ウキウキ呑もう! ニコニコ食べよう!

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【粉豆腐】なるほどねえ って思うんですけど 出会ったことないです

< ま 気付いていないだけで しょっちゅうお世話になっている可能性もあるですけどねえ >

全然遠い話からなんですけど、奈良、東大寺の大仏さん。


戦国の梟雄「松永久秀」は、1567年、永禄10年、東大寺を襲います。
室町時代末期っていいますか、戦国時代初期っていいますか、そういうタイミングですね。


大大名だった徳島県の「三好長慶」が1564年に死去します。
乱れ始めた世の中を平定するんじゃないかって言われていた最右翼の1人ですね。三好長慶の死については、いろいろ説があって、その中の1つに家臣であった松永久秀による毒殺っていうのがありますね。


松永久秀の能力を高く買っていた織田信長の言ったことが、この説の根拠みたいなんですけど、松永久秀織田信長って、後の世で残虐って言われている同じようなことをやっているんですよね。しかもそのどれもが松永久秀の方が織田信長より早いんですね。
ホントの意味で独創的だった人。
城としての天守閣も最初に造ったのは松永久秀だっていわれています。

 

 

 


三好長慶の死によって三好一族の内紛が始まります。
実はこの三好一族の内紛がなければ、さしもの織田信長も勢力を伸ばせていなかったんじゃないかって見ることもできるんじゃないかなあって思いますですよ。


三好長慶が居なくなってみると、三好一族にとって最も脅威となったのは室町幕府第13代将軍「足利義輝」でした。
三好家は当然、足利将軍家に仕えているわけですが、将軍の権力を昔に戻そうとした足利義輝は邪魔な存在になって来たってことなんですね。


将軍家との微妙なパワーバランスをうまくコントロールしていたのが三好長慶で、その核を失ってしまって、三好一族にとっての風向きが変わったっていうことなのかもですけど、対外的にも、内政的にもぎくしゃくし始めます。


三好長逸三好政康岩成友通三好三人衆は、1565年、足利義輝を暗殺します。
直接将軍を殺しちゃうって、まあ、とんでもないことですけど、この時、松永久秀は直接関わっていないっていう説もありますが、首謀者だっていう説もあります。


将軍を暗殺した後、どうやって日本国内を牛耳っていくのかについては、どうもね、決めていなかったような、いきあたりばったりのような感じもあります。
もちろん、各々に考えはあったでしょうけれども、一致していなかったでしょうし、実行してから考えるっていう行動先行型が多かった時代でしょうからね。


三好家の内部は三好三人衆派と松永久秀派に分かれて戦争状態になります。


この辺り、戦国時代の初期は平和のための戦いじゃなくって、戦いのための戦いって感じですよね。
日本にもあった「ミーイズム」の時代、ってことなのかもしれません。


1567年、東大寺に陣を敷いていた三好三人衆松永久秀が攻めたのが「東大寺大仏殿の戦い」で、この戦いで東大寺の多くが焼け落ちてしまって、大仏様も頭部が焼け落ちてしまいます。


これについても、松永久秀が大仏殿を焼き討ちしたっていう説と、三人衆の弾薬が爆発したっていう説だとか、いくつか原因説はあるみたいですけど、まさに神も仏もないものかっていう惨状。


三好三人衆は散々に破れて、三好一族は戦国大名としての地位も失っていくんですね。


その後は織田信長の勢力拡大っていうことになっていって、松永久秀織田信長の軍門に下ったり、謀反を起こしたりしながら、時は流れていって1582年に本能寺の変があって、豊臣秀吉の時代に入ります。

 

 

 


1586年になって豊臣秀吉は、秀吉なりの天下掌握の方法として、なかなか再建が進まない東大寺の大仏様に代わる、巨大な大仏様を造立しようと考えます。
京都の大仏様を考えたわけですね。


最初の計画は小早川隆景を普請奉行として進められますが、なんでだか中止になります。
うまくいきませんでした。


諦めませんね秀吉さんは、1588年になって、今度は高野山の「木食応其(もくじきおうご)(1536~1608)」っていうお坊さんを造営の責任者に指名します。


木食応其っていう人は、元は近江の大名、六角家の武将で、1573年に出家して高野山に入ります。
十穀を断つ修行を「木食」っていうんだそうで、その修業を積んで高野山の客僧として尊ばれた人なんですね。


