< 隅田川沿い 桜橋から吾妻橋にかけての花見 「花より団子」の正体が「言問団子」でしょねえ >
2023年も時が過ぎて行くにつれまして、コロナの第8波もだいぶ下火になってきました。
都内の観光業界もようやく動き出してきた春先ですね。
そういえばここのところ見かけなくなっていたなあってことに気付かされるものに「はとバスツアー」があります。
あの独特のクリーム色の車体。
なんで、どの辺が「はと」なのか知りませんが、コロナ前は都内を歩けばけっこう目にしていたバスでした。
乗ったことはないです。
「はとバスツアー」は、東京観光がメインなんでしょうから、東京近辺に住んでいる人たちは、そんなに利用しないかもですね。
東京の人、東京ランドマーク行かないアルアルです。
でも、たくさん設定されている「はとバスツアー」のコースを改めて確認してみますと、行ったことのない場所を効率的に回ってくれるコースっていうのもけっこう組まれていますね。
はとバスって1949年から観光バスとして運行しているみたいですからね、さすが歴史ある有意義な運用ってことなるんでしょうね。
2012年に開業した「東京スカイツリー」
その高さ634メートルはタワーとして世界第1位。構造物としては世界第3位だそうで、インバウンドとしても東京のランドマークとしてかなりの人気。
直線距離として8キロメートルちょっとしか離れていない「東京タワー」も人気は衰えず、健在みたいですしね。
「はとバスツアー」って、意外と東京に住んでいる人たちでも楽しめるのかもしれません。
「はとバスツアー」のコース。改めて確認してみると、発見があるかもですよ、東京通勤圏のみなさん。
なんにしても、活気が戻って欲しいっていうのは、地域を選ばず、日本全体に共通した思いでしょうしねえ。
「東京スカイツリー」「東京ソラマチ」があるのは、東京墨田区押上っていう土地。
すぐ南側に流れているのが「北十間川」っていう、江戸時代初期、徳川家康によって開削された運河ですね。
「東京スカイツリー」から「北十間川」を南へ渡った土地は墨田区業平(なりひら)。
平安時代の歌人「在原業平(825~880)」の業平です。
ちょっと横道に逸れますが、台所で使っている「行平鍋」
単に「ゆきひら」って呼んだりしていると思いますが、その昔、在原行平っていう人が海水から塩を作らせるために考えたっていうことで「行平鍋」っていう名前になったんだそうです。
在原業平のお兄さんだそうですよ。
弟の業平の方の話です。
歌詠みの東下りの旅なのかなんなのか関東へやって来て、今の墨田区業平、この辺りで亡くなったっていう伝説があるからあ~、みたいなんですね。
溺死したっていう説もある人ですけどねえ。
今は葛飾区に移った「業平山南蔵院」の境内に「業平天神社」があったっていうことで、業平塚の話が「江戸名所記」に遺っているんだそうですね。
この言い伝えから明治初期からその神社のあった辺りの土地に業平っていう名前が使われていたそうですが、正式に現在の業平地区が定められたのは1967年。
業平っていう歴史的な名前のわりには、意外に新しい制定なんですね。
でも、ホントに在原業平が平安時代の業平の辺りで死んだんでしょうかね。
京都の西京区「十輪寺」は、通称「業平寺」って言われていて、業平忌三弦法要が営まれることで知られていますけどね。晩年をこのお寺で過ごしたってことらしいですよ。
平安時代の初期の人の死んだ日が、元慶4年5月28日(880年7月9日)って詳細に遺っているのは、このお寺に残された文書があるからなんでしょうけどね。
在原業平が平安時代の関東近辺で死んだとしたら、日付まで遺っているでしょうかね。ま、分かりませんけど。
でもですね、墨田区の業平っていう名前が縁もゆかりもなく言われているわけじゃないんですよね。
当地死亡説以外に、関連のあるのが和歌ですね。歌人ですから、業平は。
どういう理由があったのか、ホントに歌を詠むためだけなのか、貴族階級の在原業平は東下りの旅をしているわけです。
政治の中央から遠ざけられた、っていうことがあったかもですね。知らんけど。
在原業平は当代随一って言われる美男子で、和歌に巧みだった人が、なんで都を遠く離れて、っていうふうにも思いますけど、その旅を書き遺してあるのが「伊勢物語」として伝わっているんですよね。
