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【モナリザ波乱万丈】非常に暴力的かつ様々な攻撃を誘発する力を持つ 女の「絵」

< 有名なアート作品の中でも図抜けて知られているモナリザは なぜスーパーアートになったのか >

半分、夢の中の話です。


そのイタリア人はフランス、パリで暮らしていた。
なにをして生計を立てていたのかは分からないが、地球がハレー彗星の尾の中を通過し、中国が清朝の末期を迎えていた1910年、男は20代最後の年をフランスで食いつないでいた。


ある日、いろいろさまざまな仕事を世話してくれる親方から新しい仕事の話をもらった。
美術館で絵画の保護ケースをこしらえる仕事があるんだが、やってみないかというその話に、特に興味があるわけではなかったが、男は金を得るために参加することにした。
仕事の場所はルーブル美術館


12世紀のルーブル城をフランス王「フランソワ1世(1494~1547)」が王宮に改築してルーブル宮殿としていたが、「ルイ14世(1638~1715)」はヴェルサイユを宮殿としたため、ルーブル宮殿は役割として、フランソワ1世が収集していた古代からの王室美術品の収蔵展示場所となった。


そして1793年からはルーブル美術館となった歴史を、じまんたらしく、美術館員からくどくどと何回も聞かされながら、男は飾ってある絵画の保護ケースをそれなりに真面目に作っていた。


横53センチメートル、縦77センチメートルのポプラの板に書かれた女の絵。


保護ケース作りの準備にかかると、一緒に仕事をしていたフランス人が男に声をかけてきた。


「なあ、お前、イタリア人だろ?」


だからなんだという視線を向けると、今取り掛かろうとしている女の絵について、そのフランス人は講釈を始めた。


「これはイタリア人のダヴィンチって画家が描いたモナリザって絵だぜ。せいぜいしっかりした保護ケースを、イタリア人のお前が作ってやるんだな」


絵画、美術に詳しくはなかったが、ダヴィンチ、「レオナルド・ディ・セル・ピエーロ・ダ・ヴィンチ(1452~1519)」の名前は知っていた。


知っているどころではない。イタリア人として誇りに思っているルネッサンス期の偉人だ。イタリアは偉大な国なんだ。
美術に関心がないような自分に対してでも、ダヴィンチの名前はナショナリズムをくすぐるものがある。


男は改めてポプラ板の女の絵を見つめた。

 

 

モナリザ。微笑んでいるように見える、上流階級のイタリア女。ダヴィンチと同時代の女なのだろう。
そだけしか感じられなかった。


保護ケースを作り終えてアパートに帰ってから、男はモナリザについて調べ始めた。


ダヴィンチの実績としては、そんなに評価の高い絵ではないらしいことを知って、まあ、そんなものかとも思ったが、興味を持ったのは、イタリア人の画家が描いたイタリア人の女の絵が、なぜフランスにあるのかということだった。


奪われたのではないのか。


イタリアの絵がフランスに持っていかれたということではないのか。


ルーブル美術館モナリザの保護ケースを作ってから、全く別の様々な仕事にありついて、なんとかこなしながら、男の頭はモナリザのことを考える時間がだんだんに増えていった。

 

 

 


翌年の1911年。男は30歳になった。
そして、そのことを実行に移すことにした。


8月20日の日曜日。夕方になって男はたいした荷物も持たず、閉館間際のルーブル美術館に観覧者として入館し、すきを見てクローゼットの中に身を潜めた。


翌日の月曜日は休館日であることからその日を選んだのだ。


日曜日の開館時間が過ぎて、警備員が詰め所に落ち着くころになってクローゼットから出た男は、難なく、自分で作った保護ケースを分解して、モナリザを「救い出す」ことに成功した。


