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【人智を超えたもの】デジタル時代の魂魄を考える

< デジタルネイティブスマホで調べられないものでも信じるか >

コロナ禍のストレスは、我々のどこに溜まっていくんでしょうか。


コロナ前と同じように振る舞っているつもりでも、どこか気になる部分があって、ふっと客観的に自分を見てしまっていることに気付かされることって、あったりしませんか。
ゴールデンウィークっていうリクリエーションでも大手を振ってキャピキャピ動けた人は少なかったように感じます。どこか他人の目を意識したりとか、ね。


コロナ自警団とか、マスク警察とか、コロナ禍の初期の頃に取り上げられたトピックがありましたが、日本人の真面目さなのか、2年3年と時が流れるうちには、誰かに非難されるような行為行動をする人は稀ですし、知らず知らずのうちに自分で自分を制限しているようなことは、誰にでもあるのかもしれません。


運動不足だとかいう身体の問題もありますけど、どうもね、精神的な何か、気持ちのどこかが疲労しているっていうことは充分に考えられますね。ホントはそっちの方が大事なことかもしれないです。

 


今は、スマホ1つあれば、すぐに何でも調べられますし、そこにはフェイクも溢れている世界です。
でもまあ、情報の取捨選択っていうのにはずいぶん慣れてきているっていう現状があるように思います。
ただね、インターネット世界が何もかもを解決してくれるわけじゃないですよねえ。


っていうか、「専門家」だって知り得ないことの方がまだまだ多いような人間生活ですからね。


「魂魄(こんぱく)」っていうのがあります。このところは、ちっとも聞かない単語になっていますでしょうかね。
ちょっとクラシカルな響きを感じる言葉ですが、古い時代の中国から伝わってきた言葉らしいです。


そんな魂魄とかいう古臭いの、現代人の精神状態とどういう関係があんねん? って思うかもですけど、これまでの人類が考えてきた「人智を超えたもの」の存在を考えてみるのも、頭の中、気持ちの底を動かすっていう意味で一考かと思うわけです。


道教から出てきている言葉らしいんですけど、魂魄って1つの言葉として捉えているのが普通だと思います。
でも「魂(こん)」と「魄(はく)」っていう2つの「気」があるっていう考え方なんですね。


「魂」は人間の精神を支える気で、陰陽の陽に属していて、天に帰るべきもの。


「魄」は人間の肉体を支える気で、陰に属していて、地に帰るべきもの。


とされています。


この捉え方ですと、人間は魂魄によって精神と肉体のバランスをとっていて、精神は天に、肉体は地に帰るものだっていうことですね。
ま、納得できる感じでしょうか。


儒教での捉え方として魂は天に帰って「神」になって、魄は地に帰って「鬼」っていうふうに名前を変えるんだそうです。


この辺りの考え方って、人間はどこから来てどこへ行くのかっていう永遠の謎にも答えの道筋を付けてくれているのかもです。
科学的じゃないっていう批判もあるでしょうけれど、科学が人間の気持ちも含めたこの世にとって万能であるはずもなく、人智を超えたものっていうのが在った方が、納得出来ることもあるように思います。


「神」という存在は人間の精神の集まりだっていう考え方には、東洋思想の根源的なものも感じます。


そして、「鬼」です。鬼っていう存在をどう捉えるかは、まさに諸説紛々とあるんですが、人間の肉体の気、魄が地に帰って集まったもの。


だとすると、神も鬼も、元々は人間から出発している。
ふふうん、って考えさせられちゃいますねえ。


現実生活と人智を超えたもの、っていうのは、魂魄と鬼神っていう世界観と対になっているっていう古代の考え方にも、なかなかの説得力があるように思います。
別々のモノのようであって、実はつながっていて、鬼神魂魄の根源は、この世に存在していた我々自身だってことですもんね。深いかもです。

 


