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酒と落語と日本人 八代目桂文楽の名人芸 【明烏】の一席

<源兵衛と太助は甲斐性なしで野暮な明烏のシラケドリ なんだって朝から甘納豆?>

呑む、打つ、買うっていうのがオトコの甲斐性だった時代があった、らしいですよねえ。
というぐらいしか知らないのですが、平成あたりからオトコだけじゃなくって女にもそういう人、居るよねえ。になった感じもします。
時々ニュースになってたりしますもんね。呑む、打つ、買うの人、居なくなってない。ちっともシーラカンスになってないです。


まあね、呑む、打つ、買うから離れて、本来的な意味での甲斐性のある人って、今どき居ますかね。
居ることは居るんでしょうけれど、周りには、居ない、かなあ。


経済力があって、頼りがいがあって、誠実、というのが辞書に載っている“甲斐性”なんですけれど、時代性をね、考えないといけません。


甲斐性の辞書的な解釈に女性は含まれていない感じですよね。ま、そうなのかもです。甲斐性は男こそ持つべきもの。
経済力があれば、そりゃ頼りがいがあるって判断になりまさアね。これはもう、江戸時代だろうが令和だろうが変わらない。世間の常識ってものかもしれません。


ただね、辞書の説明を書いた人、どなた様かは存じませんが、バカなのか!

 


経済力がある、つまりお金持ちの男にはね、ほら、いろんな人が群がりますよ。わんさとやってきます。


一頃のヒルズ族のパーティってのをですね、遠くから目撃したことあるですがね、かなり迷惑な状況になっていました。


そりゃまあ、ヒルズ族たち自身が迷惑な人というわけではなく、そこに集まってくる、おそらく呼ばれたわけでもない有象無象が露骨なだけ、という解釈もなりたちますがね。


そんな日常になってしまっているお金持ちがですね、
「そんなにはしゃぐ回るな。他の人たちも居るんだから、分別を失くさない範囲で楽しもう」
とかね、やってくれるんだったらカッコイイわけで、お金持ちでないやつらからみても頼りがいがあるって、判断ができそうです。
でも、そんなことにはならないですね。


非日常が日常になってしばらくすれば、麻痺するんでしょうね。実になんともだらしのない性根になってしまう感じですね。そういう顔つきになってます。
周りに群がる有象無象がそうさせます。群がる目的がハッキリしてますからね。


華やかで楽しい暮らし、何の苦労もなく笑って過ごせる。それを叶えてくれる経済力。それが今、この目の前の男にある。
サイフの中を確かめることを必要としない、そういうレベルを超えた経済力。なんとしても独り占めしましょ。


で、手練手管。そういう才能の鍛錬。口でも身体でも、何でも使って強引なアプローチ合戦。
そんな中にいればですね、その経済力のある、頼りがいのある男って、いろんな意味で誠実な人柄ではなくなってしまいますよ。間違いなくね。甲斐性なんてありません。
などと毒づくのは甲斐性のない証拠。
そですねえ、その通りなんですねえ。


でもね、あまりにもアケスケなアプローチに相好を崩すような感覚にはならない方が、そういう日常でいた方が平和でイイ、ような気がするんですけどねえ。


甲斐性の解釈にもよりますが、たいていの人間は、男女によらず、甲斐性なしの方が、人間的でいられるようにも思います。
お金はあっても心豊かに、にこやかに暮らしている人って、あんまりイメージ無いです。
ヤッカミだろ! って言われれば、ハイ、そかもね。なんですけれどね。


落語の話です。明烏

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有名な噺ですからね、知っている方も少なくないだろうと思います。


とある大店の若旦那、時次郎さん。これがチョー真面目。カタブツ。
呑む打つ買うなんて、気配すらない。


で、親父が、大店のご主人が、そんなに四角四面じゃ商売人には向かない。少しは遊びの出来る男になってもらわないと世間様とうまくやっていけない。やがて引き継がせることになる商売に差し支えるのではないか。


ホンに困ったことだ。なんとかしなけりゃ。
むしろ息子が道楽者でバカでオタンコナスである場合より心配する。心配し過ぎ。


で、落語ですから、町内で評判の遊び人、つまり呑む打つ買うの達人、といいますか、遊び人。町でつま弾き者の源兵衛と太助の二人に頼んで、男の甲斐性を教えることにした。ってことになります。


遊び人の二人がそんな申し出を断るわけがないですね。安くはない支払いは時次郎持ちで吉原へ繰り出せる。願ってもないこと。
しかも時次郎は誰もが知る、おねんねのおぼっちゃま。どんなにいい加減なことを言ってもやってもバレやしない。


