< 気取らずに旨い芋焼酎「濱崎太平次」は濱崎家の末裔が黒麹と関平鉱泉水で造っているですよ >
はい、またしても、いつもの焼酎バーです。
暖簾をくぐって引き戸の入り口をガラガラと開けますと、カウンター席の奥に見える厨房から大将がいつものごとくニンマリと「いらっしゃいませ」
女将さんがカウンター席の椅子を引きながら、
「はい、こちらどうぞお。焼酎の季節になってきましたねえ」
へ? 焼酎の季節? そんなんあんの? オールシーズン焼酎、泡盛のロックでいってますけど。
「たまにはお湯割りもイイと思いますよ。新しい芋をね、いれてみたんですよ。これ」
って、カウンターの棚上からグイっと持ち上げて目の前におかれた一升瓶のラベルには「濱崎太平次」
ん~。誰でしょか?
「太平次さんが誰だか知りませんけどね、酒屋さんに勧められて。鹿児島の芋なんですけどね、黒麹。前にぱうすさん黒麹が旨いかもなあって言ってたでしょ。それと大事なのがね、もちろん、水なんだけど、なんて言ったか忘れちゃったけどイイ水で仕込んでるらしいんですよ」
ふむ。なんだか分からないことだらけですけど、では、まずロックでいただきますです。
ホントに寒くなったら焼酎、泡盛のお湯割りっていうのもオツな感じでイイもんですけどね。
焼酎、泡盛をお湯も氷もなしの生(き)でちょうだいっていうと、店としてはグラスに氷が入っていないもんだから、焼酎の量がチョビッとしかないみたいに見えるんで、なんか、提供するのに気が引けちゃうって聞いたことがあるです。
新規でいれた銘柄を味見で出してくれるときは、お猪口グラスにチョロッと生で、っていうのはありますけどね。
ま、たいていの店では1杯4勺から6勺の間、って感じで出してくれてますけど、ね、あの有名なチェーン店とかだと、格安の値段で提供していますって言ってますけど、あれ、3勺入ってないでしょ。
そういうのはいけませんですよね。
ロックでいただいた「濱崎太平次」イイですねえ。好みですねえ。旨いと思います。
とくに目立つことを考えていないであろう一升瓶のシックなラベルには、
籠の前を船がまぎる
あれはヤマキの稲荷丸
薩摩の豪商
八代目 濵崎太平次 25度
∧の下に木って書いて「ヤマキ」っていうのが濱崎太平次の屋号ってことなんでしょうね。
籠の前っていうのはなんでしょう。海産物をいれる籠?
いや、おそらくですけど、薩摩の遊郭、籠の鳥の遊女が二階の窓からでも眺めている海を、濱崎太平次の稲荷丸っていう船が豪壮に滑って行く光景を言っているんじゃないでしょうかね。
ああ、あの船は、っていう地元の自慢の光景。
遊女にとって上客だったヤマキの面々。
濱崎太平次だけじゃなくって、稲荷丸の船員さんたち、さぞやモテたことでしょうね。
江戸時代の人?
