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【サンマーメン】中国にはナイよ 知らないよ 横浜の賄いでしょ

< さすがに日本で町中華をやっている中国人ママさんは情報を持っているのでありました >

おっきな話から始まりますです。


「コラー、港を開放せんかあ」
ってペリーさんが4隻の黒船で浦賀にやってきたのは1853年、嘉永6年のことです。


アメリカさん、来よりまっせ、っていうことはオランダさんから忠告されていたらしんですけど、徳川幕府としては「何しにおいでですか」ってな感じで、あんまり現実味の無いことだったのかもしれません。
当時の海洋技術っていうのにも無知だったみたいですからね。


で、やって来ました「黒船艦隊」


「泰平の眠りを覚ます上喜撰 たつた四杯で夜も眠れず」って狂歌が遺っていますけれど、蒸気船の空砲で充分ビビったんでしょうね。幕府がっていうことじゃなくって、周辺住民も、ってことなんだろう狂歌です。


なにせ見たこともないような大きさで、風に吹かれてじゃなくって、自力で大海原を進むっていうんですから、かなり大きなカルチャーショックだったろうって思います。


「上喜撰」っていうのは「喜撰」っていう当時の高級茶、それの上等のものって意味で、カフェインが強いとはいえ、たった4杯飲んだだけで、夜も眠れませんよ、ってことで、上喜撰と蒸気船、4杯のお茶と4杯の黒船をかけて当時の日本の慌てぶりをユーモラスに書きのこしている名作ですね。


ずっと鎖国政策だったし、なんだかドデカイ文化に初めて接しても、こういうユーモアセンスがあった相模か武蔵かどこの人だったのか分かりませんが、なかなか日本文化のレベルも高かったですよね。たいしたもんです。

 

 

 


で、翌年の1854年安政元年、「日米和親条約」が締結されます。
日本は開国しますよ、ってことになったわけですね。


1859年、安政6年に横浜が開港します。


当時、小さな漁港だったらしい横浜に「大桟橋」が作られて、岸壁すぐの場所に外国人居留地が整備されます。


この横浜外国人居留地には、物見高い日本人が見物に集まったそうですね。外国人を見物するために。


ペットの犬を連れてきている外国人が多かったそうです。
首輪やらリードやら、そんなものの無かった時代です。犬は勝手に走りまわりますね。
見物人は犬にも興味を示しますね。洋犬ですからね、これもまた初めて見る見物対象です。


居留地の外人さんは犬を呼びます。「come here」


ナマの、っていうのも変ですけど、英語を聞くのだって初めてですからね、


「こないだ見た外人さんの犬な、カメって名前なんだよ」


「なんで分かんだ」


「そりゃおめえ、カメや、カメやって呼んでんだから、あのワン公はカメって名前なんだよ」


「お、そりゃあオイラも聞いたぜ、カメや、ってよ、おっきな声で呼んでた。そうすっとカメもな、自分のことを呼ばれてるってのが分かってな、走って来るんだよ」


「なんだお前ら、同じ犬を見てきたのか」


とかね、こんなバカ話をしばらく続けているうちに、一同が気が付きました。


「おい、どうもおかしいぜ。いろんなトコでいろんな犬を呼んでるんだけどな、みんなカメって名前なんだ」


「そりゃおめえ、向こうさんじゃ、犬のことをカメっていうんじゃねえのか」


「犬のことをカメだあ? 妙なこと言うじゃねえかよ」


「だけどよ、ホントなんだぜ。どこでも、どんな犬でもカメなんだぜ」


って話が広まりまして、洋犬のことを「カメイヌ」って呼ぶようになったんだとか、そんな話も遺っておりますよ。


外国人居留地にはカメイヌの飼い主だった欧米人を中心にかなり人口も増えていったそうなんですが、1866年、慶応2年に大火事にあって、居留地の拡張を要求されることになります。


徳川幕府に否は無かったんでしょうけれども、「横浜居留地改造及競馬場墓地等約書」っていうのが決められます。
競馬場と墓地。ふううん、って感じですけど、日本もこの頃は大変な時期で、工事が始まって1年とチョット経った1868年「明治維新」です。


居留地の外人さんたちにとっては、そんなん知らんがな、です。


で、明治政府によって工事は進められて、まず街区の真ん中を通る街路が1870年、明治3年に完成します。
この街路が「日本大通り」っていう名前で、今もあります。


幅36メートル、全長430メートル。
1度行ったことがありますけど、凄い立派な通りなのに、なんでこんなに短いの? って思ったんですが、この長さの両脇に居留地が広がっていたってことなんでしょうね。
短いけど、カメイヌの散歩コース、でもあったのかもしれません。

 

 

 


日本大通りが出来たんで、居留地の区画名は「日本大通


読みは同じ「にほんおおどおり」ですが、表記に「り」がないんですね。どういう区別なんでしょ。分かりません。


日本大通り」が完成した同じころ、っていいますか1866年ごろからっていうことなんですけど、居留地の西南に隣接した辺りに出来始めたのが「中華街」です。


横浜中華街は行ったことのある人も多いと思いますけど、東アジア最大級の中華街。中国華僑の拠り所ともなっています。


この横浜中華街に1884年明治17年に創業したのが、有名中華料理店「聘珍樓(へいちんろう)」


2回行ったことがありますけど、1人で気軽にっていう町中華の雰囲気とはね、ちとチャイます。ちとお高いです。
関東大震災、太平洋戦争を乗り越えて、今もなお健在ですからね、たいした歴史なんです。


