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【あっぱれの戯作者】たわむれに詩文を作るのが戯作なんだそうですけど たわむれったってねえ

< 日本で最初の職業作家としては 井原西鶴 山東京伝 十返舎一九 の名前が挙がってます >

江戸時代の識字率は6割ほどもあって、同時代の西欧の国々の3割程度っていう数字を大きく引き離していたってされています。


そういう素地があってこそなんでしょうけれども、娯楽本とはいえ、江戸時代中期からは読書ブームっていうのが周期的に起こっているみたいなんですね。


人気の書き手、商売上手な売り手が作り出したであろう江戸時代の読書ブーム。
印刷技術は版画ですね。


江戸時代の本は挿絵入りの戯作(げさく)っていわれるものがほとんど。大人の絵本、みたいな感覚だったんでしょうかね。
とにかく、江戸時代の人たちはみんな本を読んでいた。


昭和99年って年にあたる2024年、9月に文化庁令和5年度「国語に関する世論調査」の結果概要を公表しました。

 

これは16歳以上の男女個人6000人を対象に、郵送で質問回答っていう方法で行われた調査で、有効回答率は3559人、59.3%だったそうです。


で、「読書と文字・活字による情報に関する意識」の中で「あなたは現在、1か月に大体何冊くらい本を読んでいますか。電子書籍を含みますが、雑誌や漫画は除きます」って聞いてます。


結果、本なんて読まないよ、っていう人の数が初めて半数を超えて「62.6%」


つまりですね、月に1冊以上本を読むって人は3人に1人しかいないってことです。昭和世代の人間にとっては、ちょっと信じがたい数字。


でもまあ、スマホ、ネットの時代ですから、情報取得方法が本である必要が薄らいで来ているって言われても驚きはしないですけどね。

 

 

 


特に若い世代だと、本以外にも情報、知識習得のツールがあるんでないかい?


そういう理解に落ち着きたいところなんですけど、どうもね、本を読まない理由はデジタル移行の結果じゃない気もします。
文化庁の調査は電子書籍を含んでいるわけですからね。


ちょっと前に迷惑動画がニュースになった時、一般的にみんなが疑問に思ったこと。


こんなに頻繁にニュースで取り上げられていて、軽くない罪に問われるし、将来がなくなるぞって分かっているはずなのに、なんで次々にバカ動画をアップするの?


その答えは、

「そういう奴ら、ニュースなんて見てないから、情報を知らないんだよ」

らしいんです。


スマホでもテレビでも、ニュース見ない人って、やっぱり本なんか読まなそうに思えます。


一方的に情報を受け取れるお気楽極楽なツールに常に触れていながらニュースなんて見ない。むしろ選択的に避けているぐらいのニュアンスなのかもです。


メディアのせいじゃなくって初等中等の教育が原因なんでしょか。


ずっと前から言われていることですけど、本離れ、読書離れが進んでいます、って軽く流してイイような問題じゃない気がしますねえ。
昔の日本人の方が世の中の認識、しっかりした知識を持っていたのかも、とかね、そんなふうにも考えちゃいます。


江戸時代、「荻生徂徠(1666~1728)」っていう学者さんが、中国の口語小説を日本に紹介した頃からポツポツと読本(よみほん)が書かれ始めたことが、日本の家内工業出版につながって行くみたいですね。


初期には関西、上方が出版文化の中心だったみたいです。


井原西鶴(1642~1693)」っていう人が浮世草子の「好色一代男」なんかを書いています。有名ですよね。
この井原西鶴っていう人は大阪の人。人形浄瑠璃作品も多く書いた人です。


上田秋成(1734~1809)」も大阪の人で、今でも人気の「雨月物語」を書いていますね。これは読本(よみほん)っていうジャンルに分類されています。


香川県出身の「平賀源内(1728~1780)」は江戸で談義本「根南志具佐(ねなしぐさ)」滑稽本「風流志道軒伝」を書いています。エレキテルだとかマルチな才能をみせた人。


そして「蜀山人」って号した御家人の「太田南畝(1749~1823)」が江戸で1767年、狂詩集「寝惚先生文集」を発表して狂歌が江戸で大流行するんですね。


この辺りから日本の出版、娯楽本の中心が上方から江戸に移ったんだじゃないかと思います。

 

 

 


第8代将軍徳川吉宗(1684~1751)が主導して行われた「享保の改革(1716~1735or1745)」は、幕府の財政を立て直そうと倹約を勧めて、概ね成功したんだそうですね。吉宗が名君と言われる由縁です。


