< シェフの帝王かつ帝王のシェフ そして カバヤの「サクッとマカロン」 >
高名なフランスの作家、オノレ・ド・バルザック(1799~1850)の小説に「ラブイユーズ」っていう長編があります。
ラブイユーズっていうのは「川揉み女」っていう意味なんだそうですが、バルザックはこう言っています。
「川揉みとはベリー地方の言葉だが、フランス語の語感として、実に見事に言わんとしていることが伝わる表現であろう。大きな木の枝の先にラケットのような形に小枝が広がった道具を使って、川の水をかき回し、水を濁らせることを言うのである。そうするとザリガニが驚いて、わけもわからぬままに大慌てで水の流れをさかのぼる。そこでしかるべき距離に罠を置いておくと、混乱したザリガニがその中に飛び込んでくるという仕掛けである。フロール・ブラジェは、天性の無垢な優美さで自分の川揉み棒を手に持っていた」
この時、12歳だったっていうフロール・ブラジっていう女性、ラブイユーズの波乱万丈の半生の小説なんですが、登場人物たちの生活の激しい浮き沈みが作品全体のテーマになっている感じなんですね。
バルザックの、かなり周到な取材を経て、1841年に第一部が発行されたラブイユーズなんですが、小説の舞台は1792年から1839年までのフランスです。
ほぼバルザック自身が経験した時代のフランスを書いている小説なんですね。
この時代、フランスっていうよりヨーロッパは混沌とした風が吹き荒れていて、人々の生活が極端に不安定だったって言えるでしょうね。
ルイ16世、マリー・アントワネットのブルボン朝を、オワコン、「アンシャン・レジーム」にしてしまった「フランス革命」は1789年。
ギロチンの恐怖が日常になっていた共和制のフランス革命時代はそれから10年ほど続いて、1799年にはナポレオンが即位して、ナポレオン戦争が始まります。
戦争は革命の理念をヨーロッパ全体に拡げようとするものだってされていますが、1813年、ナポレオン軍はヨーロッパ連合軍に敗れます。
退位したナポレオンはエルバ島に流されますが、1815年脱出。
皇帝に復帰して戦争を続けますが、すぐに敗戦して、ナポレオンはセント・ヘレナ島へ流されます。
そしてブルボン朝の復活。
1830年の7月革命。1848年の2月革命を経て共和制に戻るんですよね。
ギロチンから始まった「血の時代」
権力の体制自体がコロコロと代わってしまうっていうこの時期の実態を、誰彼の記憶がまだ鮮明な頃に取材して書き上げられたのがラブイユーズなんだろうと思われますね。
たくさんの登場人物が出てくるんですけど、特徴として、料理上手な美人がやたらと出てくる、っていうのがあります。
ラブイユーズも料理上手な別嬪さんです。
世の中の価値観がグラグラしていて、兵役に就いている人たちなんかは国を守る名誉な仕事、っていう状態から、いきなり仕事自体を失ったかと思えば、また復活、っていうような半世紀だったことは想像に難くないんですが、不思議に、アンマッチな感じのするグルメの時代でもあったようなんですよね。
バルザックが食べるの大好きだったから、っていうことばかりじゃなくって、フランス全体として。
まあ、グルメの時代って言っても、富裕層に限られたことではあったんでしょうけれどね。
最初のナポレオン戦争が終結すると、ヨーロッパ全体の秩序回復と領土分割を話し合いで解決するっていうことで1814年9月1日から「ウィーン会議」が、オーストリア帝国の首都、ウィーンで開催されるんですね。
ウィーン会議には、敗戦国であるフランスも招待されていて、フランス代表として派遣されたのが、タレーラン=ペリゴール(1754~1838)です。
タレーランっていう政治家は、美食家としても知られる有名人ですよね。
食べものじゃないですけど「悪魔のように黒く、地獄のように熱く、天使のように純粋で、そして恋のように甘い」っていうふうにコーヒーを表現する言葉を遺してもいます。
ちょっとヤなヤツでしょねえ。知らんけど。
さて、「会議は踊る、されど進まず」っていうふうに揶揄されたことで知られるウィーン会議ですが、ナポレオンのエルバ島脱出の報を受けて、1815年6月9日に慌ててウィーン議定書を締結するまでの9カ月余り、タレーランはしょっちゅう夕食会を開いていたそうです。