男にはさらに計画があった。


警備員に目撃されても、何の問題もない出て行き方をしよう。


窓ガラスを壊して出ていくような目立つこともせず、休館日のメンテナンス作業に来ている画家のふりをして、堂々と出ていくのだ。


男は画家がよく羽織っているスモックと呼ばれる、ゆったりとした末広がりのマントを用意していた。


21日、月曜の休館日になって、メンテナンスの画家たちが出入りし始めた頃になって、男はスモックの下にモナリザを隠して、警備員の詰所の前を通って、堂々と外に出た。


何の障害もなく男はモナリザを持ち出すことに成功したのだ。
誰も気付いてさえいない。


アパートの部屋に帰って、男はしげしげと救い出したモナリザを観察した。


たいした絵ではないのかもしれないが、ダヴィンチの作品、イタリアの絵なんだ。自分はやるべきことをやった。


壁際のテーブルに無造作に立てかけて、男はベッドで眠りについた。


22日、火曜日。


フランス人の画家「ルイ・ベロー」がモナリザの模写をするためにルーブル美術館を訪れて、その絵が、モナリザがその場所に無いことが発覚した。


フランス政府は国境を閉鎖してモナリザの発見に全力をあげた。
すぐさま世界が騒然となった。


自分が救い出したことによって、大きな騒ぎになったことを知った男は床下にモナリザを静かに隠した。


そもそも男は美術に興味がなかったのだ。
モナリザは光を奪われて、アパートの床下に姿を隠した。


モナリザの静寂とは反対に、世間はモナリザのニュースで騒然としていた。


ダヴィンチの絵がルーブル美術館から消え去ったことは世界的なニュースになり、それまでさほど人気のあった作品ではなかったはずのモナリザは、一躍、あっという間に美術界のヒロインになったのだ。


美術家の中では評価のあったモナリザだが、この盗難事件が無ければ、現在のように世界中の老若男女に知れ渡ることはなかったのかもしれない。


実は、この盗難事件でスーパーアートの代表となった絵に、ダヴィンチがタイトルを付けていたかどうかは不明である。


モナリザという名前は、16世紀、イタリアの伝記作家「ジョルジョ・ヴァザーリ」が「レオナルドは、フランチェスコ・デル・ジョコンドから妻リザ(私の貴婦人)の肖像画制作の依頼を受けた」と書き遺していて、それが絵の名前として定着した。


当時のイタリアで、自分の妻を「私の貴婦人」と呼ぶのは、上流階級では当たり前の言い方で、イタリア語で「マドンナ(ma donna)」である。


その短縮形が「モナ(mona)」
「私の貴婦人、リザ」「モナ・リザ


これがダヴィンチの傑作、モナリザの名前の由来なのである。


大騒ぎになっているモナリザ盗難のニュースは、モナリザがフランスのルーブル美術館に飾られるに至った歴史的事実を繰り返し報道していたが、男は信じなかった。

 

 

 


美術品収集家でもあったフランソワ1世は1515年、イタリア戦争に勝利し、ミラノ公国を占拠した。


当時ミラノ公国を支配していたのはスフォルツァ家であり、そのスフォルツァ家に仕えていたのが誰あろう、ダヴィンチで、彼自身からしてみれば未完成であったモナリザ肖像画もそばに置いていた。


スフォルツァ家は追放されて、ダヴィンチはフランス、フランソワ1世の宮殿に居住させられたのである。


ダヴィンチが死去したのは1519年。まだ未完成だとしていたモナリザは弟子のサライが相続することになる。


そのサライからフランソワ1世が買い上げた。


所有権がその絵の発注者のイタリア人ではなく、フランスの王に移ったのだ。


その後ルイ14世に寄贈され、後にフランスの国有財産となっている。


そう報道されている。


アパートの床下に、モナリザは2年間も無造作に閉じ込められていた。


盗難のニュースもだいぶ小さい扱いになってきて、男はイタリアの美術商に買い取ってもらおうと考え、床下からモナリザを抱えだすと、イタリアに持ち込んだ。


話を持ち掛けた美術商の通報によって、男は逮捕され、モナリザも無事「保護」されて、世紀の盗難事件は一応の解決をみたのである。


男の名は「ビンセンツォ・ペルージャ(1881~1925)」


モナリザは故郷のイタリアで披露された後、1913年、ルーブル美術館に返却された。


ビンセンツォ・ペルージャは、禁固1年の判決を受けた。実際には半年で出所している。


その後、第一次世界大戦イタリア軍兵士として出征し、フランスに戻ってからは塗料店を開いていたという。


職業を「どろぼう」あるいは「塗料店経営」としている記事もあるが、モナリザ盗難事件を起こしたころ、何を仕事にしていたのかは分かっていないようである。


16世紀初頭に描かれたと思われるモナリザは、盗難によって無造作に扱われたわりにはダメージは大きくなく、修繕を施されて現在にいたっているわけだが、実は、モナリザの災難はこの盗難だけではない。