幕府にも、江戸の町にも気持ち的な余裕が出てきたのか、幕政は重商主義の田沼時代に入って行きます。


賄賂が横行した金権政治だったって言われている田沼意次が幕政を牛耳っていたのは、享保の改革が遠くなり始めた1767年から、失脚する1786年まで。


「寝惚先生文集」が出されたのは1767年ですから、まさに田沼時代のスタートした年ですね。


江戸でこの狂詩集を出版したのは「切抜屋小文次(きりぬきやこもんじ)」
京都では「嘉隆屋才七(かりゅうやさいしち)」
大阪では「初編屋文十郎(しょへんやぶんじゅうろう)」


この頃の出版人はほぼ個人店だったんでしょうね。屋号と主人の名前がくっついた名乗りです。
この人たちが現代まで引き継がれているような出版形態をのこしている人なのかどうか調べきれませんでした。


この時代の江戸で出版人として活躍していて、名前が知られているのが「蔦屋重三郎(1750~1797)」


2025年の第64作NHK大河ドラマは「べらぼう  蔦重栄華乃夢噺(つたじゅうえいがのゆめばなし)」だそうですが、その主人公、蔦重こと蔦屋重三郎がその人です。


「べらぼう」がどんな話になるのか、大河ファンって大勢いますよね。


戯作を広めた江戸のメディア王っていう取り上げ方みたいですけど、盛り上げようが難しそうって、余計な心配をしちゃいます。


この当時の戯作はいくつかの種類に分けられています。


《草双紙》
絵本って呼ばれることもあったらしくって、絵が中心。そこに仮名で筋書きが書き込まれたもの。


子供向けの昔ばなしなどは赤い表紙の「赤本」


女性向けに芝居の筋書きを書いた青い表紙の「青本


武勇伝を書いた黒い表紙の「黒本」


大人向けの娯楽本が黄色い表紙の「黄表紙
黄表紙っていうのは、時代物の本に、今でも時々出てくる名前ですね。


草双紙のなかにこんなに種類があったっていうのも一興です。


《読本》
草双紙に比べると挿絵が入ってはいるものの、あくまで文章が中心。


《洒落本》
なんで洒落っていうのかナゾですが、いわゆる悪場所での遊びの様子を書いたもの。


滑稽本
おかしみのある話を書いたもの。


《談義本》
滑稽を書いたものなんだけれど教訓としての意味合いもあったもの。
時代的には談義本が最初にあって、だんだんに教訓の部分が薄れて行って滑稽本になっていったみたいです。


人情本
恋愛を書いたもの。
たしかにね、人情の最もスタイリッシュなのが男女間の恋愛なのかもですねえ。


蔦重はこういった戯作本だけじゃなくって、喜多川歌麿東洲斎写楽歌川広重だとかの浮世絵、錦絵も扱っていて、どんどん商売を広げて、江戸を代表する出版人になったみたいです。メディア王、ですねえ。

 

 

 


でも、順風満帆にはいかなかったみたいなんです。


江戸市民だけじゃなくって、日本中の人気を集めていた戯作だったんですが、幕府に変化が起きちゃうんですねえ。


田沼意次が失脚して、松平定信が老中になって「寛政の改革(1787~1793)」が始まっちゃいます。


汚職問題で悪評の高い田沼時代ですが、戯作とかの市民文化には寛大だったようなんです。


ところが寛政の改革は、うまくいった享保の改革を範として幕政の倹約、市民文化の引き締めを図ります。
風紀上ヨロシクナイ物はダメ! 幕政に対する批判なんかトンデモナイ! 娯楽にウツツを抜かしてんじゃねえぞ、コラア~!


ってことになって、寛政3年(1791)、当時随一の人気戯作者「山東京伝(1761~1816)」が書いた黄表紙、って言いますから大人向けの娯楽本「仕懸文庫」「錦の裏」「娼妓絹籭(しょうぎきぬぶるい)」が幕府に摘発されます。今でいう発禁処分ですね。


山東京伝は「手鎖(てじょう)50日」っていう処罰を受けます。


牢に容れるほどじゃないけれど、っていいながら、両手を前に組ませて、鉄製でひょうたん型の手錠をかけて、自宅謹慎させるんですから、なかなかきびしいもんです。
なんとか日常の用事はこなせるでしょうけれど、不自由なことこのうえない。