伊勢物語の中で在原業平が、隅田川を渡るに際して詠んだとされる歌が、
「名にし負はば いざ言問はむ 都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと」
この歌を詠んだってされている場所は、業平地区の西側に隣接している「向島(むこうじま)」っていう土地なんですが、向島から浅草に隅田川を渡る橋を「言問橋」って言います。
今現在の橋が架かっている辺りが、平安時代に隅田川の渡しをしていた場所なのかどうかはハッキリしていないみたいですが、イイのっ! 向島で詠んだ歌なのっ! ってことで、まあ、イイんじゃないでしょうかね。
ってことで、言問橋、在原業平っていう、なんとなく在原業平を連想させる歴史的背景があるんですね。
業平が隅田川を渡ろうとしたときに、見たことのない鳥に目を止めて
「あれ、なんちゅうトリ?」って聞いたら「あれ? ミヤコドリ」
へええ、「都」って名前が付いている鳥なんだ。じゃあさ、ってことで、
「そういう名前なんだったら 聞いてみようじゃないの ミヤコドリ」
ってなるんでしょうね。
「ありやなしや」っていうのは、もちろん生きているかどうかっていうニュアンスも含むんでしょうけど、元気でいるかどうかっていうことみたいです。
「わが思う人」って誰なんでしょう。
特定の人かどうかも分かりませんね。なにせ名うてのプレイボーイだったそうですからね。
「名にし負はば いざ言問はむ 都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと」
どこで詠んだ歌なのかっていう問題は別にして、時はざざあ~っと流れて江戸時代の末期。
向島に住んでいた植木師の外山佐吉っていう人が、キラッと閃いて団子屋を始めたそうです。
文学に造詣の深い、粋な職人さんだったんでしょうね。
店の名前を考えるにあたって、ここは在原業平がミヤコドリのうたを詠んだ土地だってんで、店の名前は「都鳥団子」
いや、違いますね。このあたりが文学造詣の深さ、粋の見せ所。
またまたキラッと閃いて「言問団子」って名前にしたんですね。
植木職人から団子屋への転職ですからね、どういう形態で移ったんでしょ。
いきなり明日っから団子屋やることにした。っていうことだったのか、趣味で始めた団子づくりが評判を呼んで、いっそのこと団子を本業にした方がイイんじゃないか、ってな具合で、だんだんに団子屋になっていったのか、ハッキリ分からないんで「言問団子」の創業年はお店の方でも明示していませんね。
でもまあ、江戸末期っていうのは間違いないんでしょう。外山佐吉さんが始めたんですからね。
大政奉還が1867年ですから、2023年時点で少なくとも160年ぐらいの歴史はありそうです。めっちゃ老舗。
季節によっては「はとバスツアーのコース」にも組み込まれている、現代でもチョー人気の団子屋さんです。
実際、旨いですよ。落ち着いた和菓子を感じられます。
隅田川の花見は江戸時代から今に至るまで変わらない見事さで人を呼んでいるんですけど、明治大正昭和の文人たちの多くも桜見物に訪れて、その際に立ち寄ったのが「言問団子」
なんかね、江戸末期からの老舗ってこともありますけど、店のネーミングセンスもあります。文人たちの色紙も多く保存されていて、江戸名物、東京名物、ここにありって感じなんですよね。
日本の歴史です。
「名にし負はば いざ言問はむ 都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと」
ミヤコドリっていうのはユリカモメのことらしいんですけど、あれですよね、氷屋さんの旗で飛んでいる鳥もミヤコドリでしたよね。
お台場辺りを走っている臨海線は「ゆりかもめ」ですけど。
ミヤコドリにしてみれば、京都の人の安否を聞かれても、知らんがな! ってことではあったでしょうけどね。
ちなみに「言問団子」って、TBSアナウンサーの「外山惠理(とやまえり)」アナウンサーの実家なんだそうですね。
団子、作れんのかな?
いや、全く関係ないことでしたね。はい。
花見、花より団子もイイんですけどね。イイ季節には混みますからね。花の時期を外して、また行ってみようと思います。
今でも好い土地なんですよ、この辺りって。
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