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【創造力は想像力】散文を書こうと考えていろいろ想像することで しっかり創造力が鍛えられるかも

< 英語で言えばクリエイティビティとイマジネーションなんですけど 日本語では両方ともソーゾーリョクですねえ >

散文を書くって、小説であれエッセイであれ、そしてブログ記事であれ、どれもみんな創造的な作業ですよね。
クリエイティビティワーク。


さて、何を書こうかなあっていうところから始まるっていうのが普通じゃないでしょうか。
何を書こうか考え始めているからこそ、突然閃いたりするんですもんね。

 

集中して考えるっていうことも必要でしょうし、いったん全然違うことに集中してみるっていうやり方もありますよね。何かをつかむためにね。
会社帰りの電車に揺られながらとか、休みの日の散歩の途中だとか、アイディアがふっと湧いてくる、なんてこともありますし、天啓ってやつに期待しちゃいますよねえ。


そういう神頼み、みたいなことも、一度集中して何を書こうか考えたからこその結果として期待できるんじゃないでしょうか。


いろいろ想像してみたからアイディアにつながる。初めから何も考えていない人に女神は微笑まない、ですよ。たぶん。

 

 

 


散文を書くことに限らず「創造」するっていう作業の最初は「想像」するっていう脳内作業から始まるような気がします。


作家の場合、よく取り上げられる「作家のソーゾーリョク」っていうのは、イマジネーション、想像力の方ですよね。
もちろん、想像しただけで何かが出来上がるっていうことはありませんので、その想像したものを発展させて、形にするっていう創造力が伴わないと作品の完成までには至らないんでしょうけれどね。


でもまず大事なのは想像力の方なんだと思います。それがスタート。


小説なんかにもいろんな種類があって、スケベ根性で考えると、この作品の最初は想像力っていうより妄想力から始まっているんじゃないかっていうふうに思える作品もあります。
妄想するっていうことも、想像力、創造力の源泉でしょねえ。


散文世界に限って言えば、想像力と妄想力って、集合としては交じり合っているお隣りさん同士なんじゃないかって気もします。


プロダクトデザインなんかの場合ですと、想像することは必要でも、妄想までいってしまっては売り物としての形を整えることが難しくなってしまったりするのかもしれません。知らんけど。


でもまあ、散文の場合には妄想レベルまでいっちゃうのもイイんじゃないでしょうか。
荒唐無稽っていう評価は当然受けるでしょうけれども、それが面白ければ散文作品が成立するように思います。


マルチメディア的な活躍で、複数ジャンルにまたがって実に数多くの作品を遺してくれた大作家、手塚治虫(1928~1989)には、絶筆になった「ガラスの地球を救え」っていうエッセイ集があります。

 

タイトル通り、地球環境がどんどん悪くなってしまっていることに警鐘を鳴らしているエッセイなんですが、その中に「IFの発想」っていう一編があります。


「ちょっと逆説めくかもしれませんが、この世の現実から未来を見るためには、現実を見つめているだけでは、むしろその奥にある本質を発見することはできません。


1つ1つの事件、状況に想像力を届かせて、そのものの中に入りこんでみるのです。想像力は、大きな夢につながるものですが、ごく日常の現実、隣に住む人の悩みにだって、届かせることはできる。それは他人の悩みをせんさくするという意味ではありません。

 

自分以外の人の痛みを感じとるには、想像力が必要なのです」


地球に住んでいるわれわれ全員が、お互いのことに思いを至らせて、もし自分が、その人の、他人の立場だったらどう考えるのか。どう感じるのか。
そういうイマジネーション、想像力が必要だっていうことですね。


この「IFの発想」っていうエッセイは、世界平和に向けての大きなひと言として「想像力」を語っています。

 

 

 


利己的な平和、自分が楽をして暮らすために他人を害するような犯罪が急激に増えて来ている日本ですが、世界の人々どころか、隣人の平和を踏みにじってしまうような考えに、想像力なんてないんだろうと思います。