上機嫌で時次郎のご機嫌を取りながら、必要以上にはしゃいだ様子で門をくぐる。
座敷へ上がると、芸者をあげて呑めや歌えのお定まりのコース。


そんなノリについていけない時次郎を、浦里という美人芸者が見初める。
ここからがですね、高座では聞かせどころ演りどころなんです、ホントはね。


でも今は、つまんない。


落語家に教育的指導が入ったのかどうか。高座ならではの見どころ聞きどころが、ない。つまらないんです。


でもまあ、無理もないです。遊び人ったって、どんな遊びをするのか。吉原の様子なんて、知る人もないですからね。かくいう私だってもちろん知りません。


ただ、江戸の吉原の正しい遊び方とか、どうでもよくてですね、面白おかしく演ってくれればいいんですが、そこのところがツマンナイわけです。


正真正銘のおぼっちゃま、札付きの遊び人二人、手練手管の別嬪さん。三者三様の駆け引き、やりとりを、演ってくれるのが噺家ってもんでしょが、って思うんですが、難しいってことでしょうね。はい。

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で、噺は浦里の手練手管もあって、時次郎がすっかり色の道に目覚める、ということになるわけです。要はモテた。
遊び人で色ごと指南役だったはずの源兵衛と太助は空振り。


そういうこともあったらしいですね、吉原のシステムっていうのは。いくら金があったって、中のオンナにモテなきゃなんにもできずに帰るハメになる。
振られた男はただ酒を呑んで終わり。


でもただで酒呑めたんだからイイじゃん、とも思いますが、やっぱり面白くない。

 


三人で来て、モテたのは時次郎一人。
なんだよオイ、つまらねえ夜を過ごしちゃったねえ。え、もう帰りますよってのに、トの字の若旦那、時次郎のことです。
女が蒲団から放してくれません、とかぬかしやがって。
と、愚痴るわけです。源兵衛と太助の二人がね。


そりゃそうですよ。シメシメと思った半分以上の、いやメインのオコナイガ叶わなかったわけですからね。
面白くない。腹が立つ。遊び人の名が廃る。


朝になって、どうやら自分の寝床に女は来なかった。と思ったら隣りの部屋の時次郎だけがうまいことやったらしい。


ただ、支払いがまだ残っているし、それは忌々しい時次郎の受け持ち。自分たちに清算能力はない。モテなかった朝は、さっさと帰るに限るってのに、帰れない。財布は女と蒲団の中。


なんでこうなっちまうんだと、腹立ちまぎれに襖の向こうへ、
「もう帰りますよ」
と何度も荒い声をかけるけれども、時次郎は蒲団から出てこない、女から離れやしない。女も放しやしない。
「とっくにお天道様がお出ましなんですよ」
と、野暮の押し付けを繰り返す。


時次郎と浦里の二人にしてみれば、うっとおしい呼びかけ。二人でンフフの寝ざめを台無しにするシラケドリの鳴き叫び。
しあわせな時次郎と浦里にしてみれば、無粋なカラスの鳴き声で起こされるような、イヤアな朝。


そうなんです。これが明烏

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明け方にカーカー、ガアガアうるさく鳴くカラスのことで、男女の交情の夢を破る、野暮天のことを言うんだそうですよ。


で、ここんとこが名人、八代目桂文楽の真骨頂。
「よっ、八代目、名人」
という落語なんです、明烏
愚痴るトコが名人芸。


そんでですね、ギャアギャア野暮を言いながら、遊び人の源兵衛と太助は隣りの部屋で酒でも呑んでいそうなものですが、これ、どうしたわけか、甘納豆を食べているんですよ。
甘納豆ですよ。名うての遊び人が。


なんだそりゃ、と思いますよね。
そういう仕来たりでもあったんでしょうか。


一夜を明かした吉原では、朝に甘納豆が出る。あるいは、モテなかった奴にだけ、アマイ味をどうぞってんで甘納豆、とか?
分かりません。


八代目桂文楽明烏がかかると、寄せの売店の甘納豆が売り切れになった、と伝わっています。

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ということはですね、高座の前に陣取っている客のほとんどは、自分をなぞらえるのはモテモテの時次郎ではなく、甲斐性なしで、アテの外れた明烏の源兵衛と太助ってことなわけで、まあ、なんといいますか、自分をわきまえているっていうんでしょうかね。


なんだか気持ちの落ち着く、ニンマリしてしまうエピソードではあります。


にしても、そもそも寄せの売店に甘納豆、あったっけかな。。。


源兵衛と太助が甘納豆食べて、時次郎と浦里が蒲団から出てこないまま、明烏はお終いとなります。

 


にしても朝イチから食べますかねえ、甘納豆。八代目には和菓子屋のスポンサーが付いていたってことなんでしょうかね。


ま、甘納豆はおいといてですね、個人的に気になるのは、吉原で呑まれていた酒ってどんな酒だったのかってことです。
清酒なんでしょうね。ンまい酒なんでしょうね。


でもあれです。吉原って酒よりなにより、色、だってことなんでしょうけれど、こういう遊びの色には酒が必要不可欠、なようにも思えるんですがね。


で、おしまいに、蛇足ながら、この時次郎と浦里の二人は、1769年、明和6年に江戸三河島で実際におきた心中事件が元々の話だそうで、時次郎はおぼっちゃまではなく、浦里のために借金を重ねたという、一途な男。


やっぱりね、一途な男のほうが、などと思ってしまうんですけれどね。
いや、まあ、この思いこそが明烏


おあとがよろしいようで。