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【だがしや楽校(がっこう)】目指すのはコミュニケーションの「スキル」ではなく「能力」という実体

< 知識だけが大事なんじゃなくって 他人の気持ちをシミュレーションできるチカラ >

発明の神テウトは、全土の神タモスのもとへ行って、自分が発明した「文字」について説明しました。


「全土の王タモスよ、これが文字というものです。この文字を学べば人間たちの知恵は高まり、もの覚えも良くなるでしょう。私の発明したものは、記憶と知恵の秘訣なのです」


全土の神タモスは、発明の神テウトを咎めました。


「たぐいなき発明の神テウトよ、技術上の事柄を生み出す力を持つ者と、その生み出された技術を使う人がそのことによってどのような益を得て、どのような害を受けるかを判別する力を持つ者とは別な者なのです。今もあなたは、文字の生みの親として、文字が持っている効能と正反対のことを言われた。人々がこの文字というものを学べば、記憶力の訓練がなおざりにされるため、人々の魂の中には忘れっぽい性質が植え付けられることでしょう。文字を覚えた人は書いたものを信頼して、ものを思い出すのに、自分以外のものに彫りつけられたシルシによって外から思い出すようになり、自分で、自分の力によって内から思い出すことをしなくなるからです。見かけだけ博識になって、うぬぼれが強くなってしまうでしょう」


ってことなんでございまして、いきなり理屈っぽい話になってしまいましたが、ソクラテスの「パイドロス」には、だいたい、こんなような話が出てきます。


ソクラテスの事績は弟子のプラトンが書き遺した書物によって、つまり「文字」によって現代まで伝わっているっていう皮肉が話題になることもありますが、ソクラテスは文字で自分の考えを書き遺すことはしていなくって、あくまで「会話」「対話」することを強く推していたそうです。

 

 

 


ソクラテスの本意がどういうものだったのかは、ちょっと分かりにくいんですが、コミュニケーションというものが書かれたものであれ、発音されたものであれ、言葉だけで成り立っているもじゃないことは明白だと思います。
ボディランゲージだとかもありますし、イヌやネコとの無言のコミュニケーションが成立しているっていうのも事実だと信じてイイんじゃないでしょうかね。


コロナ禍によってそれまでの「通常」ってされていたコミュニケーションが、失われたっていうことが言われています。
そだよねえって感覚はありますよねえ。


密になっちゃいけませんし、マスクですからね。リモートワークっていうのもあって、老若男女、誰でもコミュニケーションロスになりがちです。
でもですね、実はコロナ前からコミュニケーションロスっていうのは社会問題になっていたっていう面もあるんですよね。外国のことは知りませんけれども、少なくとも日本ではそうでした。


究極的には「引きこもり」っていうのがありました。
もちろん今でもあるんでしょうけれども、メディアの取り上げは減っていますね。


日本で言われるコミュニケーションっていえば、戦前までのことになるんでしょうけれども「井戸端会議」っていうのがあって、地域の共同井戸に、水汲み、炊事、洗濯の用事で主婦と幼児たちが集まる生活形態だったらしいんですよね。


ある用件を持って、ある一定時間、その場に集まる人たちは、たわいもない世間話、うわさ話、愚痴だとかに話の花を咲かせて、いわゆる市井のコミュニケーションの代表みたいなものだったんでしょうね。
シンボルは共同井戸。井戸に集まるから井戸端会議。


もうそういう生活をしている土地って、ないんでしょうね。
各家庭に水道が引かれている「文明国家」になってますからね、日本は。


水を求めて集まる必要がなくなったんで、地域のおかみさんたちのコミュニケーションも、大きく減少しているのが現状なんだろうって考えられます。
そんなことを意識することもなく、普通に生活している現代の日本人です。


「あの人、苦手だわ」
「ほら、あそこ人ね、ヤなことばっかり言うのよ」
っていうような悪感情コミュニケーションも含めて、コミュニケーション能力がいつの間にかレベルダウン。

 

 

 


作為的に作り出されたエコーチェンバーのなかで、マインドコントロールっていうような事象が起こって、悲惨な事件に発展していってしまったっていうニュースも複数あります。
井戸があるから必然的に毎日、多人数のコミュニケーションが成立していた頃であれば避けられている事象かもしれませんよね。


