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【無礼講】この言葉がいまだに生き残っている令和日本の【ノブレス・オブリージュ】を考える

<自粛生活 要請している側と要請されている側の線引きが判らないのは好いことなのかも>

先日【コンビニ角打ち】でちょっと触れました「無礼講」という言葉についてです。
30代と思しき男性サラリーマンの口から出てきた声を聞いて、


「ああ、久しぶりに聞いた。まだ生き残っている言葉なんだなあ」


と感じたんですが、改めて考えてみれば、生き残っているどころではなくて、その言葉を常に意識せざるを得ない社会なのかもなあ、という気もしてきます。


わざわざ「無礼講だから」とかね、言わないといけない空気感。そんな集まり。


言葉として口にする機会は多くないと思いますが、意識の中にはどうしようもなく存在しているのかもしれません。日本人はね。今もね。
ま、日本語ですからね、日本人の意識にしか無いのかもしれませんです。


無礼講の辞書説明を見てみれば、
「地位や身分の上下を取り払い楽しむという趣旨の宴会」
必ずしも酒をともなわなくともイイのかもしれませんが「宴会」そのものを言い表すわけですね。
「地位や身分の上下を取り払い」ということは、「地位・身分」が厳然と存在していることが大前提。

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今はさあ、身分の違いなんてないじゃん! っていう考えの人も少なくないとは思いますが、制度的な身分制度はなくとも、現実的に生活環境の格差はハッキリ存在しているように感じます。


小学校の運動会。徒競走で順位をつけないというふうになったのはいつごろからでしょうか。
何を目的に始めたことなんでしょうかね。


特に教育方針とか、教育要領とか注目したことはありませんが、理解しがたいです。
小学校を卒業して中学受験という子供は少数派かもしれませんが、高校受験は多くの生徒が挑まざるを得ないわけです。


受験は他人との差を、テストの点数で明確にする制度。みんな同じ、ではなく、違いをハッキリさせるわけです。


この受験という「儀式」を経験することなくエスカレータ式で幼稚園から大学まで、という人たちも少数派ながら居ますよね。
そりゃラクでイイねえ、ってなもんですが、誰でも希望すれば出来るってことじゃないわけです。


身分とは言いませんけれど「家」のレベル。キッチリ、差があります。

 


そういう現実に踏み込むことなく、徒競走の順位をつけない、通信簿に明確なクラス内順位をつけない。


でもまあ、みんな知っていますよね。
世の中に対して文句を言うことはしないんですが、みんなが同じではないことは知っています。
身分とは言わないけれども、みんなが同じ暮らしを生きているわけじゃない。


会社の中もいろいろです。


係長とかグループリーダ。課長、そして部長。部長止まりの部長とか、もっと上に行く部長とか。


誰もが順番になれるものではありません。なりたくなんかない、って人も少なくない感じもしますけれどね。


しかも必ずしも仕事の能力、成績によって役付きになっている感じでもない人、も居ます。
家系のブランド。


自分より年若い、スキルのない上司、なんていうのはごく当たり前。


公然の秘密、「オトナノジジョウ」があったりするわけですね。


なぜそういう人事が行われるのか。理由は千差万別。


この辺りになりますと、もう誰も突っ込んだりしません。出来ませんですね。
それが日本の世の中です。諸外国でも大差無いように聞きますよ。


で、こういう社会風潮があるんで「無礼講」という意識がずっと残っているんでしょうね。


かなり昔からある意識らしいです。文献的に確認できるものは1324年、鎌倉時代末期ですね、「花園天皇宸記」だそうです。


時の公卿「日野資朝」と、公家「日野俊基」の2人が主催した茶会が「無礼講」であったとされています。
鎌倉時代ですから貴族社会と武家社会と平民社会。さらにはその下の身分もあった時代です。

 


身分によって着るもの、着物の色も決められていた世の中で、日野資朝卿は、身分の分かる着物を止めて、どんな身分の者であっても才能がありさえすれば、ともに大いに語ろうではないかという趣旨で「無礼講」を開催したんだそうです。


そんなことをする人なんかいるはずもない時代ですから、噂になったんでしょうし、破廉恥などと評されたりもしていますね。


日野資朝卿という人は「正中の変」で佐渡島流罪となって、「弘元の乱」に連座して処刑されています。
身分制度の厳しい世の中で、中級貴族の家柄ながら宮廷随一といわれた才能を認められ、花園天皇の秘書的な役割に昇進して、どんどん評価されて公家から公卿身分になって、さらに後醍醐天皇の側近として活躍した人です。


