< オルレアンの乙女 ジャンヌ・ダルクとともに戦った勝利者だったはずなのに >
20世紀は2つの世界大戦があったんで「戦争の世紀」って呼ばれますけど、地球規模で考えてみますと、人類の歴史ってずっと昔から、悲しいことながら今も、相変わらず戦争、争いが絶えることはないんですね。
戦争には勝ち負けがあって、歴史は勝者によって語られていくってことで、英雄に祭り上げられる人もいれば、悪者として断罪される人も出てきます。
時代を遡って中世ともなりますと、そもそもの記録がハッキリしなかったりして、専門家でも、ある特定の事実に対する解釈がバラバラだったりすることは珍しくないですもんね。
日本の南北朝時代に一応の安定をもたらしたって言えそうな室町幕府は1338年に成立しているんですが、その前年1337年に、ヨーロッパでは「100年戦争」が始まっています。
歴史の教科書に出てきましたよね「100年戦争」って。
100年も戦争続けたの? って、初めて知ったときにはただその争いの長さ、エネルギー維持のしつこさに圧倒されたような記憶があります。
まあね、日本のような小さな国でも南北朝っていう権力争いの混乱があって、鎌倉幕府滅亡にはずいぶんいろんな地方勢力が関わっていて、その争いの全容なんてなかなかおいそれとは理解できないものがあります。
ヨーロッパの戦争っていうのも昔から方々で、いっぱい起きていて、なんで? っていうのはものすごく解り難いです。きのうの友は、きょうの敵、ってやつですね。
っていっても、まあ、世界史を専攻した人なんかだと、そんなことないよ、ってことなのかもですけどね。
今回はその「100年戦争」のごく一部の期間だけに絞ってちょっと調べてみました。
1337年に始まって1453年に終戦となった「100年戦争」なんですが、100年ちゃうやん! 116年やん! ってことではあるんですが、そういうツッコミを入れているようですと、テストでまるはもらえないんですねえ。
フランス王国とイングランド王国の領土争いが「100年戦争」なんですが、100年も続いているからなのかもですけど、どちら側にどういう勢力が付いているのかっていうのを調べてみますと、なかなか不思議なことが見えて来ます。
例えば「ブルゴーニュ公国」「ブルターニュ公国」「ジェノバ共和国」「神聖ローマ帝国」なんかは、フランス王国側にもイングランド王国側にも名前を遺しています。
その与している期間が違うんでしょうけれど、こういう関わり方をした国、地域が少なくなかったこと自体が、100年も戦争を長引かせる結果につながったんでしょうね。
そもそも、なんでなん? なんで戦争になったん? っていうところをみてみます。
ヨーロッパの王家の婚姻関係ってめっちゃ複雑で、血のつながりを追っかけてみようなんていう気は起きませんね。
ざっくり見てみます。
911年、当時のフランス、「西フランク王国」のセーヌ川を遡ってノルマン人が侵入してきます。
この侵入は西フランク王国によって破られますが、西フランク王のシャルル3世は、ヴァイキングの侵略対策としてノルマン人にパリ西側一帯の土地を与えて取り込んでしまう政策をとりました。
現在のルーアン、カーン、シェルブールっていう街を含むその土地をノルマンディーって呼ぶようになったそうです。
シェルブールからイギリス海峡を挟んでの北側は、イギリスのポーツマス、サウサンプトンの街です。
そういう地政学的な要因もあってか、1066年、ノルマンディー公ギョーム2世は、イギリスの王位継承トラブルに介入して、フランス王配下の身分のまま、イギリス王、ウィリアム1世になります。
ね、こういうトコがヨーロッパ王族の関係性の複雑さに拍車をかけるんですよね。
フランスの王じゃなくって諸侯の1人であるギョーム2世が、イギリス王ウィリアム1世なんです。
繰り返しになりますが、フランスのノルマンディー公が、イギリスのノルマンディー朝を開いたってことです。
