ウキウキ呑もう! ニコニコ食べよう!

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【のれそれ】なにそれ? 東銀座の店で「かき揚げ」で食べたことがあるですよ

< 「ところ変われば品変わる」とは言いますけど 魚介類の名前は場所によってホント全然違いますよね >

幕末の三妖怪って言われている人たちがいます。


南町奉行を務めた「鳥居耀蔵(とりいようぞう)(1796~1873)」


佐賀藩10代藩主「鍋島直正(なべしまなおまさ)(1815~1871)」


土佐藩15代藩主「山内容堂(やまうちようどう)(1827~1872)」


大政奉還が1867年のことですから、三人とも日本の大転換期に活躍していた人たちで、勤王だ佐幕だっていうイデオロギー争いの中で、江戸幕府の内部にも政争があって、混沌としていた時期です。


妖怪って評される理由は三人それぞれですけど、共通しているのは一般的な理解の範疇を超えた行動で知られた人たちだっていうことですね。
明治3年から5年っていう、だいたい同じ時期に亡くなっています。


三妖怪に対して、幕末の四賢侯って言われる4人のオトノサマがいます。


薩摩藩11代藩主「島津斉彬(しまづなりあきら)(1809~1858)」


福井藩16代藩主「松平春嶽(まつだいらしゅんがく)(1828~1890)」


宇和島藩8代藩主「伊達宗城(だてむねなり)(1818~1892)」


そして土佐藩15代藩主「山内容堂」の4人です。

 

 

 


妖怪にも賢侯にも数えられている山内容堂っていうオトノサマは、良妻賢母として伝えられる「見性院」を妻に持つ「山内一豊」が初代の土佐藩、その15代目。


藩政に関しては「吉田東洋(1816~1862)」「後藤象二郎(1838~1897)」を登用して、薩長土肥って言われる、激動の世の中でしっかりしたポジションを占める基礎を作って、たしかに賢侯って言われるような能力を発揮している人なんですが、酒好き、女好きとしても知られているんですね。


ヒョウタンに入れた酒を常に手放さなくって、「酔えば勤皇、覚めれば佐幕」っていうような言舌で、周りがどう対応してイイか判断できないってことで、妖怪、らしいです。


坂本龍馬(1836~1867)の脱藩を許したことでも知られる山内容堂ですが、こんなエピソードが伝えられています。


坂本龍馬は江戸で軍艦奉行だった勝海舟(1823~1899)と知り合って、海軍っていうものを初めて理解します。
海外の国々に興味を持ったのも勝海舟との出会い以降みたいなんですけど、貿易っていう商業活動にも興味を示して勝海舟に弟子入りをするんですね。


勤王なのか佐幕なのか、どうもハッキリしない山内容堂土佐藩ですが、勝海舟坂本龍馬を気にいったものとみえて、伊豆の下田で山内容堂に会って、坂本龍馬脱藩の罪を許すように求めました。


坂本龍馬が日本全国を動きやすくしてあげることと、土佐藩の武士たちを海軍兵として幕府側に付けたい狙いもあったのかもですけどね。
下田に来ていた山内容堂を、勝海舟が訪ねて行ったそうです。


勝海舟が下戸であることを知っていながら、すでに酔っぱらっている山内容堂は、大盃に酒をなみなみと注いで、この酒を呑み干してみろとせまったそうです。


勝海舟っていう人もけっこうトンガッテいる人ですからね。なにせ脱藩の罪を許せっていう談判をしに土佐藩の殿様、この時には隠居していたらしいですが、山内容堂を訪ねるってぐらいのことをやっちゃう人。


ぐぐ~いって呑み干して見せた。
伊達や酔狂で言ってんじゃねえんですよ、ってなもんです。江戸っコです。


その時、山内容堂。自分の白い扇に大きなヒョウタンを描いて、その横に、


「歳酔 三百六十回 鯨海酔侯」


と書いて、許した証しとして勝海舟に渡したんだそうです。


「年がら年中酔っぱらっているよ」っていうような意味でしょうね。
「歳酔」は「にふ」って読むみたいです。
「鯨海酔侯(げいかいすいこう)」っていうのは、山内容堂が好んで使っていた自分の号。


クジラの居る海のごとくに酒を呑んで、いつも酔っている殿様、ってニュアンスでしょうかね。


この辺りのエピソードを取り上げているのが「司馬遼太郎(1923~1996)」の「酔って候」ですね。


で、それを読んで、山内容堂を歌にしたのが「柳ジョージ(1948~2011)」


曲の発売にあたって、その許可をもらおうと直接、司馬遼太郎宅を訪れて許可とサインをもらって喜んでいたっていう話はよく知られていますね。


曲のタイトルは「酔って候 無頼酒の詩」1978年の歌です。

 