なにか犯罪に結びつくようなことに至らなくとも、最近の不寛容さの源泉は井戸端会議コミュニケーションの激減にあると言ったら言い過ぎなんでしょうか。


まあね、井戸端会議っていう周辺には、家族構成として3世代が当たり前の時代から核家族の世の中になって、地域社会の構成自体も変わってしまったっていうこともありますからね。井戸を利用する生活が残っていたとしても往時のコミュニケーションとは違ったものにならざるを得ないのかもしれないです。


大人にとっての井戸が失われてしまった時よりはだいぶ時代が進んでからのことになると思いますが、子どもたち、少年少女たちの地域コミュニケーションの場、「駄菓子屋」っていうのも、全然見かけなくなりました。


駄菓子自体はまだ、けっこうあるんですよね。
でもそれを買うのは、コンビニだったり、ドラッグストアだったりです。駄菓子屋じゃないです。

 

親世代も懐かしいような駄菓子そのものを、買って、食べるっていうことは出来ていますんで、なにも問題じゃないっていう見方もできるんでしょうけれど、駄菓子屋コミュニケーションっていうのが、昔はあったように思うんですよね。


子ども同士の社会。


お小遣いの使い方に対する工夫を相談し合ったり、仲間と共同購入することによってくじ引きの当たる確率を上げてみようとか。
大人からの意見の入らない純粋なコミュニケーション。
けっして円滑なものでもないんですよね。


取っ組み合いのケンカをしたりしながら、子どもたちの地域コミュニケーションっていうのがちゃんとあって、問題が起こると親同伴で謝りに行ったりっていう地域コミュニケーションの中で生活して育っていきましたよね。


跡継ぎのいない老齢化の問題もあって、駄菓子屋は急速に姿を消していっています。


地域内に何軒か駄菓子屋があると、そこのおばあちゃん、おっちゃん、おばちゃんごとの特徴なんかを子どもたちはしっかり観察、判断していたりしたもんでした。


今は、学校での黙食、3人以上集まっちゃいけません。帰って来てからも家族以外とのコミュニケーションはコロナ前から少なくなってきているっていうのが現状なんですね。
子ども時代からコミュニケーション能力が弱くなって来ちゃっているのかもしれません。


放課後の子どもたちの生活を地域コミュニケーションの中で育成していこうっていう活動が「だがしや楽校」ってやつで、2000年ごろから始まっているみたいです。
山形県の学校の先生だった松田道雄さんっていう人の発案ってことなんですが、各地の自治体でアレンジしながら広まってきているそうです。


子どもたちを主体にして、その地域の老若男女が独自に「お店(お見せ)」を出して商業活動を経験したり、体験イベントを企画してみたり、くじ引きだとかのゲームを自作して他の人に遊んでもらったりする社会活動にもなっているんだそうです。


みんな笑顔で、うまくいくこともあるでしょうし、そうはいかないこともあるでしょう。
コミュニケーションは円滑なものばっかりじゃないですからね。


「だがしや楽校」は自治体ごとの工夫ですから、決まった形式っていうのがあるんじゃないんでしょうし、全てがアナログである必要もないんだと思いますが、そうした活動のヒントになったのが駄菓子屋に集まる子どもたちのコミュニケーションだったんでしょうね。


その復活の必要性が求められているっていう現実をどう捉えるかですね。


デジタルでのバーチャルコミュニケーションっていうのもありそうですし、他人との関わりっていうのを物理的にも精神的にもある程度のボリュームで、子どもの頃から経験しておくことは重要な気がします。


引きこもりっていう状態をアンチコミュニケーションに追いやってしまうんじゃなくって、物理的引きこもりの中でバーチャルコミュニケーションが出来れば、精神的には外に向かうことが成立して、自分独りのエコーチェンバーから抜け出せそうな気もします。

 

 

 


で、パイドロスの話に戻りますけど、ブログっていうネットコミュニケーションも、知識、知見を広めるためじゃなくって、文体の工夫だとか、写真、絵によってそれぞれの個性を出すことがデジタルコミュニケーションになっているんだろうなあって思いますです。
子どもじゃなくって、大人の、ってことになるんですけどね。


知識だけが大事なんじゃなくって、他人の気持ちをシミュレーションできるチカラこそが日本人の能力だったはずだと思っていて、「だがしや楽校」のコンセプトに鑑みて、なにかそういうことのヒントになるような、そういうブログにしたいなあと、フランクにではありますが、考えております。


コミュニケーションって、簡単なことじゃないですもんね。

 

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