旨さを堪能して帰ってからググってみました。
製造元の「中俣合名会社」は原料に対するこだわりが酒屋さんたちから評価されているようです。
そのこだわりの割り水っていうのが霧島の銘水「関平鉱泉水(せきひらこうせんすい)」
聞いたことないですね、関平鉱泉水。女将さんも覚えてなかったですしね。
霧島っていう山は、お相撲さんの名前にもなっていますけど、宮崎県と鹿児島県の県境に連なっている火山群。
1934年、昭和9年に、瀬戸内海、雲仙、とともに日本初の国立公園に指定された霧島。
古くからの観光地ですね。
天孫降臨の高千穂峰(たかちほのみね)は、この霧島連山の中にあります。
高千穂っていう芋焼酎もありますね。これもいけます。
高千穂峰には天孫降臨の際に、ニニギノミコトが峰に突き刺したっていう青銅製の「天逆鉾(あまのさかほこ)」が立っていて、江戸末期、坂本龍馬が妻のお龍とここを訪れて、天逆鉾を引き抜いたっていう話が伝わっています。
竜馬は姉にあてた手紙でそのことを書き遺しているんだそうですから、ホントのことなんでしょうね。
アーサー王のエクスカリバーじみた話ですけど、坂本龍馬のお龍を連れたその時の旅が、日本で最初の新婚旅行って言われています。
雨の多い地域だそうで、広大な森と、指宿、霧島は温泉地帯としても有名ですよね。
そこに、こんな話が伝わっているんであります。
1867年の大政奉還もだいぶ近づいてきた1832年、霧島の麓に住む原田丑太郎っていう薩摩藩士が夢をみた。
霧島の森のどこそこへ行ってみよ。生命の水が湧いているぞよ。
で、実際行ってみて、関平鉱泉水の源泉を発見したんだそうです。
霧島山に降った雨が長い年月をかけてゆっくりと濾過されて、神の山のミネラルをたっぷり含んだ自然のミネラルウォーターになっている。
関平鉱泉水の温泉に入れば傷が癒され、湿疹が治る。
関平鉱泉水を飲めば胃潰瘍、帯状疱疹に効果があるっていうことで「入ってよし、飲んでよし」
発見以来200年、枯れることなく湧き続けているそうです。
濱崎太平次の中俣酒造株式会社は明治37年(1904)から焼酎を造っているそうなんですが、当時、地元の人たちからは「養老」って呼ばれていたそうなんです。
なるほど「飲んでよし」の関平鉱泉水を使っているからなんでしょうね。身体にイイ焼酎!
身体にい~んです。はい。
さてさて濱崎太平次です。
人の名前を冠している焼酎、日本酒はいくつかありますけど、この濱崎太平次もそうであるように、だれ? っていうのがほとんどなような気がします。有名ではあっても全国区の人じゃない感じ。
でも地元じゃ実績を残していて有名だから酒の名前になるんでしょうね。
濱崎太平次を造っているのは中俣酒造。名前が濱崎じゃないですね。
でも濱崎太平次の末裔なんだそうです。先祖の商魂と功績にあやかろうっていうネーミング。
末裔っていうのは女系もあるわけですから、名字が違って来るっていうのは普通のことなんでしょうね。
ちなみに2024年7月に亡くなった俳優の浜畑賢吉さんも濱崎太平次の子孫だったそうで、先祖のエピソードを多く語っていたらしいですね。この俳優さんも濱崎じゃないですね。本名らしいんですけど。
ところで、江戸時代の「実業界の三傑」って言われている人たちがいます。
紀伊国屋文左衛門(1669~1734)
知ってますねえ、チョー有名人ですよねえ。
でもまあ、元禄期の人だってこともあってか、生没年は、実はハッキリしていないみたいです。
架空の人物だっていう説まであるくらい。
紀伊国屋文左衛門のミカン船伝説を何かで読んだような気がします。
紀州でミカンは大豊作。豊作過ぎて余り気味。
江戸の「ふいご祭り」では鍛冶屋の屋根からミカンを撒くのが祝いの風習。
嵐が続いていたその年。江戸はミカン不足。
安い紀州のミカンを大量に仕入れて、嵐の太平洋を需要の高い江戸まで運んで高く売りさばいた。
やたあ、大儲け!
で、その資金を基に火事の多い江戸で材木商を始めて、これまた大当たり。っていうお大尽。
いや、でもね、これは幕末に刊行された小説の筋なのであって、事実じゃない、っていう説が有力なんだそうです。
じゃあ、なんなんでしょう。最初から材木商?
