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【大正時代の美人たち】15年間しかなかった短い時代に強烈に輝いた日本の別嬪さんたち その2

< 大正時代って歴とした身分制度の真っただ中ですからね 華族の令嬢っていうのがおられたですよね >

大正三美人っていうのは、九条武子、柳原白蓮、江木欣々の3人。
はたまた九条武子、柳原白蓮、林きむ子の3人。


ってことで、なぜだか大正四美人にはしないで、大正三美人は4人いるっていうことになっている話をさせて頂いた前回からの続きですが、4人のうち言及出来ていなかったのが柳原白蓮(びゃくれん)です。


九条武子は西本願寺の次女。


江木欣々(きんきん)は初代愛媛県知事、関新平の妾腹の子。


林きむ子は狂言浄瑠璃師と初代女義太夫の子。


だったんですが、柳原白蓮っていう人は他の3人とは違って生まれが「華族」なんですね。


明治時代になって武士階級が消えて、士農工商ではなくなったとはいうものの、身分制度そのものは残ります。


「明治(めいじ)だなどと上からは言うが、治明(おさまるめい)と下からは読む」


っていう落書があったそうですから、多くの庶民たちは、ま、なにがどう変わるのか判然としない日々を暮らしていたみたいですね。


維新だと言って囃し立てる人たちがいるかと思えば、御瓦解と表現して新たな秩序に不安を感じていた人数も少なくはなかったでしょう。


明治2年から昭和22年まで、日本には「華族制度」っていう身分制度があったんですね。
きのうまでの公卿さんたち、お殿様たちが華族としての特権階級を維持していたわけです。


ちょっと脇道にそれますが、公卿さんたち、お殿様たちにもそれぞれ階級があったわけですので、同じ華族って言ってもちゃんと区別しようっていう動きがあったみたいで、明治17年に「華族令」っていうのが施行されます。


俗にいう「公侯伯子男(こうこうはくしだん)」っていうのがそれで、公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵の順に偉いんですよっていう5階級。
この5爵の名前は古代中国の官制から持ってきたみたいです。


もちろんこの公侯伯子男とは別に皇族っていうのがあるわけですけれどもね。


太平洋戦争敗戦後の1947年、昭和22年になって法の下の平等が謳われて、華族制度がようやく廃止されたっていう歴史です。


華族その他の貴族の制度は、これを認めない」


人間の平等は当たり前のこととはいえ、かなり無理矢理終わらせている感じですね。


今回注目している大正時代は華族制度のピーク、みたいな空気感があったかもしれません。


雑誌とかに華族の子女や、夫人のグラビア写真が掲載されたり、記事としてその生活ぶりが取り上げられたりして、アイドル的な存在でもあったそうです。

 

 

 


菊池寛の「真珠夫人」、映画「麗人」のモデルになった人で、最近ではNHKドラマ「花子とアン」に葉山蓮子として登場した女性。
その人こそが柳原白蓮です。


明治18年(1885)生まれで、昭和42年(1967)没。
27歳から41歳までの人生を大正時代に過ごしています。


柳原前光伯爵の妾腹の子で、名前は燁子(あきこ)。


生まれた時から波乱万丈で、生後7日目に実母の元から柳原伯爵家に正式な次女として引き取られます。


華族の娘としてしつけられながら明治27年、1894年、北小路随光子爵家の養女として柳原伯爵家を出されます。


北小路子爵の家にはこれもまた妾腹の資武(すけたけ)っていう男がいます。1878年生まれの資武は燁子の7つ年かさ。


美貌の燁子にすっかりご執心の資武は1900年って言いますから、燁子15歳の時に結婚します。っていうか結婚させる目的があって養女にしたみたいですけどね。


資武っていう男はなかなかに問題のある人だったみたいで、結婚前に燁子に迫って拒絶されると「妾の子をもらったやるんだ、生意気言うな!」って感じだったらしいです。


出生の事実を知った燁子はショックだったでしょうね。でもね、お前さんだってそうじゃないか! わざわざ言う必要ないだろ! ヤなヤツ! って思ったでしょねえ。


でもまあ結婚させられて翌年には息子をもうけています。


京都に引っ越しして親子3人の暮らしが始まるんですが、明治時代のこととはいえ新しい女中に手を出すなどしている資武を燁子はちっとも尊敬できないわけですね。


バーローッ!


息子を北小路の家に残すっていう条件で、1906年に離婚します。この年、明治39年、燁子は20歳で実家、柳原伯爵家に戻ります。
息子に対する気持ちは残っていたでしょうけれども、ふんっ、あんたなんか大キライなのよ!


