<李白・杜甫が心酒を嘗めて 寒山が法粥を啜る さて きょうはどっちをいくべきか>
「夕涼み よくぞ男に 生まれけり」などの句で人気の宝井其角(たからいきかく)は松尾芭蕉の弟子の俳人ですが、1683年に初の句集「虚栗(みなしぐり)」を出しています。
その後書きに芭蕉が書いたのが「李白・杜甫が心酒を嘗めて 寒山が法粥を啜る」
弟子の句の出来を評した言葉の一部ですが、最高級の褒め方ですね。其角という人も相当の才能です。
酒を愛して、呑んでは詩を吟じたとされる李白と杜甫は、8世紀、唐の時代の詩人ですね。二人とも酒で死んだとされています。そう言われるほどの酒好きだったそうで、酒といえば李白、杜甫なんですね。
ちなみに宝井其角という人は酒が弱かったらしいです。でも酔人の境地が分かっちゃう。
芭蕉の評価は、あくまでもその句が、中国の酒精詩人二人の域に達しているという意味で「李白・杜甫が心酒を嘗めて」としたんだと思います。
其角は臨機応変の人で、面白い逸話が残っています。
宴席で一筆を求められた有名な書家が「この所 小便無用」と書きつけておおはしゃぎ。なんじゃそのセンスは空気を読めよっていうんで、座はどっちらけになってしまった時、居合わせた其角がすかさずその筆を取って「花の山」と続けて座を保ったという話です。
蕉門とされる俳人たちは其角に限らず、こうした臨機応変で、しかもウィットに富んだ応答ができたようで、こんな逸話もあります。
赤穂四十七士の1人、大高源吾も俳人として名高い人で、蕉門ではなかったようですが、其角と交流があって、討ち入りの直前に「すす竹売り」に身をやつしている時にばったり出会ってしまった。
其角が、
「年の瀬や 水の流れと人の身は」
と詠んだのに対して、
「あした待たるる その宝船」
と返すシーンが歌舞伎にあります。
こうした芝居に取り上げられるぐらいに、江戸の町で知られた人気者だったんでしょうね。
この後付けの逸話に妙なところで感心させられてしまうのは、松尾芭蕉、蕉門の俳人たちと、赤穂浪士たちが、同じ空気を吸って、江戸、東京の街を歩いていたんだなあってことだったりします。
有名な俳人たちにも、赤穂浪士たちにも、普通の生活があったんですよねえ。ふうむ。
さて「李白・杜甫が心酒を嘗めて 寒山が法粥を啜る」に戻ります。
李白、杜甫は有名人ですから、名前だけでも知っている人は少なくないと思いますが、寒山の方はどうでしょうか。
李白、杜甫より少し前の時期になりますが、やっぱり唐の時代の人です。お坊さんですね。
森鷗外に「寒山拾得(かんざんじっとく)」という短編がありますが、この「寒山」がその人です。
では「拾得」とは何でしょう。
じつはこれも同時代のお坊さんの名前なんですね。
「寒山拾得」を読むまでは全然知らない名前でしたが、2人ともに中国画の題材となっているレベルの高僧だそうですから、中国では有名なのかもしれません。
「風狂」の人として知られています。2人が2人とも「風狂」の人。
その寒山の啜る「法粥」とはどんなものでしょう。
少し長い逸話が残されています。
寒山と拾得が中国画の題材として人気のキャラクターだということに間違いはないんですが、実はもう1人、寒山、拾得と並べられる風狂人が居るんですね。
豊干(ぶかん)禅師です。
寒山と拾得については実在したかどうか疑問視されることもあって、禅師と呼ばれることも無いんですが、豊干という人は禅師と呼ばれるのが普通です。臨済宗の修行を積んだ高僧とされています。
ですが、この豊干という人も、虎にまたがってお堂の中を歩いたりという「風狂」な逸話が残っていたりして、やはり実在したかどうか判然としないみたいです。
森鷗外の取り上げた「寒山拾得」の逸話は、中国では語り伝えられてきたものなんだろうと思いますが、日本ではさして知られた話ではないと思います。
登場するのは、もちろん寒山、拾得、と豊干です。そしてもう1人、狂言回しのような役割を担う「閭丘胤(りょ きゅういん)」という役人が居ます。
4人ともが実在の人物ではない可能性もありますし、4人とも実在した可能性もあります。
寒山、拾得、豊干は風狂の人ですが、閭丘胤という役人さんは今でいう知事さんみたいな役職で、実務の人です。
閭丘胤が知事に昇給して都会へ旅立つ前、頭痛に悩んでいたところへ、みすぼらしい姿の豊干が現れて、碗に汲んだ水に閭丘胤の精神を集中させたかと思うや否や、その水を口に含んでプワーっと閭丘胤の顔に吹きかけます。