出版した蔦重は「身上半減」っていう過料処分を受けます。
身上っていうのは年収のことだそうで、その年の収入の半分を没収されちゃったんですね、メディア王の蔦重。


「べらぼう」のストーリーのヤマがこの辺りにあるんだとすると、なんかパッとしませんよね。ん~。


なにか違った面白さを描いてくれるんだろうと思いたいところです。


山東京伝はこの摘発によってかなり精神的ダメージを負ったようなんですが、寛政の改革はその2年後、松平定信の老中失脚によって突然終わってしまいます。


あまりにも厳しすぎる規則の遵守を強いるために他の幕僚たちや、朝廷との関係に齟齬をきたしたための失脚だったようなんですが、市民からも嫌われていた存在だったんでしょうね。松平定信


蜀山人、太田南畝が得意の狂歌で揶揄しています。


「白河の 清きに魚の すみかねて もとの濁りの 田沼こひしき」


松平定信白河藩の藩主なんで、白河のってことです。蜀山人、さすがに巧いです。


寛政の改革は1793年、わずか6年で終了です。


過料処分を受けた蔦重は「目を付けられた存在」となっていて、幕府や世間の風の流れが変わるのを、アイディアをひねりながら待っていたのかもしれませんが、松平定信の失脚後、たった4年の1979年、47歳で死んじゃうんですね。


蔦重が亡くなった時には30歳の十返舎一九、28歳の曲亭馬琴が蔦重の日本橋にあった店の番頭をしていたんだそうで、しっかりと才能を抱えこんで、準備万端だったように思えますけどねえ。


「江戸わずらい(脚気)」だったそうです、残念無念。


十返舎一九が「東海道中膝栗毛」を書き始めたのは蔦重が亡くなってから3年後の1802年


蔦重のもとにいたとはいえ特にヒット作を持っていなかった十返舎一九は、自分で挿絵も描くし、版下の清書もするっていう企画で、村田屋治郎兵衛っていう出版人に売り込んだらしいんですね。


それなら出版する側として楽でイイから、とりあえずやってみようってことからのスタート。


江戸時代には「お伊勢参り」の流行が周期的にあったようですが、例えば江戸から歩いてどこへも寄らず伊勢まで行くと、15日、16日かかったそうですから、おいそれと誰でも行けるもんでもないでしょうね。


1ヵ月ちょっとの休みが取れないと江戸からは行けません。
そこのところを面白おかしく紙上旅行ができるってことで、大人気になった「東海道中膝栗毛


自分の脚を栗毛の馬の脚に見立てたタイトルですね。

 

 

弥次喜多道中って言われるこの大衆娯楽本は空前のヒットになって、「続膝栗毛」が書き継がれます。


東海道から四国へ足をのばして、宮島に渡って中山道(なかせんどう)経由で関東へ戻って、弥次喜多が江戸へ帰ってくるまで21年間の連載。


凄いです。ドラゴンボールみたい。知らんけど。


「十返舎」は「じっぺんしゃ」って読むみたいですけど、このペンネーム、なんでしょ?


重田貞一っていうのが本名で、幼名は「市九(いちく)」


香道に詳しいらしいんですね、重田貞一くんは。
「黄熱香」っていう名香は10回焚いてもその香りを失わないので「10返しの香」って呼ばれるんだそうで、それを名乗りたかったんでしょうね。それで「十返舎」
「一九」は幼名の市九から。


十返舎一九(1765~1831)」は弥次喜多一作で江戸文化の華の時期として有名な化政期のスタートを引っ張る大作家になったんですね。


後世の評価として、

山東京伝曲亭馬琴に比べると、知的な教養に欠け、創意工夫や緻密さに欠ける」

なんていうのもあるんですけど、「南総里見八犬伝」の曲亭馬琴(1767~1848)は十返舎一九を評して「あっぱれの戯作者」って言っています。


この言葉は曲亭馬琴特有のイヤミじゃなくって、同業者としての尊敬の念だと思いますねえ。


曲亭馬琴っていう人は世間的にそんなに愛想はよくなかったみたいですけど、十返舎一九っていう人は、サービス精神の塊。
辞世の句っていうのが遺っています。


「この世をば どりゃおいとまに せん香の 煙とともに灰左様なら」


弥次喜多道中で交わされる洒落のめしたセリフを彷彿とさせるものがあります。


で、弟子に与えた遺言が「絶対に火葬しておくれ」
なんで? って思いながら遺言通りに火葬すると、棺桶から花火がドッカーン!


っていうようなエピソードまで遺っているような人だったんですね、十返舎一九


サービス精神、かくあるべし! なのかもです。
大河では誰が演るんでしょか、十返舎一九

 

 

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