このタレーランの夕食会の料理を作っていたのは、タレーランに見出されて、雇われていたアントナン・カレーム(1784~1833)。
ヨーロッパ各国の代表たちに、カレームの料理は評判を呼んで、ウィーン会議の後、イギリス皇太子の、ロシア皇帝アレクサンドル1世の、オーストリア皇帝フランツ1世の、フランスの銀行家、ジェームス・ロスチャイルド邸の料理長に次々に就任して、「シェフの帝王かつ帝王のシェフ」って呼ばれていたそうです。
アントナン・カレーム。
元々の名前はマリー=アントワーヌ・カレーム。
マリー・アントワネットがギロチンにかけられてから、名前の類似を避けようとしたものか、マリー=アントナン・カレームって名乗っていたんだそうです。
マリ―って男性にも使う名前なんですね。
アントナン・カレームなんて、寡聞にして知りませんでしたが、料理の世界では、コック帽を作ったり、フランス料理特有の鍋を考案したりしているんですね。
さらには、全てのソースを、ソース・アルマンド、ソース・ベシャメル、ソース・エスパニョール、ソース・ヴルーテっていう4つの基本ソースに分類したりもしていて、理論面からもフランス料理を世界の三大料理に持って行ったような功績のある人なんだそうです。
バルザックもタレーランに負けないコーヒー好き。そして大食漢としても知られていますから、同時代のアントナン・カレームを知らないわけはなくってですね、ラブイユーズの中でこう言っています。
「田舎の生活は単調で、とくにこれといって楽しみもないので、人々の関心は自然と食べることに向かう。田舎の夕食はパリほど豪華ではないが、食べているものは間違いなくパリよりもうまい。料理はどれも手間暇をかけ、よく考えられたものである。片田舎の奥地にも、スカートを穿いたカレームとも言うべき知られざる天才料理女がいて、平凡なインゲンの料理などでも、ロッシーニがうんうんとうなずいて食べるような、完璧に仕上げられた逸品に変えてしまうのである」
後の時代になってその功績が評価されるっていうことじゃなくって、アントナン・カレームは当時から圧倒的な評判をとっていたんでしょうね。
で、フランスの片田舎には「スカートを穿いたカレーム」がいるっていうことですね。しかも美人の。
バルザックのこの件の中に、カレームの他にもう1人、ロッシーニの名前が出てきていますね。
ジョアキーノ・アントーニオ・ロッシーニ(1792~1868)、「セビリアの理髪師」で知られる有名なイタリアの作曲家です。
ロッシーニの美食家ぶりも当時から知られていたってことなんですね。
自分でも料理をしていたロッシーニは、晩年の一時期、毎週土曜日に晩餐会を開いていたんだそうです。イタリアでね。
現在でもロッシーニの名前のついた料理ってけっこうあるんですよね。
「カネロニのロッシーニ風」
カネロニにフォアグラとトリュフのソースを注射器で注入した料理だそうで、なんだか、いくとこまでいっちゃってる感じでしょうかね。
「ロッシーニ風リゾット」
リゾットにフォアグラと牛タンを加えたものだそうですけど、ロッシーニってフォアグラ好きだったんでしょうね。
「ロッシーニ・バーガー」
ニューヨークで考案されたっていう、パテが牛肉とフォアグラで、トリュフソースで食べる。
これはロッシーニの時代からだいぶ後に出来たハンバーガーなんでしょうけど、単に高級な逸品をロッシーニって呼ぶ習慣、みたいなものがあるのかもですね。
ロッシーニ、でぶちんですもんね。
「ロマンティックなひき肉」なんていう楽曲作品もあるそうですよ。
にしてもですね、ヨーロッパ全体が血生臭い混乱にあった時期、そのタイミングで、アントナン・カレームみたいな超優秀な料理家や美食家がたくさんいるのって、なんだかとっても不思議なアンマッチに思えます。
ちなみにカバヤの「サクッとマカロン」は、正式名称を「カレーム サクッとマカロン」っていうんでありますよ。
レシピ的な繋がりがあるのかどうかは、知りませんけどね。
どんなものだとしても、旨いものを食べるっていうのは、誰にとってもシアワセなことです。はい。