この聘珍樓の料理長が1930年、昭和5年ごろに作り出したメニューが「サンマーメン」なんです。
「生馬麺」って書くみたいですね。


1930年ってことは太平洋戦争の前からあったメニューってことですね。
農林水産省「うちの郷土料理 神奈川県 サンマーメン」には、

「もやし、白菜、豚肉などを入れた野菜炒めにスープを入れ、とろみをつけてラーメンに乗せた、横浜発祥の麺料理」
ってありますね。


「聘珍樓」じゃなくって、横浜発祥っていう言い方をしているのは、横浜伊勢佐木町の「玉泉亭」だとか、他にもいくつか発祥説があるからなんでしょうね。


横浜中華街と伊勢佐木町だと、ちょっと離れていますけれども、1930年ころの華僑たちのコミュニケーションなんて推測のしようもないでしょうからね、ちょっと広めに「横浜発祥」ってことで落ち着いているんでしょう。


そのころ、中国人たちが賄いとしてよく食べていたのが「ルースーメン」
チンジャオルースーのルースーですね。「肉絲」って書くアレです。


でも賄いとしては高くつくなあ、ってことで肉を減らして野菜を増やす。そして「あんかけ」にしたっていうのが「サンマーメン」みたいですね。


前に横浜で仕事をしていた時に、駅地下の町中華でよく食べていました。


地下街にある何でもない町中華なんですけど、厨房は中国人2人、フロアは日本人2人で回している店でした。
カウンターに座ると厨房も見える作りになっていて、厨房の2人の中国人ともなんとなく顔馴染になっていました。


たいてい「サンマーメン」を食べていました。
材料は銀皿で用意されていて、手早い調理なんですね。


「肉絲」もちょっとですけど入っています。チャン鍋にまず肉を入れてザッザッと炒めたら、銀皿から白菜、ニンジン、タケノコ、チンゲン菜をバサッと投入。
いくつかの調味料を振りかけながら、ジャアっていう強い音をさせながら炒めていって最後に大量のモヤシです。
炒まったらキクラゲを入れて、少量のしょう油スープを投入。


ドワーっと大量の湯気が上がります。そこへ水溶き片栗粉を回し入れて、ザワワってあおればアタマの完成です。


隣りの大なべから茹で上がった細麺を網ですくいあげて、しょう油スープの張ってあるドンブリに丁寧に滑り込ませたら、菜箸で麺をすっと持ち上げて畳み込むようにしてスープの中に戻します。


みじん切りのネギをポンって放り込んだら熱々のアタマを乗っけて「サンマーメン」の完成です。


そのお店の「サンマーメン」は、しょう油スープにしょう油あんだったんですが、冬場なんかはとくに、そればっかり食べていました。

 

by農林水産省

そしたらですね、ある日、いつも通りに「サンマーメン」って注文したら、厨房から、
「シオ、ダイジョブ?」
って聞いてきましたね。日本語、あんまり上手じゃない厨房の料理人さんです。


なんのこと? って思ってフロア担当の日本人に顔を向けますと、
「塩味のサンマーメンどうですかって言ってますよ。ウチの賄いは塩味でやってるんですよ。スープも塩に出来ますけど、スープはしょう油で、あんは塩っていうのがお薦めですよ。黒胡椒が合います」


そりゃね、いってみるしかないでしょ。


ってことで、しょう油スープに塩あんのサンマーメンに黒胡椒たっぷりで食べてみましたらですね、んもお、サイコーだったんでした。


横浜にいる間中、サンマーメンばっかり食べていたような気がします。バリエーションいろいろやってくれましたしね。
空心菜が入ったりとか、野菜のバリエーションもいろいろでした。


で、横浜から離れて「サンマーメン」を探したんですが、ないんですね。
時々行く中国人の町中華で聞いた見たら、「中国にはナイよ、知らないよ、横浜の賄いでしょ」だったんでした。
カナシー!

 

 

 


中華街に限られることじゃなくって横浜近辺って、旨い食べもの、けっこうあります。


今まで食べたジャージャー麺で、一番だったのは東白楽の町中華で食べたジャジャ麺でした。
ウチはね、ジャーって伸ばさないの、ジャってね、切りよくやってるの。
っていう、けっこう理屈っぽいオヤジでしたが、出てきたジャジャ麺はサイコーだったんですう。


でも、その店の名前と場所と、すっかり記憶から消えてしまったんですねえ。
たぶん、区画整理とかでそこの一画がド変わりしてしまったんだろうと思いますね。


サンマーメンバリエーションの店も、今はもう、ないんですよねえ。


他の店のでもイイじゃん。っていうか、聘珍楼行きなさい、聘珍楼。
そだね。おカネ、拾ったらね。


ああ、懐かしの「生馬麺」なんですけど、ナマのウマ。。。


なんでこういう漢字? 食べ物、ラーメンっぽい感じはしませんよねえ。

実は旨いんですけどねえ。