ノルマンディー朝3代目のヘンリー1世には世継ぎの男児がなくって、娘のマティルダを後継者に指名して亡くなります。
ところが諸侯がマティルダ女王を認めなくって、ヘンリー1世の姉の息子、スティーブンをフランスから迎えてイギリス王にしちゃいます。
で、イギリス王を巡ってマティルダ派とスティーブン派による争いが起こるんですが、スティーブン王が、自分の後継者としてマティルダの息子アンリを指定することで解結。
スティーブンの死後、約束通りアンリはヘンリー2世としてイギリス王に即位してプランタジネット朝を開きます。
1154年のことですね。
このプランタジネット朝はフランス国内のノルマンディー以外にも領地を拡げていて、フランス諸侯との関係も深めていたんですね。
フランス諸侯の1つっていうポジションを維持しながらも、フランス王を凌ぐ領土を持っていたわけです。
やがて1399年にはランカスター朝っていうイギリス王朝の分家を出しています。イギリス内でね。
一方、フランス、西フランク王国はカロリング朝からカペー朝の時代になっています。
1328年にカペー朝のシャルル4世が死去すると、直系のフランス王継承者が居なかったため従兄弟のフィリップ6世が即位することになるんですが、この時のプランタジネット朝の王、エドワード3世が異を唱えて、自らのフランス王継承を主張します。
フランスに広大な領地を所有していたプランタジネット朝でしたが、エドワード3世の時になると、ギュイエンヌ公領のみになっていて、イングランドに所領があるとはいうものの、失地回復を狙っていたわけですね。
フランス王権、フランス領内での領地問題、その他にもイギリスとスコットランドの戦闘の問題なんかもあるところへ、1337年、フィリップ6世がギュイエンヌ領地の没収を宣言しました。
対してエドワード3世はフランス王に対する臣下の礼を撤回して、自らのフランス王継承を宣言して「100年戦争」が始まってしまうんですね。
連戦連敗の続くフランス側に急遽現れた救国の英雄が「ジャンヌ・ダルク」と「ジル・ド・レ」です。
1428年、フランス北中部のオルレアンはイギリス軍に包囲されて苦しい戦いを続けていました。
1429年の春ごろまでイギリス軍有利の戦況だったところへ、ジャンヌ・ダルクが到着して9日間で包囲は崩れたって言われいます。
このオルレアン包囲戦の勝利によってジャンヌ・ダルクは一躍フランス軍の主要参謀になるわけですが、ともに活躍したのがジル・ド・レです。
ジル・ド・レはブルターニュ地方の貴族で、曾祖父の時代から一族は領地拡大に務めていて、悪辣な方法も厭わないことで知られていたそうです。
ジャンヌ・ダルク、ジル・ド・レのフランス軍はオルレアンの包囲を解いて、その足でパテーの戦いでイギリス軍を大破して、これまでの劣勢を一気に逆転します。
フランス軍に勝利を呼び込むことに成功したんですね。
ノートルダム大聖堂で、ジャンヌ・ダルク、ジル・ド・レの誇らしげな目に見守られながらシャルル7世が戴冠式を行います。
「100年戦争」のハイライトとして、このオルレアン包囲戦、パテーの戦い、ノートルダム大聖堂戴冠式は映画なんかでもよく取り上げられます。
ジル・ド・レは1429年の戴冠式のすぐあと、パリ包囲戦をジャンヌ・ダルクとともに戦った後、ブルターニュ地方に引き上げて、軍事活動から遠ざかります。
パリ包囲戦はフランス軍の敗戦で終わっています。
詳細は知られていないみたいですが、戦闘でジル・ド・レの身体、あるいは精神に何か大きな支障が出た可能性もあると思うんですよね。
1429年時、ジル・ド・レは24歳です。
シャルル7世の戴冠式を実現させたフランス救国の英雄が、その若さで、まだ戦いが続いている「100年戦争」の現場から離れて戦に関わらないっていうのは、何か重大な理由がありそうですよね。
