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【食い物の恨みは恐ろしい】安政七年三月三日 雪の日の出来事

< 人は 頭で事の善悪を判断するけど 人の好悪は腹で決める のかもです >

江戸城半蔵門を出て甲州街道を西へ少し。
先を歩く1人の旗本が左へ折れると、低い坂を下って平河町方面の夕闇に溶け込もうとしている。
あとを追いかけるようにもう1人の旗本が駆けていく。


「おうい、そんなに急ぐこともあるまい。もう少しゆっくりと」


先を歩いていた旗本が足を止めて振り返った。
嘉永6年6月5日の宵である。


現在の暦でいえば7月10日。前日の雨もあって、江戸はかなり蒸し暑くなっていた。
追いついた男が息を切らせながら言った。


「ももんじ屋か?」


「ああ、おぬしもか」


「ああ、そうだ。浦賀の黒船は城と同じぐらい大きいそうだからな。幕臣の我々としては、せいぜい体力を付けておくに、しくはないだろうってことよ」


「ああ、大いにクスリ喰いをして、備えておくことこそ我らが使命よ。どこへ行く? 甲州屋か?」


「うむ。甲州屋は混んでいるだろうから、山奥屋にくり込もうと思うが、どうだ?」


2人の旗本が向かうのは、いわゆる「ももんじ屋」で、豚、猪、牛の肉を食わせる店。
江戸城外堀の西側地域。麹町平河町近辺には、幕末時点で10数件の「ももんじ屋」が人気を得ていたそうである。


獣肉食というのは、明治になって西洋文化が入って来てからのことだと、一般的には言われているが、遅くとも戦国時代には猪、牛などは、武家を中心に食べられていたようなのである。

 

 

 


仏教の教えとして獣肉食が禁忌とされていたのは事実だが、僧籍に身を置く者でもなければ、予算に応じてのことになるだろうが、ごく当たり前に江戸時代の日本人は獣肉の味を知っていたようなのでる。


「クスリ喰い」と称していたのは、風習としての禁忌に対する言い訳めいたものではなかっただろうか。
4つ足はダメだが、2つ足であれば禁忌に触れない、などというのも、言い訳の中から出てきた理屈のようでもある。


旗本の言っている「浦賀の黒船」というのは、2日前の嘉永6年6月3日の夕方に4隻の蒸気船が姿を現して浦賀に停泊したという例のあれである。


黒船来航を江戸幕府瓦解の始まりとする説もあるが、日本の世の中が大きく動いた要因は、開国問題1つだけではない。


黒船来航時の江戸幕府将軍は第12代征夷大将軍徳川家慶(いえよし)(1793~1853)」
突然、死んでしまう。


徳川家慶の死因は今でいう熱中症だったのではないかとされているが、亡くなった6月22日というのは、嘉永6年の6月22日。
つまり、ペリーの黒船が現れて幕府が上を下への大騒ぎになっているなか、最高権力者が突然いなくなってしまったということなのである。


松平春嶽徳川家慶を「凡庸の人」と評している。


幕政のことに関しても幕臣の意見をそのまま許容してばかりで、何を言われても「そうせい」と答えるばかり。
「そうせいサマ」と評されていたような将軍だった。


熱中症にならなかったとしても、家慶がアメリ使節に対して具体的な施策をとれたかどうか分からない。


江戸末期、徳川幕府の混迷はこの徳川家慶から始まっていると言えるのかもしれない。


家慶が跡継ぎを決める際に、自分の子で生き残っていたのは4男だけだった。


その4男があまりにも病弱であったため、徳川水戸藩の松平昭致(まつだいらあきむね)の方が適任ではないのかと下々に諮った。


名指しされた格好の水戸藩主「徳川斉昭(なりあき)(1800~1860)」は、早速動いて、7男の昭致を徳川家御三卿の1つである一橋家の9代当主として送り出している。
将軍就任への準備。