♪酒と女が大好きで


♪粋な詩も雪見詩


♪いつでも酔って候


♪鯨海酔侯 無頼酒


♪鯨海酔侯 噂の容堂


聞いたことのある人もたくさんいることと思います。


明治維新後、隠居した山内容堂は、今の台東区橋場の別荘で「妾を十数人も囲い、酒と女と作詩に明け暮れる豪奢な晩年を送った」っていうことらしい「噂の容堂」さん。


家財が尽きてしまうと注意されると「昔から大名が倒産した例しがない。俺が先鞭をつけてやろう」と言ったそうです。


そんな吞んだくれの生活していた容堂さんは、やっぱり酒のせいで身体を壊して亡くなったそうですね。脳溢血だったって言われています。数え年46歳。


酒なら何でもよかったわけじゃなくって、灘の酒「剣菱」に限っていたそうです。

 

曰く「剣菱に非ずんば即ち呑むべからず」


容堂さんは剣菱のアテに、なにを好んでいたでしょうね。こだわりがありそうですよね。

 

 

 


昔から高知県を代表する珍味として知られるアテに「のれそれ」っていうのがあります。


アナゴの稚魚だそうで、正式な名前は「レプトケファレス幼生」
はあ? レプトケファレス幼生?
って感じですけれど、レプトケファレスっていうのは柳の葉っていう意味なんだそうで、透明で薄い、長細い身体のアナゴの初期幼生。


高知県イワシシラス漁の時に、一緒に網にかかって来るんだそうですけど、そんなにいっぱい獲れるものでもないんだそうです。


漁はイワシシラスが目的ですし、網の中に入っているレプトケファレス幼生は、別にされて地元の漁師だけが食べていたんだそうですね。


水揚げする際にイワシシラスはすぐに死んでしまって動かないそうなんですが、アナゴの幼生は生命力が強くって、細長い体をうねうねさせて、イワシシラスの上に乗ったり、うねうね逸れたり。


なので「のれそれ」


っていう名前の由来説があるそうです。
説得力がちょっと弱いような。。。


海を成長しながら漂っている「のれそれ」ですから、高知県以外でも穫れています。


岡山県辺りでは「べらた」淡路島辺りでは「はなたれ」って呼ばれているんだそうですよ。
はなたれ、焼酎のハナタレとは全然関係ないでしょねえ。


「のれそれ」っていう名前が特徴的ですから覚えているんですけど、だいぶ前に1回だけ、東銀座の居酒屋さんで食べたことがあります。


「のれそれのかき揚げ」


どんなだったか、もう覚えていませんが、「のれそれ」はナマで、ポン酢なんかで食べるのが旨いんだそうですよねえ。
ナマで食べたことはないです。残念です。とっても残念。

 

でも通販で冷凍の「のれそれ」が買えますよ、解凍してすぐに、ポン酢ででも、わさびしょう油ででも、どうぞ。ってなことではあるんですけど、やっぱりね、ナマっていうからには、ホントのナマでいただきたいですよね。


2月から4月ぐらいが旬だそうで、ナマとかき揚げ以外にも、玉子とじだとか、茶碗蒸しだとかっていう食べ方もあるんだそうです。


それもまた魅力的ですが、やっぱりね、ナマでいってみたいですねえ。


山内容堂の時代に、すでに「のれそれ」が土佐の珍味として食べられていたのかどうか分かりませんが、南海の妖精とも呼ばれているナマの「のれそれ」と剣菱って、合いそうですよね。


長さ数センチメートルの「のれそれ」ですけど、成長するとアナゴになるわけで、30倍ぐらいに成長。
そういう生命力の強さっていうのも旨さの魅力かもですねえ。


アナゴ、ウナギ、ハモ、長い体形が似ている彼らは、その生態がほとんど解明できていないようなんですけど、アナゴの産卵場所は沖ノ鳥島の南方沖だろうっていうことが、2008年の調査でようやく分かったみたいなんですよね。


柳の葉、レプトケファレス幼生は、随分長い旅をして日本の近海までやってくるんですねえ。
長い旅のどの辺から「のれそれ」に成長して、どの辺からアナゴになっていくんでしょうね。


アナゴも減ってきているってニュースを聞きましたけど、ん~、ナマの「のれそれ」
魅力的に思えますねえ。

 

 

 


贅沢な酒のアテ。


2月から4月ぐらいの時期に高知、行ってみたいです。
そしてナマの「のれそれ」とのご対面を願いたいのであります。


お、高知県芋焼酎「ざまに」っていうのを発見! 
とっても、すごくっていう意味の高知弁らしいですよ。「ざまに」


剣菱もイイですけど、ざまにで「のれそれ」いってみたいです。

 

 

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