パリ包囲戦の直後、コンピエーニュの町がイギリス軍に包囲されて、ジャンヌ・ダルクは救援に向かいます。
この時、パリ包囲戦の失敗を理由にジャンヌ・ダルクは指揮権をはく奪されていて、少数でコンピエーニュへ向かったそうです。
コンピエーニュ包囲戦はフランス軍の勝利に終わりますが、この戦いでジャンヌ・ダルクは捕虜になってしまうんですね。
裏切り行為があったともいわれています。少女の才能に対する薄汚い嫉妬。
しかもフランスの救世主、ジャンヌ・ダルクを馬から引きずり降ろして縛り上げたのは、イギリス軍と同盟関係にあった、フランスのブルゴーニュ公国軍なんです。
ジャンヌ・ダルクは多額の身代金を支払ったイギリス軍に引き渡されて、裁判にかけられ、1431年、魔女として火刑に処されてしまいます。
生年のハッキリしないジャンヌ・ダルクですが、1412年生まれとされていて、19歳の生涯でした。
ジャンヌ・ダルクの死を聞かされた頃からジル・ド・レの生活は荒れ始めたとされています。
錬金術、黒魔術に財産をつぎ込むようになって、その成果物を得るために必要だったっていう、若い男の子ばかりを城内に連れ込んで、大量に殺したっていう噂もあるんですね。
ペローの「青ひげ」のモデルはジル・ド・レだっていう説もあります。
ジル・ド・レは、中世の領主ですからね、今から考えれば非常識な行為を領民に対して行うってことはあったかもしれませんが、血生臭い戦闘で精神を病んでいた可能性もありそうに思います。
1440年、表舞台から姿を消してから11年後、領地問題から聖職者を拉致監禁してかどで、ジル・ド・レは逮捕されます。
この領地問題っていうのも、数年前にブルターニュ公ジャン5世に売っていた土地に対する税金の支払いをブルターニュ公から求められていたっていう、罠の匂いもするような感じのものなんですね。
このブルターニュ公ジャン5世にとって、フランス救国の英雄は邪魔な存在だったのかもしれません。
ジル・ド・レはその年のうちに絞首刑に処されます。
裁判で自分の悪事を泣きながら白状したっていう逸話も遺されていますが、どうもその話は怪しい感じです。
領地問題の裁判なはずなのに、錬金術、黒魔術の洗いざらいを告白したっていうのは、生き残った側の無理矢理のでっちあげなんじゃないでしょうかね。
貴族的な身分の無かったオルレアンの乙女、ジャンヌ・ダルクは魔女として処刑されて、当時として特別なことでもない強引乱暴な一族ではあったとしても、身分のあったフランス救国の英雄、ジル・ド・レは黒魔術師として殺されているって事実。
ジャンヌ・ダルクに関しては、1456年、死後25年経ってからの復権裁判で「処刑判決の無効」が宣言されるっていう、なんとも取り返しのつかない事態になっているんですけど、ジル・ド・レに対してそういう動きは無さそうですね。
「100年戦争」っていう、いわば集団ヒステリーの中で、冷静だった個人は断罪されずにはおさまらなかった中世っていう時代。
なのかもなあ、って思ってしまうのでありました。
ポーランド王国の天文学者、ニコラウス・コペルニクスが「地動説」を考えたのは1508年ごろってされています。
フランスのヒロイン、ヒーローが処刑されてから約半世紀後ですね。
著作「天球の回転について」は、それから100年以上経った1616年、ローマ教皇庁から閲覧の停止処分を受けています。
イタリアの哲学者、ジョルダーノ・ブルーノが神への冒瀆、不道徳な行為、教義神学に反する教説で異端審問にかけられて火刑に処されたのが1600年。
イタリアの物理学者、ガリレオ・ガリレイがローマ教皇庁から地動説を唱えないように注意されたのが1616年。
それでも止めないので、終身刑を言い渡されたのが1633年の第2回異端審問所審査。
「……、それでも地球は回っている」
昔っから不条理だらけの人間社会。
中世の闇を抜けたっていわれている近世、近代になったって、ま、似たようなもんかもですけどね。