当時の結婚事情なんて令和の今からは想像もできないことばっかりなんでしょうけれども、ハッキリと自分の気持ちを言える女っていうのも、ちゃんと居たんですね。オットコマエ~! です。


望むも望まないもなく、身分制度の中の、お家の事情で結婚させられた燁子ですが、いざ柳原伯爵家に戻ってみると出戻りっていうことで、本宅には住まわせてもらえず、「母」の隠居所にほぼ幽閉生活を強いられたそうです。


しっかり自分を持っていた燁子なんですけど、時代っていうのは抗いがたいものがあるんですね。
読書三昧で暮らしたそうです。


隠居所の生活の最中にも勝手に進められた縁談で結納が決まったことを知ると、燁子は隠居所を飛び出してかつての乳母を頼ろうとしますが、すでにその乳母も亡くなっていて万事休す。

 

 

 


途方に暮れているところを柳原伯爵家の姉に世話されて、兄夫婦に預けられます。


1908年、兄嫁の計らいで東洋英和女学校編入。23歳になっていた燁子は年下の学友たちと仲良く勉学に励んで幸せな学校生活を送って、1910年に無事卒業しています。
この頃から佐佐木信綱から短歌を教わっていたみたいですね。


25歳になった燁子は肩身の狭い思いで生活していたらしいんですが、華族同士の結婚で破綻しているとは言っても、ここまで柳原燁子っていう女性が特に目立った存在っていうわけじゃなかったと思われます。


東洋英和女学校を卒業した年に見合いとは知らされずに燁子は1人の男と出会うことになります。


男の名は伊藤伝右衛門
炭鉱夫からのたたき上げ、一代で巨万の富を築いた炭鉱王って呼ばれていた50歳。


当人同士の意志とは関係なく結婚の話が進んで、1911年、燁子も伊藤伝右衛門も共に2回目の結婚に踏み切ります。


大富豪の炭鉱王とはいえ、親子ほども離れている年齢、教養の差、そしてなにより身分の差があります。
華族の令嬢が売り物に出た」とか、はやされたそうです。


この辺りの事情は詳細に調べようもないところなんですが、どうもね、新聞メディアがはしゃぎ過ぎなんじゃないかっていう気もします。


伊藤伝右衛門の住居は大邸宅であるとはいえ、これまでの華族の生活とはまるで違っていて、燁子は苦労したっていうことになるんですけど、それってたぶん伊藤伝右衛門の方も同じだったんじゃないでしょうか。


学問がないとか評されているんですけど、人間としての能力、アタマの良さがなければ一代で巨万の富は築けないと思います。


ただ生活習慣がまるで違うでしょうからね、華族の妻っていう名誉が欲しかったにしても、燁子をどう扱ってイイものやら戸惑ってもいたでしょうね。


厳然とした身分制度がありながら恋愛感情なしに身分の差を跳び越える。
柳原家のほうの事情っていうのもあったんでしょうね。


「筑紫の女王」と呼ばれて世間からは羨ましがられた燁子でしたが、伊藤伝右衛門の愛は感じられず全く馴染みのない土地で孤立無援の苦しい日々を暮らしていたみたいです。


続けていた短歌を詠むことが支えになっていたのかもしれません。
竹柏会っていう同人会に入っていて短歌の機関誌に盛んに作品を発表しています。


この竹柏会には前回触れた4人いる大正三美人のうちの1人、九条武子も同人として参加しているんですね。
同人が一堂に会することはそうそうないんでしょうけれど、なんとも華やかな同人会ですよね。


「筑紫の女王」燁子は機関誌「心の花」に詠みます。


「年経ては 吾も名もなき 墓とならむ 筑紫のはての 松の木のかげに」


師の佐佐木信綱はその赤裸々さを心配したのか、燁子に雅号を使うように勧めたそうです。
燁子は信仰していた日蓮にちなんで「白蓮」を雅号にしました。

 

 

っていうヘーワな説もありますが、伊藤伝右衛門との生活は泥の中で生きているようなものだけれど、自分は白い蓮のように決して濁らないっていう意味だっていう説もあります。