SNSで、とにかく他人を攻撃、口撃するような投稿っていうのはなかなか減らないみたいですけど、自分のその行動が他人に、ターゲットになっているその人以外の人に対しても、どういう影響を与えるか、どういう気持ちになってしまうのか。そこに思いを馳せる想像力が働いていない。


いや、そういうことをする人は、他人を、不快にすることが目的で口撃する投稿をしているんだから、いかに嫌な思いになるかを想像しているでしょ。っていう考え方もあるんでしょうけれど、そうした想像力っていうのがあるんだとすれば、そういう想像力を働かせてしまう人自身が、既に傷付いているのかもしれません。病んでいる人。


学校教育や家族環境、様々な理由から生きづらさを抱えている人も少なくないっていう、悲しい世界になってしまっているんでしょうかね。
社会的な生き物として、欠陥人間を生み出してしまっている21世紀なのかもしれないです。


悲しい利己的な想像力から創造は生まれません。他人を攻撃して自分のうっぷんを晴らす段階でストップですよね。


周りを批判することでしか自分自身のアイデンティティを保てないんだとしたら、悲惨なことですよねえ。


想像力は他人の共感を得るべく働かせた方が、心の健康にもイイように思います。


創造するための想像です。


散文作品のスタートになるような想像。そこに「ごっこ遊び」の要素を取り入れてみるのはどうでしょうか。
子どもの頃の遊び。近所の年齢の近い子どもたちが集まってワイワイやる「ごっこ遊び」


ままごと遊びとかはやったことないですけど、ドロケイとか、ケンケンパっていうおそらく一般的にルールが定まっている遊びのルールを変更しながら遊ぶ。っていうようなこと、やってませんでした?

 

そのルール変更が自分個人、あるいは自分のチームが有利になるような変更では、遊び仲間の誰からも支持されませんし、そんな変更が許容されるはずもないですよね。


そういう自分勝手な変更じゃなくって、ちっちゃな子も一緒に遊べるように、特別ルールを設けたり、ケンケンパの着地点は、ある程度年齢が上の子どもは、全部片足だけでクリアしなければいけないとか、集まった子どもたち全員が、なんとなく納得できようなルール変更。それをうまく提供するのがガキ大将の役割りだったりしましたよね。


子どもたちの昔の遊びにはローカルルールっていうのが必ずあって、隣り町の子どもたちとのファーストコンタクトでは、ルールの違いに戸惑ったりしたもんでした。


どうしてそういうルールになったのか。それを考えることもまた想像力の発揮のしどころで、頭の体操になりそうです。


ローカルルールを上手に作れるガキ大将っていましたよね。
新しくルールを設定する。とにかくそれで遊んでみて、不都合、っていいますか、あんまり面白くないぞ、ってなったら、時にはみんなでアイディアを出し合って、また新しくルールを変更する。


楽しく遊ぶため、みんなで笑い合うための工夫。
想像力のたまものですよね。

 

 

 


想像力を働かせて散文創作に挑んでいくには、人間に興味を持つことが大切だって言われています。
ま、これは大いに納得できますねえ。


好きな相手に対して、自分に興味を持ってもらおうといろいろ工夫してみるっていう経験は、おそらく誰でもしていることなんだと思いますが、そうした恋愛事情も大事ですけど、この場合の他人に対する興味っていうのは、好きな人だけのことじゃなくって、嫌いなヤツ、嫌なヤツも含めての人間全体に対する興味ってことになるんでしょうね。


嫌いなやつに対する興味っていうのは、なんでアイツはそういうことを言ったりやったりするのかを考えてみることでしょかね。


その嫌いな相手を興味を持ってよく観察してみる。
さらには、自分がその相手を嫌いだって思うのはなぜなのか、っていうメタレベルから自分自身を観察してみる。
とかね、そういう想像を働かせる。


手塚治虫の「IFの発想」っていう、もしも、っていうのはそうしたアイディア出しにも応用できるかもしれないです。


想像力こそが創造力のベース、でしょねえ。
散文をものするって、ムッツカシイです。