< 旨いものを食べるのが大好きっていう人間に悪いヤツはいないでしょ 老若男女だれでもね >
3代目壮年夫婦でやってる老舗の小料理屋さん。
カウンターには大皿に盛った煮物が2種類ばかり。その脇には小鉢とか皿が重ね並べられていて、椅子もなくて座れない。
客席は4人がけテーブルが5つ。
料理も酒も昭和な店です。
ここで呑むときは4人がけテーブルで、たいていの場合相席ってことになります。
客も若い人は少なくって、たいてい昭和生まれの人間が縄暖簾をくぐってやってきます。
で、先日も老夫婦との相席となりました。
2人とも小柄で頭はキレイに真っ白、明るくシャキシャキした感じでした。
ダンナさんの方は少しふっくらしています。奥さんはスリムで笑い方が気取らずに子供っぽい声で、なんとも楽しそうな笑顔。
その老夫婦も私も、その店の二十年選手の常連で、店の女将さんから紹介されてお互いに初対面であることにビックリでした。
「もしかしてすれ違ったことがあるのかもしれませんけどねえ、この年になりますとね、すぐ忘れちゃうもんですから。すみませんねえ」
先に座って、日本酒をやっていた老夫婦の奥さんが、ごく自然に笑いながら「すみません」って言ってテーブルに迎えてくれたんですが、この「すみません」の使い方も、なんだか昭和っぽいなあって思ったです。
別に謝っている意識じゃなくって、こんにちは、今晩は、ぐらいのニュアンスで使う「すみません」ってありましたよね。最近は聞かなくなった日本語の使い方かもですけど。
奥さんの隣りに席を勧められて、店の女将さんがおしぼりと箸を持って来てくれます。
「ぱうすさん、きょうはなにからいく?」
「黒糖でお願いします。煮物は何があります?」
「きょうはね、カブと揚げと煮卵、それとさつま揚げと大根と高野豆腐」
「ほほう卵入りですか。いつも通り2つともください」
と、向かいに座っているダンナが口角をあげて目を細めながらニコニコと奥さんと見合っています。
奥さんの方を見てみますと、やっぱりニコニコしながら何度も肯いています。私と目を合わせると、
「ここの煮物、お好きですか?」
「はい、ほとんどデフォルトで2種類注文しますね。何が出てきても旨いですよね。強過ぎなくって、懐かしいような味の煮物ですよねえ。酒のアテとして一級品だと思います」
「ほほほ、わたしたちもね、ここの煮物が大好きでね、必ず注文するんですよ。いつも2つともね」
と、ダンナが、
「大好きに、なった、って感じなんですけどね」
「わたしたちの仲を取り持ってくれた味なんですよ。ほほほ、お恥ずかしい話なんですけどね、ホントにねえ」
初めて会って、席についてものの数分で、しみじみした話を老夫婦がしてくれました。
建設会社の事務職で知り合って結婚したお2人なんだそうです。
「こんなじいさんばあさんの話につき合わせちゃって申しわけないんだけど、同じ店の味の好きな常連さん同士ってことで、聞いてくださいね。なんとなく話したくなっちゃってね、こんなこと今までないんですけど」
いえいえ、イヤな感じはちっとも受けていませんし、そこまで離れた年齢ってわけでもないと思いますので、はい、
聞かせていただきます。
店の女将さんはどうやら内容を知っている様子で、大きな笑顔でこっちを見守っていましたです。
2人が付き合っていることは、会社の中では内緒だったそうで、デートは隣りの駅の、夜までやってる喫茶店。
ただ、社食のテーブルでなんとなく2人でいることが多くなっていたんで、気付いている人はけっこういたかもしれないって、奥さんが笑ってました。
なんでだか分かりませんけれども、社内恋愛はご法度、っていう社内規定がホントに在ったんですよ。昭和の時代ね。
ダンナの方の社内でのポジションがなんとなく見えてきた頃に結婚。
すぐにアパートを借りて、奥さんは会社を辞めて専業主婦。
「2人で暮らし始めたらさっそく大問題発生だったんですよ」
と、ダンナがニコニコ言います。
「あたしもね、実家でご飯作ることもあったしね、別に料理が得意っていうんでもないけど、不得意なつもりでもなかったんです」
「ところが、これが、え? って思うぐらいのレベルだったんですよ。味付けが違うとかそういうんじゃなくって」
「なに言ってるんですか、要は味付けの問題なんですよ、味付け」
「しばらく我慢してたんですけど、やっぱりね、いつまでもね、このままじゃっていうんで……」
「しばらくしてからじゃないですよ、すぐですよ、次の日ぐらいに、これ、まずいんだけど、って」
「カレイの煮つけだったよね」
「失礼しちゃうでしょお、ねえ。新婚家庭の食卓で手料理がまずいなんて、いきなり」
ま、思い出話で諍いが再燃するってことでもないんですけど、食べものの味の感覚が全く合わないとしたら、どうなんでしょうね、一般論として夫婦生活、成り立ちますかね?
