動家、平塚らいてうは昭和46年、1971年に86歳の生涯を閉じます。
お孫さんが平塚らいてうを評して「身長は約145センチで同世代と比べても小柄。声は小さく内向的で言葉少ない人だった」って言ってますね。
ん~。内向的って、どうなんでしょねえ。
大正時代の有名な美人さんたちを見てきましたが、熱い人たちばっかりでした。
血潮が熱い。
「柔肌の 熱き血潮に 触れもみで 悲しからずや 道を説く君」
って言う与謝野晶子っていう美人さんもいました。
「恋をしなさい。好きと言えないなんてケチな根性よ」
あたし、死なないような気がするの、とかも言っていた宇野千代さんもなかなかの男性遍歴だったみたいですよね。
宇野千代さんはこんなことも言ってますよ。
「うまくいっている夫婦というのは、お互い言いたいことを言っているように見えても、言うべきことと、言ってはいけないことをちゃんとわきまえている」
宇野千代、別嬪さんですね。
こうやって大正時代の美人さんを探していくと、まだまだキリがなさそうなので、このへんで。
しかしまあ、みなさん、肉食系!
今回、出会った美人さんたち。21世紀の現在でも、もうちっと評価が上がっても良さそうな気がしますけどねえ。
与謝野晶子1878年(明治11年)~1942年(昭和17年)
長谷川時雨1879年(明治12年)~1941年(昭和16年)
平塚らいてう1886年(明治19年)~1971年(昭和46年)
萬龍1894年(明治27年)~ 1973年(昭和48年)
実になんともカッコイイ女たち。。。
令和の美人さんたち、負けてちゃいけませんですぜ。
長のお付き合い、ありがとうございました。
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