しかし、老中「阿部正弘(1819~1857)」の反対にあい、この昭致跡継ぎの話は消えてしまった。


跡継ぎ問題はいつの時代でも禍根を残すことになりがちだが、ここに老中首座、阿部正弘徳川斉昭、つまり水戸藩との確執が生じることになったのである。


一橋家に入った松平昭致は、名乗りを「徳川慶喜(1837~1913)」と代えている。
黒船来航の12年前、1841年のことである。


そして、徳川家慶の死後、決めてあった通りに1853年、4男の「徳川家定(いえさだ)(1824~1858)」が第13代征夷大将軍に就く。


翌年の1854年にペリーは7隻の黒船を率いて再びやって来たのである。


人前に出ることを極端に嫌っていた家定は、ほとんどこの事態に関わっていないようであるが、幕府は突きつけられた日米和親条約について紛糾した。


ここに彦根藩主、幕府大老である「井伊直弼(いいなおすけ)(1815~1860)」が登場してくる。


阿部正弘徳川斉昭井伊直弼だけに絞っても、複雑な人間関係が発生する。


阿部正弘は家定の世継ぎ問題で徳川斉昭の反発を買っていたことの是正を図ったものか、少なくとも表向きには、幕政について徳川斉昭の意見を重要視するようになっていた。


徳川斉昭は攘夷派である。鎖国を維持すべきとして日米和親条約に反対していた。


しかし、開国派の井伊直弼はあっさりと調印してしまったのである。


日米和親条約が締結した1854年から3年後の1857年に、天才と呼ばれた阿部正弘が死去すると、幕府内には徳川斉昭井伊直弼の確執だけが残った。


確執は深化していく。


病弱な徳川家定が、阿部正弘が死去した翌年の1858年に亡くなったのだが、ここでまた跡継ぎ問題が浮上してくる。


かねてから井伊直弼は御三家である和歌山藩の「徳川慶福(よしとみ)」を、家定の跡継ぎに推していたが、徳川斉昭は当然ながら息子である徳川慶喜を推していた。


結局は血統を重視した井伊直弼の意見が通り、第14代征夷大将軍には和歌山藩の慶福が1859年、「徳川家茂(いえもち)(1846~1866)」として就くことになったのである。


井伊直弼はその前年の1858年に、勅許、天皇の許可を得ずに日米修好通商条約にも調印してもいる。
開国に向けて絶頂期の動きだったと言えるのかもしれない。

 

 

 


勅許を得ずに調印したことを登城して詰問したのが徳川慶喜


阿部正弘なき幕政は井伊直弼の独壇場になっていた中での詰問である。
徳川慶喜の抗議行動は井伊直弼によって登城停止処分とされる。


さらに、翌年の1859年、安政6年に隠居謹慎が命じられる。


これが世にいう「安政の大獄」である。


後のことを知っている身からすればかなり意外だが、最後の将軍となった徳川慶喜は一度隠居させられているということなのだ。


安政の大獄では「吉田松陰(1830~1859)」「橋本佐内(1834~1859)」「頼三樹三郎(1825~1859)」の死罪が取り上げれることが多いが、100人以上が処罰されていて、かなり大規模な弾圧だったのである。


ことに徳川慶喜以外にも、水戸藩に対する風当たりが強かった。


まず、この時には藩主を退いていた前水戸藩主、徳川斉昭、永蟄居(えいちっきょ)。


永蟄居とは、終身にわたって出仕、外出することを禁じ、謹慎させる刑罰であり、攘夷派の排除を画策したとはいえ、井伊直弼も思い切ったことをしたものである。


水戸藩家老、安島帯刀、切腹


水戸藩京都留守居役、鵜飼吉左衛門、斬罪。


水戸藩京都留守居役助役、鵜飼幸吉、獄門。


水戸藩奥右筆、茅根伊予之介、斬罪。


水戸藩主、徳川慶篤、御役御免。


水戸藩士、山国喜八郎、海保帆平、加藤木賞三、永押込。


水戸藩士、大竹儀兵衛、三木源八、荻信之介、菊池為三郎、押込。


押込(おしこめ)とは、自宅に幽閉することである。


これだけの処罰を下されれば、水戸藩の中に、井伊直弼許すまじという空気が生まれても無理はないのかもしれない。


しかし、井伊直弼徳川斉昭には、安政の大獄以前から、と言うべきなのか、むしろ安政の大獄につながったような根深い対立があるのである。


その根本的ともいえる確執が「牛肉の味噌漬け」であるらしいことは、当時の水戸藩士なら知らぬ者のないことであった。


幕政、外交とは何の関係もない「牛肉の味噌漬け」


事は井伊直弼彦根藩主になったばかりの1850年嘉永3年、あるいは4年ごろのこと。
彦根藩は代々、太鼓の皮を幕府に献上していて、牛の飼育が特別に認められていた。


皮を献上した後の牛は、彦根藩の名物として、当たり前に食されていたわけである。


これが彦根藩名物の彦根牛。後の近江牛となる。


江戸時代初期のことからだと考えても、彦根藩の牛肉食は江戸末期までに200年以上の歴史がある。
食べ方もいろいろ工夫されていて、中でも味噌漬けは評判も良く、太鼓の皮と同時に幕府にも献上されていたのである。


