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【大正時代の美人たち】15年間しかなかった短い時代に強烈に輝いた日本の別嬪さんたち その3

< 酒は正宗 芸者は万龍 唄ははやりの間がいいソング 巨人大鵬玉子焼きの大正バージョンですかね >

前回、前々回と「大正三美人」についてのあーだこーだを見てきました。
九条武子と柳原白蓮に、江木欣々を加えて3人とするか、林きむ子を加えて3人とするか、っていうことでしたんで、大正三美人は4人いますよっていう結論だったんですね。


三大〇〇っていう呼びかたが、他の何事についてでも落ち着きがイイってことで三美人、3っていう数字にこだわったってことなんでしょねえ。
で、今回は、その大正時代の美人さん、3回目なんであります。


大正時代の美人さん事情に詳しいはずもないんでありますが、納得いかない事情があるんでございます。はい。


それっていうのはですね、だいぶ昔のことなんですけど、明治の末頃、あまりに妖艶だっていうんで、当時の小学校をクビ、っていいますか強制退学させられた美人さんがいるっていう話を聞いた記憶があるですねえ。
聞いたっていうか読んだっていうか。


そんな美人さんがホントにいたとすると、大正時代には程イイ年齢になっているはずで、大正時代の美人さんに数えられないっていうのはオッカシイでしょ!
メディアっていうか、男たちの目が離れるはずないですよね。


でもねえ、小学校を退学させられるなんていうことからして、ナンセンスな感じですし、フィクションだったんでしょうか。


ってことで、トッ散らかってしまっている記憶を呼び覚ましながら、その美人さんについて探ってみました。


そしたら案外カンタンに見つかりましたです。


その美人さんの名前は「田向静(たむかいしず)」
明治27年(1894)、東京の日本橋に生まれています。


静が7歳の頃、運送業をしていた父親が病気で働けなくなり、赤坂の芸妓置屋を経営していた、蛭間そめの養女に出されて、蛭間静子(ひるましずこ)となります。
「子」が付いた。。。


このあたりの事情について詳細な記録は遺っていないんでしょうけれど、蛭間そめっていう置屋の女将さん。目の付け所がイイって言うんでしょうか、これは磨けば極上の玉になるってふんでいたんじゃないでしょうかね。
男好きのする女を見つける目を持っていたように思えます。

 

 

 


芸妓置屋で蝶よ花よと育てられながら蛭間静子は赤坂の小学校に通います。
7歳の頃っていいますから、明治34年ごろのことですね。


このころの学校教育は明治19年に発せられた小学校令によって尋常小学校と高等小学校が制定されています。


6歳になると義務教育として4年間の尋常小学校で勉強します。
高等小学校は尋常小学校を卒業してから任意で進学するシステムだったようです。


就学率が上がって義務教育が6年になったのは明治40年から。


その服装が華美で、姿が妖艶であったっていう理由で退学させられるっていうのは、さすがに義務教育途中のことじゃないでしょうから、蛭間静子が尋常小学校を終えて、高等小学校に進学した直後ぐらいの時期だったんでしょうかね。


10歳、11歳の頃。
まだまだ子どもの頃ってことだと思いますけど、妖艶すぎたんですって。


その美しさは教育上よろしくないから、小学校に来んな!


ムチャクチャでござりまんがな!