この魂魄に対する考え方には長い歴史があって、捉え方にもいくつかあるみたいなんですが、民間に浸透しているっていう「三魂七魄」っていうのがあります。


魂には3つ、魄には7つの種類があるってことですね。


この中にもいくつか説があるってことなんですが、代表的なところを見てみます。


三魂とは「天魂」「地魂」「人魂」


人間が死ぬと「天魂」は天に帰り、「地魂」は地に帰る。そして「地魂」は墓場に残るっていう考え方。
なるほど、お墓にその人の魂は残っているんですねえ。


七魄とは「喜び」「怒り」「哀しみ」「懼れ」「愛」「憎しみ」「欲望」


ふううむ。鬼の7要素っていう捉え方も出来るのかもですけど、これ、そのまま生きている人間そのものでもありますねえ。


でもって、伝統的な中国医学ではまたちょっと違った捉え方をしているみたいです。


魂とは、人間のキモに宿っていて、その人を成長させていくもので、心を制御する働きをする。
魂の働きが強くなり過ぎると、その人は怒りっぽくなるんだそうです。


魄とは、その人が産まれながらに持っている身体の設計図で、五感の働きを成長させる働きがある。
魄の働きが強くなり過ぎると、物思いにふけるようになるとされているんですね。


魄が弱くなる、落としてしまうことを「落魄(らくはく)」と言いますよね。落ちぶれてしまうっていう意味ですけど、魂魄っていうのは、なかなかにやっかいな存在なのかもですね。


デジタルの世界になって来ていても、スピリチュアルっていうジャンルは相変わらず注目を集めている感じもします。


デジタルテクノロジーがますますウェアラブルな環境になっていっても、サイボーグになっちゃうわけじゃないですからね、今現在、精神世界っていうのを少し意識してみるのって、意義は小さくないように思えるんですよねえ。

 


俗信っていいますか、昔から言われ続けてきている禁忌ってありますよね。
北枕で寝てはいけないとか、家の敷居を踏んではいけないとか。


北枕に関しては、お釈迦様の入滅が北枕だったので、極楽往生が北枕。なので、死んじゃう予定もないのに北枕で寝ちゃうとお迎えが来ますよってことなんでしょうね。
でもまあ、今はそんなに気にしている人もいないかもです。


家の敷居については、例えば玄関の敷居なんて、昔の家屋が保存してあるのを見ると分かるんですが、敷居自体がもの凄く太い木材で、15センチぐらいでしょうか、高さがありますね。
その敷居を境にして、外と内ってことになります。


つまり敷居はその家にとっての結界であって、そこには神が宿る、っていう考え方みたいですね。


で、その高さのある敷居を跨いで、中に入ると土間になってますね。
へっつい、って言って、昔のかまどがあります。柱も、梁もかなり太い木材を使ってあるんですけれど、へっついの脇の柱には鬼の面が掛けてあります。


火を鎮めてくれる火伏の「神」として「鬼」を祀っているんですね。

 

鬼っていえば、決して仲良しこよしってわけじゃない、人間との関係値。


魂魄っていうのを調べてみたら、中国の考え方で神と鬼っていうのが出て来てふむむって思ったんですが、日本の生活の中でも普通に神と鬼っていうのは共存していたのかもしれませんねえ。


近代化、現代化して、生活はどんどん便利になってきていて、衛生的な環境になっているんですけど、そんな中に突然やってくるウイルスがいたり、アトピーだとか、花粉症だとか、昔はこれほど一般的じゃなかった症状に悩んでいる人が多くなってきてしまったっていう事実があります。


体内にたくさんの菌を抱えている人間ですが、周りの環境を過剰に消毒している向きもありますからね。
無菌状態になってしまうと、新たな細菌が出てきたときに決定的に弱いっていうことになってしまうのかもです。


ま、だからといって雑菌にまみれて生活するっていうのは危険でしょうけどね。
菌と接することによって、免疫力を保っているっていう体内環境っていうこともあるのかもです。


そして何よりも、この先のウィズコロナって言われている生活の中で、意識して大事にしたいのが精神です。


身体の不調よりも気付きにくいのが精神の不調ですからね。


平気ヘーキって思っていても、実はけっこう、やられているのが現代人だって言われていますもんね。


別にスピリチュアルな方法に頼るってことじゃなくって、例えば魂魄っていう、自分の中にあるはずのものを意識して、魂を天に通じさせる気持ちになって、魄を地に通じさせる気持ちになって、深く静かに呼吸をして、今一度ニュートラルな自分を意識してみたいところです。


人智を超えたものが、地球上の生き物たちと関わっていることを信じながら。