群ようこ「食べる生活」っていう本があって、その中に「妻の料理がまずい問題」っていう一編のエッセイがあります。
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食事を作る人の立場もいろいろとある。働いている母親だから作らないわけではなく、専業主婦だから作るというわけでもない。そして作る料理がどれもおいしいとは限らない。母親ではなく父親が料理を作る家庭も増えてきた。
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そうですね。その通りだと思いますけど、今でも料理担当は奥さん、お母さんっていう家庭が多いんじゃないでしょうか。
今回の老夫婦とは違う中年夫婦の似たような話を前に聞いたことがあったんですね。
その中年夫婦は別々の会社に共働きで、食事は奥さんが朝と晩、作っていたそうなんですけど、ダンナがヘーキでまずいと言って批判する。
すると奥さんは「だったら食べなくて結構」っておかずの皿を片づけちゃう。
で、ダンナは梅干し茶漬け。
その中年夫婦も別の呑み屋さんで顔を合わせる顔馴染みだったんですが、夫婦で来て、アテをガンガン注文する大食い夫婦。
その日はあんまり食べてなくって、どした? って聞いたら、ダンナが、
「今、家で食べ来てばっかりなんですよ。残り物なんですけどね」
「こら、残り物、言うな!」
っていうことで、夫婦仲は悪くないって思うんですけど、ダンナの「妻の料理」に対する不満は、もしかして消えてなかったのかもです。
これね、「文句言うんだったら自分で作れ」ってことになって、ケンカになっちゃうのって、多くのカップルが経験しているみたいなんですよね。
料理担当の男女が逆転したって同じ問題は起こるでしょうし。
「妻の料理がまずい問題」では、料理を作ってくれる奥さんにまずいって言えずに50年暮らして来たっていう、ラジオ放送への男性リスナーの投稿に対して、言わなきゃ奥さんの方だって調整のしようがないんだから、伝えないとダメでしょ、って言ってますけど、この男性リスナーは、まずいって言ってしまえば「文句言うんだったら自分で作れ」っていう結論が頭の中に渦巻いて言えないで来たのかもですよね。
自分では料理なんかできない。
群ようこさんは言います。
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私は五十年もまずいと思い続けられる料理ってすごいなと感心した。
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むっはっは。大正解ですね。どういう味なんだろうって想像して、ちっとも楽しくならないんですけど、そのまずさに慣れるってことはないんでしょうかね。
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その奥さんもちょっと手抜きをして、主菜になるお惣菜を買っていたら、そんなふうにならなかったかもしれない。それほどまずいのなら、調理に慣れた他人が作ったもののほうがましだろうから、手作りの料理がまずくても、一品、食べられるものがあれば、それで何とか食事は成り立つ。
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今はスーパーとかコンビニとか、かなり評判の高いお惣菜、いっぱいありますもんね。冷食とかもね。
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知り合いの編集者には幼い子供がいて、毎日、料理を作るようにはしているが、おかずの品数が足りないので、一品、お惣菜を買って帰る。自分が作るよりも味が濃いのはわかっているのだが、子供は彼女が作った料理よりも、その味が濃いお惣菜を好んで食べるのだそうだ。
「それが困るんです。でもどうやって味を調整していいかわからなくて」
それを聞いた私は、
「市販のお惣菜は味付けが濃いし、油分も多いから、そのお惣菜の中に入っている野菜の量を増やすようにして、さっとゆがいただけのものを足してみたら」