手塩にかけて可愛がっていたであろう育ての母、蛭間その、置屋の女将にとっては、むしろ名誉の退学処分だったのかもしれません。


あ、そ。
そこまで魅力がありますか、って感じで受け止めて笑っていたのかもです。


商売用のエピソードとして、上手いこと使えそうじゃないですか。


明治40年(1907)、蛭間静子は芸妓見習の半玉「万龍(まんりゅう)」としてお披露目されます。
14歳、15歳頃ですね。


赤坂の「春本」所属。半玉でありながら万龍はたちまち花街で評判をとります。


妖艶すぎて小学校をクビになった万龍でございます。っていうことだったんでしょうかね。


そのあたりの事情がどうだったのか分かりませんが、半玉デビューしてすぐに、芸妓、春本万龍っていう呼ばれ方になっているんですよね。


半玉としての通常の修行とか、すっ飛ばして芸妓さん、だったんでしょうか。


それとも7歳で養女に入ってから、すでに充分な修行は済ませていたっていうことなんでしょうかね。


万龍がデビューする少し前、明治37年、38年にかけて日本はロシアと戦争しています。


日露戦争に従軍する兵士たちの慰問用として「美人絵葉書」っていうのが流行していたそうです。
戦争が終わってからも美人絵葉書のブームは続いていて、万龍はここでも圧倒的な人気。


花柳界で遊んだことはないから万龍を目にしたことはないけれども、美人絵葉書の万龍は知っている、っていう男は実に多かったって言われています。


それをなにより証拠には、明治40年に文芸俱楽部っていう雑誌で行われた「日本百美人人気投票」で、万龍は9万票を集めての第1位!


日本一の美人って言われる由縁ですね。


江戸小唄では「酒は正宗 芸者は万龍 唄ははやりのマガイイソング」なんて歌われている別格の芸妓さんです。

 

www.youtube.com

 

「なんて間がいいんでしょう」っていう言葉が大流行りしていたんだそうで、その流行りに乗っかった唄。


こんなふうに小唄の歌詞にもなって、大正初年に18歳だった万龍が大正三美人の筆頭にあげられていてもよさそうに思えます。


万龍はさまざまな企業のポスターにも登場していて、知らない人はいないっていう大スター。


ちなみにサントリー赤玉ポートワイン。あの有名な日本初のヌードポスターのモデルさんは、松島栄美子。
万龍より2つ年上の歌劇女優さんです。


ヌードって言ってもまあ、今となっては、ふううん、ヌードねえってな露出ですけどね。
万龍の人気とはジャンルが違いますかね。


当時の人気作家、長谷川時雨も「美人伝」の中で万龍を取り上げていて、


「桃のつぼみのようだった春本万龍」


「あの二重まぶたは、薄霞に包まれた夕星の光のようなやわらかいやさしさ宿していた。ほおは撫でてやりたいようなこんもりとしたふくらみを持っていた。なによりも尊かったのは、彼女の顔には、すこしの媚びもなかったことである」


って言ってますねえ。

 

 

 


も1つ。


谷崎潤一郎も「青春物語」の中の「大貫晶川、恒川陽一郎、並びに萬龍夫人のこと」で取り上げています。

 

縁は異なもの味なものっていうようなことが谷崎潤一郎と万龍にはあるんでした。


谷崎潤一郎は谷崎翁なんて呼ばれることもある文壇の大御所ですけれど、当然のごとく青春時代があるわけですね。
そんな青春時代を振り返ってみようっていうのが「青春物語」


明治の終わりごろ、東京府立一中に通っていた谷崎潤一郎と親密だった人に恒川陽一郎っていう人と、大貫雪之助っていう人がいて、3人でしょっちゅうツルんで歩いていて文学談義をかわしていたんだそうです。


大貫雪之助は、短歌を得意としていて、第2次新思潮の創刊に携わっていた文学青年だったんですが、東大を卒業した年に急死。
悲しい夭折ですね。この人は岡本太郎の母、岡本かの子のお兄さんなんです。


なんかね、有名人繋がりって、ひょんなところから、いろいろ出て来るですよねえ。


そしてもう1人の恒川陽一郎なんですが、この人は、なんと万龍のダンナさんになった人です。


作家として活躍していた恒川陽一郎ですが、谷崎潤一郎はその文学性をあんまり評価していないみたいなんですよね。


「彼の才能は余りに繊弱で、巧緻に過ぎ、鏡花先生の悪い所にばかりカブレてゐた。だから明星派の歌人として、都会人らしい、気の利いた、技巧を凝らした和歌を詠んだけれども、小説を書かせると、通人振つた、小待合式の、イヤ味な薄ツぺらなものが出来た」