ある意味では有名になり過ぎた別嬪さん、柳原白蓮ですから後付でいろいろ尾ひれがついて回るのも致し方のないことなんでしょうね。


大正4年、1915年、柳原白蓮は処女歌集「踏絵」を自費出版します。


出版費用は当然のことながら伊藤伝右衛門の払いなんだろうと思います。華族の妻にやりたいようにやらせてやろうっていう気持ちがあったんでしょうね。


「踏絵もて ためさるる日の 来しごとも 歌反故いだき 立てる火の前」


柳原白蓮が嫌ったのは伊藤伝右衛門ではなく、筑紫でもなく、融通の利かない大正っていう時代だったのかもしれません。


自費出版とはいえ歌集「踏絵」は豪華本で、挿絵は竹久夢二、序文は佐佐木信綱です。


「白蓮は藤原氏の娘なり「王政ふたたびかへりて十八」の秋、ひむがしの都に生れ、今は遠く筑紫の果てにあり」


なんだか大時代、オオゴト過ぎる感じもします。でもまあ、そういう時代なんですね。


1917年、福岡鉱務署長、野田勇に絡んだ筑豊疑獄事件が起こります。
野田夫人の友人だった柳原白蓮は贈賄側の証人として出廷します。


筑紫の女王が公の場に姿を現したことで、ちょっとしたパニック。新聞が「筑紫の女王燁子」っていう連載記事を載せて大きな反響を呼んだそうです。


こうなると筑紫の女王っていう名前が一般に知れ渡り、7年前の不釣り合いな結婚の当人だということ、白蓮っていう名前で歌集を出していることが世間に知れ渡って、なにせ評判の美人さんですからね、「踏絵」はおおいに売れたそうです。


1919年、柳原白蓮は戯曲「指鬘外道(しまんげどう)」を雑誌「解放」に発表します。
戯曲まで書いちゃうんですから、多才ですね。


「指鬘外道」は評判をとって、一冊の本にすることになります。


柳原白蓮の「指鬘外道」は「アングリマーラ」っていう仏教経典にならったもので、師の妻に誘惑された弟子が、拒絶したことを逆恨みされて、師の妻の策略によって100人の人間を殺して、その指で首輪を作るっていう薄気味の悪い猟奇的な内容。最後には釈迦に救われる罪人救済物語だそうです。


そういう物語が評判を呼ぶっていうのも理解できかねるところがありますけれど、そういう物語を書く動機が柳原白蓮にあったっていうことが、筑紫の女王の心の闇を表しているんでしょうかね。


出版するにあたって「解放」の主筆、編集者だった宮崎龍介と出会うことになります。


1920年柳原白蓮34歳、宮崎龍介27歳。
急激な恋愛感情ではなく、手紙のやりとりを通して徐々に盛り上がった恋愛だったみたいです。


1921年宮崎龍介柳原白蓮との関係を、ブルジョア夫人との恋愛遊戯として非難され「解放」の編集を解任されます。
このことは柳原白蓮の恋心の火を大きくしたみたいなんですね。


さらには、同じ年、雑誌の対談で同人仲間の九条武子と初めての対談をしているようなんですが、2人とも秘めた恋人がいるってうことですっかり意気投合したっていう話もあります。


柳原白蓮はもちろんのこと、九条武子の方も噂にはなっていたようですので、ちっとも「秘めた」恋人じゃなかったのかもですけど、前回九条武子の恋人について触れたとき、そんな説が、って言いましたけれど、なんかこの柳原白蓮との対談でウラがとれたってことになるんでしょうか。


大正三美人、恐るべし!


柳原白蓮はどうやらこの年、宮崎龍介の子を妊娠したようで、伊藤伝右衛門の家を出る覚悟を決めます。


大正10年。身分制度、男尊女卑の世の中で「姦通罪」が存在していた時代です。


伝統的に姦通の罪は両者死罪なんていう厳しい時代が続いたみたいですが、大正年間の刑法第183条では「夫のある女子が姦通したときは2年以下の懲役に処す。その女子と相姦した者も同じ刑に処する」だったんですね。