なんだか正体不明ですねえ。
江戸時代の「実業界の三傑」2人目は、「銭屋五兵衛(ぜにやごへえ)(1774~1852)」
三傑って括られているんですけど、ずいぶん年代は離れています。紀伊国屋文左衛門の死後40年後に生まれた人。
加賀の海運業者だそうです。聞いたことあります? 銭屋五兵衛。私は知りませんでした。
北前船の航路で米を中心に商って、千石積みの大船を20艘、全体では200艘もの北前船を操って、日本全国に34の支店を展開していたっていう豪商。凄い人です。
銭屋っていう名前は、小額の銭貨の両替を行なった店っていう意味だそうですから、そもそもの商売は両替商だったんでしょうね。
それでですね、銭屋五兵衛は外国との密貿易を盛んに行っていたらしいんですね。
地元の金沢藩が気付かないはずもないんですけど、そこはそれ、献上金っていう名の賄賂で黙認されていたみたいです。
密貿易の取引先はロシア、中国だけじゃなくってアメリカ、オーストラリアまで手を広げていたそうです。
諸藩の財政が苦しくなり始めている時期ですが、銭屋五兵衛の莫大な献上金で加賀藩は相当に潤っていたんでしょうね。それでも、なんたって加賀百万石は誰でも知るところ。幕府や諸藩から不思議には思われなかったのかもしれません。
大海原を行き来していた銭屋五兵衛ですが、地元の新田開発、干拓事業なんかも手がけていたんだそうです。海運だけじゃない。金儲けだけじゃない。
1849年に金沢平野の北側にある河北潟(かほくがた)の新田開発を始めて、大きく埋め立てる計画を進める中、地域住民たちと揉め事が起きちゃって、開発がうまくいかない。
あげくに疑獄事件の主犯と目されて、一族全員が投獄されちゃったそうです。
海外貿易は日本にとって必要な産業。新田開発は日本の今に必要な事業。ってことで活躍していた銭屋五兵衛でしたが、やっぱり、周りからのやっかみもあったでしょうし、敵も少なくなかったのかもですねえ。
五兵衛は80歳で獄死。一族も獄死したり、はりつけになったりして銭屋は財産没収、家名断絶ってことになったんですね。
密貿易で巨万の富を築いて、疑獄事件の主犯とされた銭屋五兵衛でしたが、明治になってその業績が再評価され始めたんですね。
金沢市に「銭屋五兵衛記念館」が開設されたのは大正、昭和を経た平成9年(1997)ってことで、これまたずいぶん時間が経過してからなんであります。
でもまあ、記念館のあるようなデッカイ人物だってことですね。
そして「実業界の三傑」3人目が、焼酎の名前になっている「濱崎太平次(1814~1863)」です。
銭屋五兵衛が生きていた時代に活躍していますね。
2人の間になにかしらの取引が、ってことは、どうなんでしょ。なかったんですかね。
でも、銭屋五兵衛は幕末の人とは言えなさそうですけど、濱崎太平次は、しっかり幕末の人ですね。
王政復古が1868年ですから、新しい時代になる直前に亡くなっています。
薩摩、指宿の濱崎家は古くからの海運業者で、3代濱崎新平のときに「ヤマキ(∧の下に木)」っていう屋号を名乗り始めたみたいです。
5代濱崎太左衛門のころになると、当時の長者番付にランクインするほどの大店に成長。
6代目からは代々太平次を名乗るようになったそうです。
ただ濱崎家の隆盛は長く続かなくって、どうやら7代目の頃から傾き始めたみたいなんですね。
っていうことは、焼酎に名前を謳われている8代目太平次の父親の頃からヨロシクナイ状況、ってことです。
食べるにも事欠いた少年時代だったみたいですが、14歳の頃から琉球貿易に精を出して、18歳の時に、亡くなった7代目の跡を継いで8代目濱崎太平次となります。
若くして商才があったんでしょうね、琉球貿易を主として急速にヤマキを立て直していきます。
琉球は1609年に薩摩藩の支配下となっていますが、江戸幕府としては琉球との取引は密貿易ってことになっていたみたいなんですけどね。
ただこの辺りは銭屋五兵衛の場合と同様、莫大な献上金と引き換えに薩摩藩の黙認ってことになっていたんでしょうね。
8代濱崎太平次は薩摩藩政に大きな影響力を持っていたことでしょうからね。
薩摩藩の場合は、黙認というよりむしろ積極的に密貿易にチカラを入れていた可能性もありそうですしね。知らんけど。
琉球、奄美群島との交易は船がないとできません。
8代目太平次が活躍し始めたころの薩摩藩は奄美群島でとれる砂糖の専売に乗り出していて、交易は莫大な利益を生み出していったみたいなんですね。