といってみた。
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いってみた、ってところが群ようこの真骨頂かもですけど、いろいろ自分でも工夫してきているみたいです。
お惣菜を買って来るのはいいとして、味の濃さを調整するのは意外にワザが必要らしいんですね。
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自分もフルタイムで働いていながら、周囲に食事をする場所がない研究者の娘さんのために、毎日お弁当を作り続けている料理好きの友だちにその話をしたら、
「春雨がいちばん手っ取り早いわよ。ハンバーグのような洋風お惣菜には向かないけれど、和食と中華にはいける」
と勧めてくれた。
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ま、みなさんそれぞれに味だけじゃなくって健康に対する気遣いってやつもあって、不断の工夫をされているんでありましょうねえ。
で、新婚すぐに「妻の料理がまずい問題」が発覚した老夫婦の場合、工夫したのはお惣菜じゃなかったそうなんです。
「結婚するまでこの人が、どんな料理が好きかなんて考えたこともありませんでしたしね、困り果てたんですよ」
「それまで食べものにうるさい方じゃなかったですから、まずいって言っておいて、さて、自分がどんな味が好きなのかって言われると、なんかね、ハッキリしない」
「もうね、離婚も覚悟して仲人さんに相談したんです。お酒が大好きな人でね、当時の小料理屋さんに連れて行ってくれて、ね」
「2人とも呑めるんだから、週に何回かこういう店を回ってみて、自分たちの好きな味を一緒に探してみたらイイんじゃないかって言われてね」
これまた群ようこアドバイスに負けず劣らず、なかなかのアイディアですよね。
「きっかり20軒目がこのお店だったんです。先代のね、2代目の。ここの煮物がおいしくって、初めて2人とも意見が合ってね。それで世間知らずだったんですよね。作り方教えてもらおうってお願いしたらね……」
先代の大将に静かに怒られたそうです。
味を気に入ってくれたのはうれしいけど、ウチはこれで商売しているんだから、自分で工夫しみてくれ。
「そんなようなことを言われて初めて、料理ってなんなのか気付いた感じだったんですよ」
「ここの煮物の味を再現しようってなったらね、いろいろ本を読んだりして、わたしもダイドコに立つようになってね、うまくいったり、失敗したり。いつの間にか険悪な夫婦関係が消えてましてね」
「1回しか使わなかった調味料が増えちゃったりしてね。お恥ずかしいことですけど」
あれこれ喧々諤々やりながら、しょっちゅう店に通うようになって、すっかり常連さんになると、大将が、
「ご飯のおかずにするんだったら、砂糖もしょう油も控えめにするのがいいだろう」
とか、
「下ごしらえ、下処理っていうのが旨さを作り上げるんだよ」
とか、味そのものじゃなくって作り方を、さりげなくアドバイスしてくれるようになったんだそうです。
と、店の女将さんがチェイサーのお代わりを持って来てくれながら、
「このご夫婦はね、ウチのとライバルなんですよ。同じような修行をしているんですからね。先代から引き継ぐときもやっぱりね、味は盗むもんだ、それで自分の味を見つけて行けって」
老夫婦は大きく、満足そうに肯いていました。
厨房の中では大将が少しだけ笑っていましたです。
煮物のバリエーションが増えていくと同時に、他の料理も2人の好みの味が作れるようになったんだそうです。
で、最後に奥さんが、
「自分好みの酒のアテを作るのは自信もありますし、ちょこちょこ作りますけど、やっぱりね、こうして自分好みの味付けのものをね、ヒトサマに作っていただいて、味わうのがイチバンですねえ」
大賛成! っと、自分では作らずに呑み食い専門の私はお2人の話にお礼を申し上げましたです。
好い夫婦って、いるですよ、ね。なんとも穏やかな笑顔のお2人だったです。
旨い酒、旨いアテ、穏やかな昭和の空気感。ウキウキ呑めるってもんです。