世界的に知られた名画はいくつかあるが、これほど波乱万丈にとんだ作品は稀有であろう。


1503年ごろ、フィレンツェの工房で描き始められたと思われるモナリザは、先述したような経緯でイタリアからフランスのアンボワーズ城近く、クロルセに運ばれた。1516年ごろのことと思われる。


ダヴィンチが死去してフランソワ1世に買い取られたモナリザはフォンテーヌブロー宮殿に移動する。


所有者がルイ14世に移ると、それに伴ってモナリザはベルサイユ宮殿に移動する。


やがてフランス革命の波に呑まれたモナリザは1797年にルーブル宮殿に移動されたが、ナポレオン1世の目にとまって、一時期チュイルリー宮殿、ナポレオンの寝室に飾られた。


まもなくルーブル美術館に戻されたものの、普仏戦争の間、1870年から1871年モナリザは戦禍を避けてフランス海軍のブレスト・アーセナルに保管されている。


その後ルーブル美術館に戻されて、盗難にあって、2年の間アパートの床下に閉じ込められていた。


幽閉生活から解放されてイタリア、ウフィツィ美術館での展示を経てからルーブル美術館に戻り、第一次世界大戦をそこで乗り切ったようだ。


第二次世界大戦の時には、アンボワーズ城、ロクデュー修道院シャンボール城、モントーバンのアングル美術館を転々とした避難生活を、モナリザは余儀なくされた。


戦後、ルーブル美術館に戻されて安穏の日々かと思っていると、1954年ごろ、年号はハッキリしないが、モナリザに恋をしたとする観客の男に、剃刀の刃で切り取ろうとして襲われた。


ガラスケースで保護されるようになったモナリザは、1956年、観客に酸をかけらた。
ガラスケースによって守られたとはいえ、完全なガードにはならず、一部、被害を受けた。


酸の被害騒動が冷めやらぬ、同じ年の1956年、今度は観客から石を投げつけられてガラスケースが破壊された。


モナリザのガラスケースは防弾ガラスになった。


一連のモナリザ襲撃事件に対して「サルバドール・ダリ(1904 ~1989)」は、


「非常に暴力的かつ様々な攻撃を誘発する力を持つ、美術史の中でも稀有な作品だ」


と言っている。


1974年には日本の東京国立博物館モナリザはやって来ている。


当時のモナリザは押しも押されもせぬ絵画界のスーパースター。
大混雑を緩和しようとした東京博物館は介助を必要とする人の入館を禁止した。


こんな差別措置を混雑緩和方法として採用するような国であったことは落胆せざるを得ないが、モナリザは抗議活動をする女性にスプレーをかけられる被害に遭った。


モナリザ自身が介助必要者を差別したわけではなかったのだが。


モナリザに被害はなかった。犯人の日本人女性は軽犯罪法違反で罰金3000円。


東京博物館の入館禁止措置に対してはなんのお咎めもなかったことも問題であると思われるが、美術品に対する狼藉が軽犯罪だとしても、ビンセンツォ・ペルージャの時もそうだが罰則が軽すぎるのではないだろうか。


2009年、ルーブル美術館に戻っていたモナリザは、ロシア人女性にティーカップを投げつけられた。


防弾ガラスケースに守られているモナリザである。被害は何もなかったが、このティーカップ事件以降、専用の展示室が設けられ、そこに移された。


2022年、専用展示室で孤高の日々をかこっていたモナリザに、環境保護運動家の男がケーキをこすりつけた。


もちろんガラスケースに守られたモナリザに何の被害もなかったが、受難の日々は終わっていないのかもしれない。


環境保護団体関係者の美術品への狼藉が、このところ世界各国で目立っている。
訴えたいことの内容と美術品への攻撃にどういう関係があるのか、理解に苦しむところだ。


モナリザ以外にもいわれのない被害を被っている美術品は多いだろうが、モナリザの特異性はなんといってもアパートの床下に2年間もいたという幽閉期間を持つということに尽きるだろう。

 

 

 


ティーカップを投げつけられたり、ケーキをこすりつけられたりするのは、ある意味、有名税と言えないこともないかもしれないが、その有名性が床下の2年間によってもたらされてということは、モナリザにとって嬉しいことなのか、憂うることなのか。


モナリザ自身にも、ダヴィンチにも判らないことだろう。


500年以上前に描かれた、未完成の傑作「モナ・リザ」である。