ってな感じで痛烈です。
泉鏡花の悪いところばかり、って、なんだか文学論争になりそうな雰囲気を感じちゃったりしますけどね。


で、だんだん疎遠になっていたらしいんですが、恒川陽一郎からの相談事っていう形で谷崎潤一郎が一肌脱ぐようなことに発展したみたいです。


「ありていに云ふと、私は恒川自身の口から彼女との結婚問題を聞かされる迄、二人がそんな関係になつてゐようとは少しも知らなかつたのであつた。但し、箱根の出水の時にたまたま塔之沢の旅館に泊り合はせてゐた此の二人が同じ場所に避難をし、彼が一杯の葡萄酒をすゝめて彼女の脳貧血を救つたと云ふ劇的な事件がその前にあつて、新聞紙上を騒がしたことはあるけれども、それとて私は、新聞で知つてゐたゞけで、直接には聞いてゐなかつた。それ程彼と私とは疎遠になつてゐた。だから私は、二人の恋愛の発端とも云ふべき箱根の出来事に就いても、その後の発展に就いても、何も語る資格はないのである」


資格はないって言いながらこうして語っているわけなんですが、東京大学の学生と日本一の名妓が出会うっていうことからしてメディアに取り上げられて話題になっていたんですね。


明治43年(1910)、箱根は大洪水に襲われて、宿の人たちも大慌てで逃げ惑う中、万龍は脳貧血を起こして逃げ遅れていたんだそうです。
そこへ恒川陽一郎が居合わせて、万龍を助けたっていうことみたいですね。


葡萄酒で脳貧血が治まるのかどうか、分かりませんけれども、なんでしょう、2人とも避暑かなんかで箱根に居たんでしょうかね。


恋愛関係になったのは翌年、偶然東京で再会してからのことだってされていますけれど、偶然? 意図された偶然ってことのような気がしますですねえ。


「恒川が彼の結婚問題を私に打ち明けるやうになつたのは、彼女を落籍させるための金策に困つて、その相談を私の所へ持ち込んで来たからであつた。恐らくそんな事情でもなければ、彼がわざ/\その時分の私を訪ねることはなかつたであらうが、いくら疎遠になつたと云つても、そこは矢張旧友の情誼を信頼してゐてくれたのであらう」


っていうことなので、谷崎潤一郎金策のために、付き合いのあった偕楽園の主人に相談を持ち掛けるんですね。


その笹沼っていう偕楽園主人は取り合わなかったようで、


「それで私はその不結果の報告をもたらして、青山北町にあつた恒川の家を久振に訪ねた。それが、明治年代のことであつたか、大正の初め頃であつたか、その辺の記憶が明瞭を欠くのだが、今も不思議に覚えてゐるのは、その時私は細かい十の字がすりの対の大島の袷(これは友人の借り着であつた)に、お召の夏袴を穿いてゐた。だから季節は晩春か初秋、―――多分晩春であつたと思ふ。兎に角、もう恒川の家に納まつてゐると云ふ一代の麗人に初見参をすべく、好奇心に胸を躍らせながら、精々めかし込んで出かけたらうことはお察しを願ひたい」


今は旧友と共に暮らしている、当代随一の名妓に合うんですから、さすがの谷崎潤一郎もコチコチだったのかもしれませんね。


恒川家はいわゆる名家で、世間体を気にして万龍との結婚には大反対だったそうですけれども、もう事実婚みたいなことになっていたんでしょうね。

 

 

 


いざ会ってみると、


「萬龍夫人も、噂に聞いたやうな威張つたところは微塵もなく、初めから打ち解けた態度であつた。そして、お白粉気のない顔に銘仙づくめの衣類を着て、すつかりしろうと作りだつた」