人の上に立つことを天命と意気に燃える閭丘胤はカッとなりますが、声を出す隙も与えず豊干は、
「頭痛や如何に」
歩けないほどに悩んでいた頭痛が嘘のように消えていたので、礼を授けようとすると、受け取らない。
自分はこれから知事として台州へ赴くんだけれど、と話をすると、豊干はその台州から来たという。
台州には誰か会っておくべき人物は居るかと尋ねると、天台山に文殊菩薩の寒山という男と、普賢菩薩の拾得という男が天台山に居ると言って、豊干は去っていった。
後日、台州へ赴任した閭丘胤は、周りにかしずかれ、下にも置かない扱いに満足しながら知事生活を謳歌していた一日、みすぼらしい豊干の言葉を思い出して天台山を訪れてみた。
寒山と拾得は、あっさり見つかった。2人は寺の台所の隅に並んで座っていた。豊干よりさらに汚れた姿をした小男たちだった。
それでも文殊菩薩と普賢菩薩だという話を思い出して、丁寧に話しかけた。まずは自分の輝かしい役職から名乗り始めると、豊干がしゃべったんだなと、2人は大声で笑いながら山の方へ走って行ってしまった。
山の岩場まで追いかけていくと、「まあ頑張りなさい」という声を残して2人とも消えてしまった。
だいたいこんな話なんですが、拾得は豊干が山の中で拾ってきた捨て子だったそうで、それで名前が「拾得」
寺の炊事の洗い物が担当で、仕事は真面目にやるけれども、ワアワア大声で喚きながら堂内を歩き廻ったりするという奇行で知られた男で、寒山とだけは仲が良かった。
寒山は才を認められないことから世を捨てた詩人で、独り、山の中で暮らしていた男。隠棲人ですね。
仲の良い拾得を訪ねていくと、いつも食器を洗った際に出る残飯を寄せ集めて入れてある竹筒を渡してくれる。
その竹筒を持って山に戻る帰り道、季節の野草を摘んで竹筒に入れる。
そうして出来上がるのが寒山粥と呼ばれるもので「法粥」の正体です。禅宗の修行僧たちがガサツに食事をするはずもなく、そもそも精進料理を食べ残すなんてことは考えにくいことです。
つまり、せいぜいというか、ようやく「粥」と呼ぶしかないシロモノ、だということでしょう。
李白、杜甫の贅沢とはいえないまでも享楽の酒に対して、人間の食べるものとしてこれ以下は無いとさえいえるような寒山の法粥ということですね。最上級から最下級まで。
森鷗外という文豪が「寒山拾得」で書きたかったのは、もしかするとですが、寒山や拾得ではなく、もちろん豊干でもなく、エピソードとしてはわき役の「閭丘胤」だったのかもしれません。
文豪であり、陸軍中将、高等官、さらに医学博士、文学博士であった森鴎外。
女性問題で小倉に左遷された経験もありながら、様々な役職に就いて軍人としても役人としてもトップ階級であった人ですから、軍役を退く、行きつくところが見えてきた年齢になって、ふと頭に浮かんだ役人の虚しさを「閭丘胤」という人物に見て書いたのかもしれません。
役職に縁のない一般人には、なかなか理解できそうもない心境。閭丘胤という高級官僚が寒山拾得に取り残されてしまった時の感情は、同じような役職を経験していないと分からないことだと思います。
どっちが、より人間らしいといえるのか、という疑問。
森鷗外は「寒山拾得縁起」という「寒山拾得」を書くにあたってのエピソードも残しています。
その中で「寒山拾得」を書いたのは、寒山詩というものを知った鷗外の子供が、寒山について質問するので、それに応えるために書いた、というような理由を記しています。
この時の、鷗外を問い詰めた子供というのは、たぶん「森茉莉」だったろうと思います。
「寒山拾得」を発表した1916年。長男の於菟は26歳ですから、父親に寒山についての質問をするとは思えません。長女の茉莉が13歳です。次男の不律は既に亡く、次女の杏奴は7歳。三男の類が5歳ですから、寒山詩に興味を示して、父、森鷗外に寒山の物語をさせたのは、13歳の茉莉が最も可能性が高そうです。
にしても森家の子供たちの名前って、かなりユニークですよね。
さてさてきょうは、李白、杜甫の酒の酔いの世界に遊ぶか、寒山拾得の人の世を悟りきった粗食に甘んじるか、まあ、どっちを選んだにしても、どちらの境地にも程遠いレベルでしか味わえませんけれどね。
はい、どっちにしても酒の話です。ん? 寒山と拾得は酒とか呑まない、でしょうかねえ。風狂ってなんなんでしょうかねえ。これも真似できませんよねえ、正体が分かりませんので。
森茉莉っていう人も風狂だったらしいですけれどねえ。
最後に、森鴎外の「寒山拾得」は青空文庫で読めますです。