高野山の御堂の造営だとか、大規模工事に才能を発揮したり、連歌の名手としても知られています。


で、秀吉に指名されて木食応其が造営したのが、京都の方広寺大仏殿です。


この京都の大仏様は19メートルの高さがあって、東大寺の大仏様の14.7メートルより大きかったそうなんです。
ま、派手好きな豊臣秀吉さんのやりそうなことですよね。


でも、京都の大仏様は1596年の慶長伏見大地震で頭部が転げ落ちてしまいます。


揺れに驚いて飛び出した豊臣秀吉は、落ちてしまった大仏様の頭部を見て、自分の身体も支えられないのかって怒ったらしいですね。


後に、この方広寺再建の一環として徳川家康豊臣秀頼に造らせたのが例の梵鐘です。


梵鐘の銘文「国家安康」「君臣豊楽」に疑義ありってやつですね、「方広寺鐘銘事件」
1608年のことです。


この年に木食応其は亡くなっているんですが、この人の最大の手柄はですね、高野山方広寺じゃなくって、一般庶民の我々にとってアリガタイ食べもの「高野豆腐」を作ったことだと思います。


誰でも食べたことはあると思います。
お通しで出してくれる居酒屋さんがあるんですけど、旨いですね。なんだかとっても和風な気持ちになれます。


高野豆腐と、大根、人参、椎茸の煮物。小鉢でね、ちょこっといただく。旨いですねえ。


身体にもとってもイイんだそうですよね、高野豆腐って。特に女性にはイイんだそうです。


タンパク質、カルシウム、鉄分が豊富っていうだけじゃなくって、ポリフェノールの「大豆イソフラボン」っていうのがですね、女性ホルモンの「エストロゲン」と分子構造が似ているんだそうで、エストロゲンと似たような働きをするんだそうです。


更年期障害の症状にイイみたいです。それと美肌効果。


ま、男性にもね、脂質代謝を促してくれるんだそうですからね、高野豆腐は。お通しで出されると実にありがたい食べものなんでありますよ。


豆腐を寒い夜に数日間さらして、凍らせて脱水して作るんで「凍り豆腐(こおりどうふ)」っていうのがホントの名前らしんですけど、高野山で作られたありがたい食べものなんで「高野豆腐」って名前で通じるようになったんでしょうね。


東北地方だとかの寒い地域では、薄く切った豆腐をいくつか、藁の紐に編み込むようにして軒先にぶら下げて、自然乾燥させるっていう方法で作られる「凍み豆腐(しみどうふ)」っていうのがあるそうです。

 

 

そういえば、って感じで凍み豆腐っていうのも食べたことがあるような気がしますけど、違いが分かりません。一緒な記憶。

 

 

 


で、高野豆腐でも凍み豆腐でも、乾燥して出来上がったものを、水とかお湯で戻すんじゃなくって粉々にしたのが「粉豆腐」


ええ~! 知らんかったですよ。


スーパーで普通に売ってますよっていうんですけど、見たことないです。って、存在を知らないんで探したことも無いんですけどね。


小麦粉、あるいは肉の代わりに使って健康志向ってことで、凄くヨサゲです。


タマゴに粉豆腐を混ぜたオムレツ。


長いものすりおろしに粉豆腐のお好み焼き。


クッキーだとか、チーズケーキにもいけるみたいです。


ドライカレーだとかね、粉豆腐を入れれば、なんでもヘルシーメニューになっちゃうんじゃないかと。


ただですね、かえすがえすも残念なのは見たことないです。知らんですよ、粉豆腐。
ん~、ネットで買うのかなあ。


それにしても、豆腐って、豆腐自体が不思議な作り方をしますし、先人の工夫の産物なんですけど、凍らせて乾燥させて保存食にするっていう発想は、どこから出てくるんでしょうかね。


さらにそれをまた粉にしちゃうと、何にでも使えまっせっていうアイディア。


人間、エライ! 凍り豆腐って中国にもあるらしいですよ。って中国の方が先なのかな。


粉豆腐、使ってます?