「私はその時、名妓と云はれる人の飾り気のない生地の姿に接したのであるが、彼女の顔立ちは写真から受ける感じと少しも違つてゐなかつた。だが唯一つ、写真で分らなかつたのはその眼の美しさであつた。大きく、冴えて、ぱつちりとして、研き抜かれたやうな光りがあつて、真に明眸とはあんなまなざしを云ふのであらう。藝者には往々お白粉焼けのした、疲れた地肌の人を見受けるが、彼女の皮膚はたるみなく張り切つて、澄んでゐた。欠点を云へば上背の足りないことだけれども、小柄で、程よく肥えてゐるのが、娘々して、あどけなくさへ見えるのであつた。彼女は所謂「意気な女」、―――すつきりした、藝者らしい姿の人ではなかつたけれども、くろうと臭い病的な感じがなく、瀟洒と云ふよりは豊艶であつた」


「しかし私は、半日程話してゐる間に、彼女が実にしつかりした、腹もあり分別もある、聡明な婦人であることを看取した。彼女の頭は恐ろしく鋭敏に働いて、ほんの一寸した片言隻語の間にも冴えた閃めきを見せるのであつた。思ふに彼女があれ程の評判を取つたのは、その美貌の故であらうけれども、或は一層多くその聡明に負ふところがあつたかも知れない」


そして、


「ところで私は、止せばいゝのに一杯飲んだ勢ひで、恒川の事件を岡本夫婦にしやべつてしまつたのであつた。と云ふのは、岡本夫人かの子女史は大貫の妹でもあり、気心もよく分つてゐたから、此処で話すのは構はないと云ふ心持があつたのだらう。一平君もかの子夫人も、勿論面白がつて聞いた」


なんかね、谷崎潤一郎ってこんな軽いイメージでしたっけ? って思っちゃうですね。


先述しましたけれど、漫画家の岡本一平、作家の岡本かの子夫婦ですね。芸術家の岡本太郎は夫婦のひとりっ子。


「恒川の方は、その後金の問題も巧く解決がついたと見えて、首尾よく思ひを遂げたことは世間周知の通りである」


だったんですが、


「そして大正五年(?)の秋であつたか、或る日突然恒川の訃報を受け取つたのである。お通夜の晩に、私は彼の柩の前で久方振に萬龍夫人と言葉を交した。彼女は悲しみに窶れてゐたけれども、昔の色香は少しも衰へてゐなかつた」


谷崎潤一郎は「萬龍」って表記していますね。


大正2年(1913)まだ学生だった恒川陽一郎は25歳、万龍19歳で結婚。恒川静になったんですが、大正5年(1916)に恒川が病死。わずか4年ほどの結婚生活だったんですね。
まだ23歳の万龍未亡人。

 

 

 

芸妓に戻るのかどうかがまた、新聞紙上を賑わします。


万龍は大正6年(1917)に恒川の友人で顔馴染みでもあった建築家の岡田信一郎と再婚します。岡田静。


岡田信一郎っていう人はそもそも病弱だったそうで、万龍は看護をしたり設計事務所の手伝いに専念します。


谷崎潤一郎が評価しているように、万龍っていう人はマルチに働ける才能を持っていたんでしょうね。


ただ、万龍の夫運はあまりよろしくなかったみたいで、昭和7年(1932)結婚生活15年で岡田信一郎が病死してしまいます。
岡田静、38歳。


「子」は付いてないですね。ま、おそらく万龍本人としてはずっと静のままだったんでしょうけどね。


遠州流の茶道を教えながらひっそりとした暮らしぶりで、数多くの弟子たちに見守られながら昭和47年(1972)78歳で息を引き取っています。


気風の良さを感じさせる江戸弁だったっていう話もありますし、ある種のカッコヨサを感じさせる美人さんだったんでしょうね。


令和の今となっては万龍の名前を知っている人さえ少ないでしょうけれど、大正時代の美人さんって他にもたくさんいるですよね。


大正三美人、どころじゃないんです。
ので、大正時代の美人たち、まだ続きますです。

 

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