1947年の改定によって刑事罰としての姦通罪は廃止されていますけどね。


罪を逃れるための工夫だったのか、新聞社によって仕組まれたイベントだったのか、柳原白蓮伊藤伝右衛門家からの脱走が、世に言う「白蓮事件」です。


この白蓮事件によって柳原白蓮の名前を耳にしている人も少なくないでしょうね。


柳原白蓮はただ単純に駆け落ちをしたんじゃなくって、伊藤伝右衛門に対する絶縁状を新聞に公開したんですね。
これが白蓮事件のコアでしょう。


突然駆け落ちした妻から絶縁状を公開された伊藤伝右衛門が反論文を新聞に連載するなどしたため、一大スキャンダルになったんですね。


※ ※ ※ ※
私は今あなたの妻として最後の手紙を差し上げます。


この手紙を差し上げるということは、あなたにとっては突然のことであるかもしれませんが。私にとっては当然の結果に外ならないのでございます。


あなたと私との結婚当初から今日迄を回顧して、私は今最善の理性と勇気との命ずる所に従ってこの道を取るに至ったのでございます。


ご承知の通り結婚当初からあなたと私との間には、全く愛と理解とを欠いていました。
(後略)
十月 二十一日
伊藤伝右衛門
※ ※ ※ ※


まったく取り乱している様子もなくって、理路整然とした絶縁状です。
ただですね、詠んだタイミングはいつなのか分かりませんが、歌ではこんなのを遺しています。


「女とは いとしがられて 憎まれて 妬まれてこそ かひもあるらし」


「いくたりの 浮れ男の 胆を取る 魔女ともならむ 美しさあれ」


「ゆくにあらず 帰るにあらず 居るにあらで 生けるかこの身 死せるかこの身」


絶縁状の新聞紙上公開に対して伊藤伝右衛門は、新聞記者のインタビューに応えるっていう形で反論したっていうことなんですけど、伊藤伝右衛門自身に自分の想いを新聞に発表して、反論したいっていう気持ちがあったのかどうか、ちょっと分かりませんね。


ここでも新聞がはしゃぎすぎているような印象を受けます。


※ ※ ※ ※
お前が送った絶縁状は俺の手元に届いていないが新聞で見る限り、随分なことを書いたものだ。


妻が夫へ絶縁状を叩きつけるということも前代未聞だが、それが本人に届く前に新聞に掲載されるとは……こんなことがあるのか。


新聞の絶縁状を見た時は、かなり憤慨したが平静を取り戻した今、伊藤家を見回してみるとお前という、いわば異分子がいなくなったことで実に円満に皆が過ごせていることに気付く。


俺自身も心が休まる感覚を感じている。
俺の一生の中で最も苦しかった10年はもう終わった。


これからは、生まれ変わったつもりで全てを立て直そう。
(後略)
※ ※ ※ ※


インタビュー結果を新聞記者がまとめたものでしょうから、伊藤伝右衛門自らの言葉ではないんでしょうけれど、こちらも実に冷静です。


反論文とされる記事の最初に、柳原白蓮の絶縁状が届く前に、新聞紙上に掲載されたっていう文言があります。


柳原白蓮宮崎龍介の2人に姦通罪を適用させる方向に記事を書かないことを条件に、絶縁状の文章を新聞記者に公開した、そういうバーターがあったっていう説がありますけど、そうなんでしょうね。


プライベートなままの絶縁状が伊藤伝右衛門のもとに届けば、白蓮事件も全く違った方向に向かったかもしれません。

 

 

 


白蓮事件から2年。1923年、大正12年、東京は関東大震災に揺さぶられます。


この災害をきっかけに柳原白蓮は生まれていた息子とともに宮崎燁子となっています。


弁護士になっていた宮崎龍介結核に倒れて働けなくなると、一家の生活は柳原白蓮が稼ぎ出すしかありません。


柳原白蓮はこれまでの人生で経験したことのない貧困生活を経験することになります。
歌集、小説、講演活動、やれることはなんでもやって筆1本で家計を支えて、1925年には長女を授かっています。


「幾億の 生命の末に 生れたる二つの心 そと並びけり」


その後、吉原遊郭から脱走した花魁をかくまって、自由廃業の手助けをしたり、没落華族子弟の進学に協力したり、なかなかの社会活動に精を出しているんですね。
北小路家に置いてきた息子の世話もみています。


女性の地位向上を目指した活動に励みながら気持ち的には充実していた時期だったのかもしれません。


そんな生活の中、宮崎との間に出来た息子が学徒動員で太平洋戦争に駆り出されて、戦死してしまいます。


「英霊の 生きてかへるが ありといふ 子の骨壺よ 振れば音する」


戦後は徐々に視力を失いつつあったものの、夫、龍介と娘夫婦に見守られて穏やかな晩年を過ごしたそうです。
81年の人生。柳原白蓮自身はどういう気持ちで振り返っていたでしょうか。


何かの雑誌で、柳原白蓮、晩年の写真を見たことがあります。白髪頭に丸メガネをかけたカッコイイおばあさん。
1967年、昭和42年、心臓の衰弱によって永眠。


「誰か似る 鳴けようたへと あやさるる 緋房の籠の 美しき鳥」


実は4人いるっていう大正三美人をザっと追ってみたんですけど、女性に参政権のなかった大正時代を鮮やかに駆け抜けた美人さんたちって、もっともっと、たくさんいるですよね。


「美人伝」を書いた長谷川時雨っていう人こそ美人だったらしいですし。


ってことで、次回は大正三美人として取り上げられた4人以外の大正美人を。

 

 

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