献上されていたという事実だけから考えても、江戸時代、少なくとも武家にとって獣肉は当たり前に食べられていたものと思われる。


とはいいながら、数に限りがあるのは致し方のないことである。


評判の牛肉の味噌漬けである。送る先は限られてくるのだが、送る側も旨いと言って喜んでもらえると嬉しい。


彦根藩の牛肉の味噌漬け。それを大の好物にしていたのが、誰あろう、水戸の老公、徳川斉昭その人だったのである。


毎年、時期になると届けられるのを楽しみにしていた。
徳川斉昭の息子、徳川慶喜も、この牛肉を楽しみにしていたことは疑いない。


親子共々、牛肉好き。さらに豚肉も大好物にしていて、慶喜は、薩摩藩家老、小松帯刀(1835~1870)に薩摩名物の豚肉を始終催促していて、帯刀を呆れさせている。


徳川慶喜が「ぶたいちさま」と呼ばれていたことは周知の事実である。
豚肉が大好きな一橋様。豚一様。ぶたいちさま、ということである。


親子そろって大好物だった彦根藩の牛肉の味噌漬け。


ところが、井伊直弼が藩主になると、徳川斉昭が楽しみにしていたそれが送られてこない。
水戸家親子の食に対する執念は、全く気どりがなく、今の我々と同様で食い意地が張っている。
徳川斉昭はすぐに最速の使いを送る。


「これまで遅滞なく送ってくれた牛肉の味噌漬けが、今年はどうしたことだかまだ手元に届いていない。どうか早速に送ってくれるように。彦根藩の牛肉は特別に思っている」


ところが、井伊直弼の返答は、


彦根藩は牛の屠殺を止めましたので、牛肉を送ることは出来ません」


徳川斉昭の落胆ぶりは水戸藩全体に知れ渡ります。


井伊直弼彦根藩主の14男という生まれであり、元来、藩主になれる身分ではなく、僧籍に身を置いて暮らしていたという経歴を持っている。
ところが世継ぎとなるべき彦根藩の人たちが次々と死んでしまって、急遽、彦根藩主となった人物。


藩主となった井伊直弼は、仏教の禁忌を彦根藩に徹底したわけであった。
牛肉食など、とんでもない。


それでも、すぐには諦めきれないのが獣肉食好きの徳川斉昭。また使いを出す。


「屠殺を止めたのであれば、これまでのように大々的に牛肉の味噌漬けを振る舞うことは難しいことだろう。ただ、わが水戸藩彦根藩の長い付き合いがあるではないか。どうか特別に、私のところにだけでも送ってくれるようにお願いする」


「だめです」


「まあ、そう言わずに」


「だめなものはだめなのです」


何回かやり取りが続いたようだ。


徳川斉昭井伊直弼に対する「食い物の恨み」

 

 

 


水戸藩士の中には、我が御老公に、痛憤の思いをさせ、悲嘆の味を舐めさせるとは、井伊直弼とやらは、なんと悪辣千万であることか。
まさに憤懣やるかたない思いの人数も少なくなかったであろうことは、想像に難くない。


そこからさらに、徳川慶喜の二度に渡る将軍就任への妨害。
水戸藩士にとっては、妨害と受け止めていたとしても無理もないところである。


安政の大獄でのあまりにも過酷な水戸藩への処罰。
和親条約、修好通商条約の勝手な調印。


国賊井伊直弼天誅あるべし。


井伊直弼徳川斉昭へ、牛肉の味噌漬けを断ってから10年。そして永蟄居を言い渡してから1年。
1860年3月24日は、安政7年3月3日。


この日は江戸城で催されるひな祭りに総登城する日であったが、雪が降っていた。

 

 

午前9時を過ぎた頃に、江戸城へ向かっていた、江戸幕府大老井伊直弼の乗った籠が襲撃される。


雪の中を進んできた籠を襲ったのは、水戸藩士17名。薩摩藩士1名。
井伊直弼は首級をあげられたという、桜田門外の変がこれである。


原因として「将軍継嗣問題」「日米修好通商条約」をあげている記述がほとんどだが、「牛肉味噌漬け問題」は、あまり大々的に取り上げられることはない。


しかし、最初の、水戸藩士の井伊直弼憎しが始まったのは、牛肉味噌漬け問題であることは間違いのないことであろう。


ちなみに、井伊家の菩提寺は、東京都世田谷区の豪徳寺2丁目にある、招き猫で有名な豪徳寺であるが、そこから東へ、わずか300メートルほどのところ、世田谷区若林4丁目に、安政の大獄で首を切られた吉田松陰を祀った松蔭神社がある。


桜田門外の変、160年余り前の雪の日の出来事である。


もうはるか彼方の時代、160年前なのか。まだわずかに160年前なのか。


ちなみに、徳川斉昭は、井伊直弼が暗殺された同じ年、半年足らず後に蟄居のまま水戸で死去している。
心筋梗塞だったとされているが、彦根藩士による暗殺説もある。


自宅で乳牛を飼い、常に牛乳を愛飲していたという。


今の日本に獣肉食への禁忌感はまったくない。


日本三大和牛は、三重県松阪牛兵庫県神戸ビーフ、そして滋賀県近江牛とされている。


桜田門、正式名称は「外桜田門
門を出てお濠を超えると、今は警視庁のビルが建っている。


今でも3月の東京に雪が降ることはある。