幕府の言うことばかりを聞いていたら、薩摩が、日本がダメになる。気分的に時代の要請みたいな空気感もあって、8代目を後押ししたんでしょうね。
密貿易の拠点となる港ごとに支店を置いて、支配人には指宿出身者を選んだそうです。
地元愛、なんでしょねえ。
日本の機械紡績業っていうのは薩摩藩が他藩に先んじて行ったっていう歴史なんですが、それは8代目が密貿易で仕入れた西洋産の機械綿糸を藩主の島津斉彬に進呈したから、だそうです。
まさに幕末の必要性で、密貿易が藩の財政を支えていたのは薩摩藩だけじゃないらしいんですけどね。
幕末の薩摩藩を支えた8代目濱崎太平次。
しかも指宿の人間を重用した8代目濱崎太平次。
ってことで、指宿で造られる芋焼酎の名前は濱崎太平次になって、今に至っているんですねえ。
8代濱崎太平次が活躍していた時期、日本、薩摩は大展開期なんですよね。
1859年:横浜港正式開港、外国人居留地設置。
今も横浜市鶴見区生麦に石碑が建っています。
当時の薩摩藩主、島津茂久の父、島津久光の行列の前を騎馬のイギリス人たちが横切ったのを、無礼! ってことで共回りの薩摩藩士が襲い掛かり、イギリス人1名死亡、2名重傷っていう事件。
日本中が不穏な空気につぶされそうになっていた時期なんですよね。植民地になっちゃう危険性があったわけです。
イギリスが徳川さん、どないしてくれんねん。ってなって、江戸幕府としては、知らんがな。薩摩藩が勝手にやらはったことやん。って、なぜか関西弁で弁明したとかしなかったとか。
薩摩藩とイギリスの交渉は揉めに揉めて、生麦事件の翌年、1863年には薩英戦争にまでいたっています。
この1863年に、8代濱崎太平次は大阪で客死しています。
49歳です。この時代にしてもかなり若い死ですね。薩摩藩の危急存亡をかけた働きを大阪、京都辺りでしていて、っていうこともあるのかもしれません。
ま、滅多なことは言えませんですけどね。
薩英戦争はたった3日で終わっています。
薩摩藩がホンキの武装を始めるきっかけがここにありそうですよね。近代兵器のね。
1863年に跡を継いだ9代濱崎太平次は、薩摩藩からイギリスに遣わされた使節団を支援して、8代の務めていた役割を果たしていたそうなんですが、1865年、21歳の若さで夭逝しちゃいます。
急遽、跡を継いだ10代濱崎太平次((1849~1910))は17歳。
1866年には薩長同盟成立。
1868年、大政奉還。
目まぐるしい世の中になっています。
10代濱崎太平次は1867年に開設された鹿児島紡績所で、原料綿花の買入、綿糸布販売を手がけて活躍。
1870年に開設された島津家の堺紡績所の経営も引き受けて、1878年には島津家から譲り受けて商売を広げます。
ますますのご発展。
とか思ったら、どうやらこの10代濱崎太平次、放蕩者だったみたいで、一気に没落。
所有していた堺紡績所は8代濱崎太平次に仕えていた大番頭の川崎正蔵(1837~1912)の手に渡ります。
8代が亡くなったタイミングで濱崎家を離れて大阪で独立していたそうです。
この川崎正蔵っていう人がまた、なかなかの御仁で、川崎重工業の創業者なんですね。
しかしまあ、濱崎家の没落を招いてしまった10代濱崎太平次ってどんなことをやらかしたんでしょうね。
ヤマキを潰してしまった10代濱崎太平次は大阪で人力車夫になったんだそうです。
濱崎家は8代が客死したところ、大番頭だった川崎正蔵が独立していたところ、10代が人力を曳くことになったところ。みんな大阪なんですね。
商人の町、大阪に魅力を感じていたんでしょうかね。
かつてのお大尽が人力を曳いているところを見かけたものか、風の噂に聞きとがめたものか、同情した昔馴染みの芸者さんに養われて余生を暮らしたっていうエピソードが伝わっています。
籠の前を人力がまぎる
あれはヤマキの10代目?
ってことだったのかもしれません。
やっちまった10代濱崎太平次ですが、芸者さんが同情してくれるってことは、遊んでいる時の金の使い方、人間性だとか、憎めないヤツ、だったんでしょうねえ。知らんけど。
芋焼酎「濱崎太平次」を一緒に呑むんだったら、10代濱崎太平次が楽しいのかもです。関平鉱泉水です。身体にい~んです。
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