後醍醐天皇の側近となるにあたっては実の父親から義絶されたりと、さすが「無礼講」の創始者らしいエピソードが残っていますね。


その中でもユニークなのは、あの兼好法師の「徒然草」に記されたものでしょう。第152段です。


奈良、南都七大寺の1つ、西大寺の静然上人が宮中へ参上した際、その腰が曲がって眉も白く足取りも頼りない姿を見た西園寺内大臣が「ああ、なんと尊くありがたいご様子であろうか」と拝むような態度であったとき、隣りに居た日野資朝卿が「ただ年寄っているだけですよ」と言った。


後日、よぼよぼで毛の抜けかけた犬を連れて内大臣の屋敷を訪れて、「内大臣におかれましては、この犬も尊く思召されるかと」と言って、その犬を内大臣へ差し上げたということだ。


ま、ホントかどうか分かりません。ですが徒然草は1331年ごろまとめられたとされていますから、年代的にはこういう噂話があったことは信じていいのかもしれません。


貴族の中にも、というか貴族であればこそなのかもしれませんが、かなりのヒネクレモノ。


当時の西園寺内大臣という人については何も知りませんけれど、日野資朝からしてみれば、位はあっても、尊敬すべき実績を感じ得ない人だったのかもしれませんね。


家柄だけで役職についている人。


このエピソードのとき、日野資朝卿はまだ公卿になっていなかったのかもしれません。おそらく自分より上位の、自分より年上の内大臣に対する行動。
今の時代でさえ、こんなことをしでかす人は居ないんじゃないでしょうか。やれませんよね。
特にお役人さんの世界では考えられない。


これね、この言葉、通じますよね「お役人さん」

いまでもそう言いますよね。公務員じゃなくって「お役人さん」ね。国家公務員。違いますよ、身分が。ま、頭の出来も違うはずですけれどね。


2021年3月24日。銀座の居酒屋さんで厚生労働省老健局の23人が深夜まで送別会をしていたニュースがありました。
課長さんが更迭されてしまいましたね。


役人さんだって、やっぱり久しぶりの呑み会だし、はめをはずすといいますか、羽を伸ばしたい気持ちは誰でも理解できることだと思うんですが、自粛自粛と国民に要請している当の厚生労働省の人員であっただけに、非難が集中したわけですよね。


でもって、あろうことか4月8日には、送別会に参加した職員6人の新型コロナウイルス感染が発表されました。
12日には新たに4人、感染していたと発表されています。合わせて10人。


もちろん、感染は不幸な出来事ですし、大事に至らず早期に回復されることを願いますが、ですが、ね、ま、何をかいわんや。って次第なのでありますよ。


厚生労働省って日本の保健を司る部署で、そこの「お役人さん」たちですからね。


送別会は課の全員が参加したわけでは無さそうですし、参加したお役人さんたちにしても誰も気にしていなかったわけじゃないんでしょうね。するなやるなを口やかましく言っている張本人たちですからね。


宴会やっちゃうのは、どうかなあ、と。

 


でも、送別会ですし、課長が音頭取りしてますし、なかなか断れないですよね。無礼講だから、とか言われたかもしれません。


で、酒が入っちゃえば、なんだか、どうでもいい雰囲気も出てきたのかもしれません。
国民に自粛を要請している側に居る、そういうご身分である自覚。薄いというか、無いのかもしれませんね。


生活格差はあるにしても、身分なんていう意識は無い。


でも、それでイイのかもという気もしてきます。


それじゃ困るよ、というのは御尤もですし、お役人さんたちの肩を持つ気はまったくありませんが、ノブレス・オブリージュなどと言い始めますと、身分格差を認めることにもつながっていくでしょうからね。


適当におバカで、能天気な日本のお役人さんたち。能天気だらけ。


ん~。やっぱり、これじゃダメですかねえ。


日本ってすっかり「劣化」してしまっているんですかねえ。ワクチン接種もちっとも進捗しませんしねえ。


なんだか疲れますねえ。


でもまあ、落ち込まずにいきませう! こっちこそ能天気に、でイイのかな?!